2023年7月26祈祷会


2023年7月26日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:マタイによる福音書18:20 (口語訳:新約29頁)

 

教派を問わず現代の日本の教会は、高齢化問題に直面しております。しかし、高齢者に視点を置いたテーマで語り合うことが少ないのではないでしょうか。今日は当事者である高齢者を中心に考えてみたいと思います。

マタイによる福音書18章は「教会憲章」と呼ばれ、主イエスにとって「教会」とはどのような場所であるのか、その「教会観」が示されています。教会とは子どもややもめ、老人や病人、特に厳しい環境に置かれていたそれらの小さき者の一人をも軽んじてはいけない所ですと、主イエスは語っています。

ある年配の方から「私たちの社会では、子ども食堂、ホームレス支援、高齢者介護施設などの活動があります。ですが、その何処にも該当しない高齢者の行き場がないのです。お茶を飲みながら話し合える所がないものでしょうか」との願いが出されたことがあります。確かに、社会的働きを終え、時間的余裕は十分にあるのに、高齢者にとって行く場がないのが現状かも知れません。その時、私が思い起こされたのは、教会でのパトモス会の働きでした。

今日与えられた聖書箇所「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」この箇所は、力強い主イエスの約束の御言葉です。大切なのは教会の交わりの中に、今も生きて働かれる主イエスがいてくださるということです。この「わたしもその中にいる」の「中」とは、「真ん中」と、訳されます。主イエスは教会の交わりの真ん中におられるのです。たとえ、二人であっても三人であっても、交わりの中心に主イエスがいてくださるのです。祈祷会、パトモス会は単なる人の集まりではなく、主イエスのおられる、主イエスの御名によって集る所なのです。

ある方の証です。 妻を無くし、子供たちは独立し、隠居の身。静かにぼんやりと日々をやり過ごしている。「これと言った目的もない。もう充分に生きた。いつ天に召されてもいい」。彼は娘にそう話していました。ところが、ある日、近所の人が子供の問題を打ち明け、それで何かが変わりました。彼はその人のために祈り、後日、福音を伝えました。そして「それが、自分にはまだ生きる目的があると気づいた経緯です。イエスを知らない人がいる限り、私は救い主のことを伝えます」。

彼が日常の普通のやり取りの中で、隣人たちに信仰を分かち合うようになると、その人たちの人生が変わっていきました。 

家族との別れの悲しみの中におられる方、病との闘いの中におられる方、孤独に耐えている方、そんな方々の中で、いまだに主イエスを知らずに、行き場を失っておられる多くの高齢者の方々へ「教会はあなたも、私も集まる所ですよ」と、呼びかけようではありませんか! 共にいる主イエスと生きる喜びと恵みを、分かち合っていきたいものです。

(横濱峰二子)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(石橋大輔牧師)

⑥「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ひかり幼稚園の働きのため。

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年7月19祈祷会


2023年7月19日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:マタイによる福音書4:1~11 (口語訳:新約4頁)

 

 今私たちは創世記を読み進めています。日曜日には、エイカーズ愛牧師のメッセージを聴き、「命の木」と「善悪を知る木」が取り上げられた箇所でした。その場面を読み進めていくと、食べてはいけないはずの「善悪を知る木」の実を、人は食べてしまいます。食べてしまう一つのきっかけとなったのは、蛇(悪魔の象徴?)に誘惑を受けたからです。今日の箇所はイエスさまが悪魔から誘惑を受ける場面であり、「誘惑を受ける」という点において、アダムやエバが誘惑を受けたことに重なります。ただし、創世記の物語とは違って、イエスさまは最後まで誘惑に負けずにいられました。どのような誘惑をイエスさまは受けたのでしょうか?そして、いかにイエスさまは誘惑を乗り越えたのでしょうか?

 ①イエスさまは「四十日四十夜」何も食べずにいました。極度の空腹を覚えていたのでしょうが、「石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑を悪魔から受けました。それに対して、イエスさまは応えました、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と。イエスさまはここで、どのような「神の言」を思い浮かべたのでしょうか?この場面の直前・・・3章17節を見ると、天から聞こえてきたこのみ言葉ではないかと私は思うのです、「これは私の愛する子、わたし(神)はあなたを喜ぶ」(新改訳は「心にかなう」を「喜ぶ」と厳密に訳しています)。つまり、人は物質的な必要を満たすことで生きるのはもちろんのことですが、それだけではないとイエスさまは反論したのです。「愛され(アガペー)喜ばれている神さまの子ども」・・・この絶対的肯定・・・神さまの言を受け続けることで、人は本当に生きるものになると言わんとしたのでしょう。

