『 移ろう世 ぶれぬ言葉が 道となる 』
招詞:詩篇119:105 聖書:テモテへの第二の手紙3:10~17
2026年6月21日(日)
子どもメッセージ
みんなは、どこで、どんな時に、聖書のことばに出会いましたか。幼稚園で? 教会で? 今日は、僕がはじめて聖書と出会った時のお話をします。
僕は小学生のころ、台湾という国に住んでいました。そのころ、家族はだれも聖書を知らず、教会にも行ったことがありませんでした。でも、僕と兄が通っていた学校は、牧師さんの子どもたちのために作られた学校で、毎朝「聖書の時間」がありました。聖書を覚える宿題があり、テストにも出ました。6年生のころには、たぶん100か所くらい覚えていたと思います。今では、どの聖句を覚えたかはほとんど思い出せません。でも、一生けんめい聖書を覚えたことだけは、はっきり覚えています。小6のとき、家族4人でバプテスマを受けました。でも数か月後、シンガポールという別の国に引っ越すことになりました。新しい学校には聖書の時間がなく、聖書を開くことも少なくなっていきました。そのまま高校、大学へ進み、22歳で仕事に就きました。順調でしたが、世界中が大さわぎになった「リーマンショック」で、僕は突然仕事を失いました。
その時、こう思いました。「え? 人生ってこんなに簡単に崩れちゃうの?」まるで立っていた地面が、じゅうたんみたいに引っぱられたようでした。自分の力だけでは立てない時があるんだと気づきました。そこから、少しずつ教会に行くようになり、ほこりをかぶった聖書も開きました。分からないことばかり書いてあったけれど、子どものころに感じた安心を思い出すことがありました。「大丈夫。わたしが一緒にいるよ。」そんな神さまの声を聞いたような気がしました。今ふり返ると、「聖書があって本当によかった」と心から思います。
私たちの教会は73年間、雨の日も雪の日も、聖書を開いてきました。ひかり幼稚園も72年間、子どもたちと聖書を読んできました。先生たちみんな、毎朝聖書を読み、祈っています。いい時も、そうでない時も、聖書はいつも私たちを支えてくれます。
これから、いろんなことがあるでしょう。嬉しいことも、悲しいことも、びっくりすることも。でもね、聖書はどんな時でも、あなたもわたしも支えてくれます。「聖書があってよかった」と思う日が、これからも続きますように。
パウロとテモテの時代:揺らぐ世界
先ほどお話ししたように、私自身も、人生そのものが大きく揺らぐ経験をしてきました。「え? 人生って、こんなに簡単に崩れるんだっけ?」と呆然としたあの感覚。それは、いまを生きる私たちの胸にも、どこか深く通じているものだと思うのです。
現代では、AI(人工知能)の急速な発展が、産業革命以来とも言われる大きな職業変革をもたらそうとしています。家庭や企業、社会のあり方そのものが、私たちの想像を超えるスピードで変わっていく。身近に感じていなくても、「ついこのあいだまで頼りになったものが、今日にはもう通用しない」そんな不確かさを覚えることがあるのではないでしょうか。私たちは今、ますます深まっていく揺らぎのただ中を生きています。
しかし、今日の聖書が書かれた時代も、驚くほど似た空気をまとっていました。著者パウロは、ローマの冷たい牢獄で鎖につながれ、死を目前にしていました。その不条理の中で、彼は愛する弟子テモテの行く末を案じ、この遺言のような手紙を書き進めました。
パウロがここで語っているのは、自分が味わった迫害や裏切りの痛みだけではありません。彼を最も苦しめ、悲しませたのは、社会全体を覆う「悪の前進」という現実でした。13節にはこうあります。「悪人と詐欺師とは、人を惑わし、人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」それは、一握りの人間の都合やエゴによって、本来変わってはならないはずの“真理”が簡単に書き換えられていく世界です。誠実に生きようとする者が置き去りにされ、要領よく立ち回る者だけが前に進んでいく。若き指導者テモテもまた、いまの私たちと同じように、自分の立っている地面がズルズルと引き抜かれていくような、激しい揺らぎのただ中に立たされていたのです。
テモテへの遺言:揺らがないものにとどまれ
そのように、周りのすべてが揺れ動く世界を描いたあとで、パウロは14節でテモテに向かってこう語ります。「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、とどまりなさい。」この短い「しかし、あなたは」という言葉には、次世代への熱い期待が込められています。周りがどれほど流されようとも、時代がどれほど激しく変わろうとも、「しかし、あなたには御言葉がある。だから、その道を歩んでほしい」という、確信に満ちた遺言のバトンです。
ここで言う「とどまる」とは、変化から目を背けて殻に閉じこもることではありません。激しい嵐のただ中で、ズルズルと流されずに立ち続けることです。それは私たちの力で踏ん張るというより、嵐の中でキリストが私たちをしっかり捉えてくださっている真実を思い出すということです。
では、私たちがとどまるべき「確かさ」とは何でしょうか。パウロは15節で、その土台にある聖書の決定的な力を語ります。口語訳では「キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵」とありますが、原文はより深い意味を持っています。正確には、「キリスト・イエスに“対する”信仰」