 ここで語られていることは、今も私たちを誘惑させているなぁと常々思わされます。自分の20代を振り返ると、当時の私の夢は「がっぽり稼いで、後は優雅に人生を楽しむ」というものでした。「パンだけで生きられる」という思い込みの上に成り立った夢でした。当時の僕は今以上に、自分しか目に入っていなかったと思います。けれども、20代半ばで仕事の挫折を経験し、それ自体はとても辛いことでしたが、それを通して気づかされたのは、人を生かすのは「パン(富)だけではない」こと・・・「愛と喜び」という絶対的な肯定がなければ生きられないこと・・そしてその「愛と喜び」をつながりの中で分かち合うことで本当の意味で生き生きするということです。「愛され、喜ばれている」・・・この神さまの言があれば、何度でも立ち直れる・・これを教わったように思うのです。「あなたは愛され喜ばれている」・・・このメッセージは述べ伝えねばと思い、僕は牧師としての献身をしました。

 ②次の誘惑の内容はこのようなものでした。「高いところから飛び降りてみよ・・・神さまに心底愛されているのであれば、助けられるであろう」と。③3番目の誘惑は、「サタンを拝み、世の富を得よ」というものでした。2・3番目の誘惑は、本質のところでは重なっているものだと言えるでしょう。「神さまのようになる」という共通した誘惑です。「神さまのようになろうではないか」という誘惑には、「今の自分ではダメだ」という自己否定が見え隠れしています。神さまからの愛と喜びを否定するものです。最初に「いかにイエスさまは誘惑を乗り越えたのでしょうか?」と問いましたが、イエスさまを支えたのは神さまの言でした。「愛され喜ばれている神さまの子ども」という言です。この絶対的肯定はどんな誘惑も・・どんな荒波の中でも本当の命を与えてくださるものである・・・そんなメッセージが聴こえてくるのです。                                                                                  

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

① 教会の伝道の働き・教会財政のために。

② バプテスマ・入会準備中の方々。

③ 入院/療養中/高齢で来られない方々。

④ 誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤ 主日礼拝(説教:西本詩生牧師)

⑥ 「聖書を学び合う会」の活動のため。

⑦ ひかり幼稚園の働きのため。

⑧ 弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨ 各神学校と神学生のため。

⑩ 道内の教会(無牧師の苫小牧)、ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪ 日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫ 困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年7月12祈祷会


2023年7月12日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:ヨハネによる福音書20:26~29 (口語訳:新約177頁)

 

 今日の聖書箇所は、イエスさまの十字架の後、復活のイエスさまが弟子たちに現れる場面です。トマスが注目されているところです。もうすでに、トマス以外の弟子たちは、復活のイエスさまと出会いました(19~20節)。そして、復活のイエスさまが弟子たちに現れたことは、知らされていましたが、トマスはそれを信じませんでした。他の弟子たちに告げたトマスの発言の通りです:「わたし(トマス)は、その(イエスの)手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)。頑なな性格を持つトマスなのでしょうか・・・「信じない」ことに相当たる強い意志を感じます。信じないことに、なぜ、これほどまで強い意志を持っていたのでしょうか?

 トマスは「決して信じない」と言いましたが、それは「イエスさまが復活されたことを信じない」という意味も含まれますが、「あなたたち(弟子たち)を信じない」という意味も込められた発言だと言えるでしょう。なぜなら、この時点の弟子たちの間には亀裂が生じていたと考えられるからです。主(イエスさま)を失った弟子たちは、互いに批難しあっていたかもしれません。「お前のせいでイエスは十字架にかけられた・・」、「俺はあれだけ庇ったのに、お前は逃げた・・」というような責任のなすりつけがされていたのです。というのも、キリスト教の伝統では、今日の場面は創世記2~4章とセットで読まれます。創世記2~4章では、人が善悪を知る木・・・絶対に食べてはいけないと知っていた実を食べるというところです。そこで、何が起きたかというと、責任のなすりつけでした。「あなた(神さま)が下さったあの女が僕(アダム)を誘惑してきて僕はつい・・」、「あの悪賢いへびが、何も知るはずがないこの私(エバ)をだまして・・」という創世記の場面と重なるように、イエスさまの弟子たちの関係はギスギスしていたのです。復活のイエスさまは、弟子たちの前にはじめて現れた時に、こんなことを言い残しました、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(23節)。ゆるせない罪が弟子たちの間にあり、互いに自分の罪から目を逸らしていたのです。

 このような背景を知った上で、今日の場面を読むとどのような物語が見えてくるでしょうか。トマスも含めて、弟子たちがいたその家の「戸はみな閉ざされて」いたとあります。ローマ兵やファリサイ派の人たちから隠れるために、物理的な戸が閉ざされていましたが、それだけではありませんでした。互いに対する愛の心・・ゆるし合い、弱さを受け入れ合う心も「閉ざされて」いたのです。その閉ざされたところに、「イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」のです。新共同訳では、「安かれ」は「あなたがたに平和がある ように」と、厳密に訳しています。責任のなすりつけをし、対立していた弟子たちに対して「平和があるように」と、イエスさまは最初に言ったのです。そのすぐ後に、イエスさまはトマスに接近して、ご自身の傷あとに触れさせました。そしてトマスに言いました「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。復活を信じ、こられ(イエスさま)の傷を通してなされた罪の赦しを信じなさいと告げたのです。僕が想像するには、トマスはここで泣き崩れたと思います。「わたしの主、わたしの神よ」という告白は堂々とした力強い宣言ではなく、自らの罪と向き合い、イエスさまの赦しに触れ、「主にすがるしかない」という魂の奥底からの求めであったと思うのです。イエスさまは最後に「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言いましたが、これは、これからの教会への助言だったのでしょう。イエスさまは目で見えません。それでも「閉ざされた」心を持つ私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのです。教会を結び合わせるのは、イエスさまの傷を通してなされた赦しであることを、改めて噛みしめる箇所を読めたことに感謝です。                                                                                  

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(小樽バプテスト教会との交流礼拝、説教:エイカーズ愛牧師)

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫

 


2023年7月5祈祷会


2023年7月5日(水)札幌バプテスト教会 祈祷会 

 

本日の聖書箇所:創世記1:31 (口語訳:旧約2頁)

 

 日曜日から創世記を読み始めました。こないだの日曜日には、七日間に及ぶ「天地創造物語」の最初の五日間を読み、次の日曜日には六日目・七日目を読みます。まず、「天地創造物語」の大筋を見たいと思います。創造前:混沌とした地、闇、深淵、水 一日目:光 二日目:空 三日目:乾いた地、海、植物 四日目:太陽、月、星 五日目:海の生き物、空の生き物 六日目:地の獣、人 七日目:神さまの休み

 日曜日の礼拝説教でも触れたことですが、創造物語には複数の定型句が導入されています。そのことによって一定のリズムが作られています。私が説教で注目したのは、それぞれの創造のみ業が終えられると、「神はそれを見て良しとされた」という定型句です。これが繰り返されることで、創造前のカオス(混沌)に「よし・・よし・・よし・・」という秩序が組み込まれ、この「よし・・よし・・よし・・」というリズムは、私たちの日々・・乱れてしまう日々にも見出せるものだと言わんとしているのでしょう。神さまの「よし」という思いが創造されたすべてにうち込まれているのです。

 今日は六日目のところですが、こうあります、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」。実は、六日目の前半部分では、地の獣が創造され、地の獣に対しての「良し」は既に宣言されています(25節)。六日目の後半部分では人が創造され、これで神さまの創造の働きが終わります。興味深いことに、人が創造された後は、人は個別で「良し」と宣言されず、「祝福」という別の言葉で肯定の宣言を受けます(28節)。あえて言えば、創造物語のフィナーレである人が創造されたところで、「はなはだ良い」という特別な肯定の宣言を受けるのです。でもそれは人が個別に受けているのではなく、創造されたすべてと一緒に受けるお言葉なのです。人は、創造物語の冠のようなものとして最後に造られたと言えるでしょうが、六日間を通して創造されたすべてのよいものに人は支えられなければ生きられないというメッセージがここにあります。被造世界(自然)を大事にする責任があるのです。加えて、人は、祝福された創造物として、今度は被造世界を祝福する・・祝福を分け与えていく期待が込められているのです。そもそも、祝福は自分(たち)だけに留めてしまえば、それは“祝福”とは呼べないのでしょう。ため池に溜まった水のように腐敗してしまいます。嬉しいことは、分かち合っていくことで、なお一層嬉しさを感じ取れるのでしょう。自然世界も含めて、他者の祝福となるために、私たちは祝福されていること・・このことを覚えていたいと思わされます。               

 小さい試みですが、教会裏に畑が耕されています。パセリが収穫時期を迎えていますので、先週のお弁当プロジェクトのお弁当に添えられました。自然と触れることで、私たちは、自分という小さい殻から抜け出し、もっと壮大な神さまの創造された世界の中で生かされていることを思い出すことができるように思うのです。                                                                                   

(西本詩生)

 

≪祈りのリクエスト≫

①教会の伝道の働き・教会財政のために。

②バプテスマ・入会準備中の方々。

③入院/療養中/高齢で来られない方々。

④誕生日・バプテスマを迎えた方々。

⑤主日礼拝(説教:西本詩生牧師)

⑧弁当分かち合いプロジェクト(毎週金曜)。

⑨各神学校と神学生のため。

⑩道内(無牧師の苫小牧)ハワイ・オリベット教会[姉妹教会]のため。

⑪日本と世界の平和のため(ウクライナとロシア、香港、ミャンマー)。被災地のため。

⑫困窮した生活を送っている人たち、孤独や苦しみの中に置かれている人たちのため。

 

≪私の祈りのリクエスト≫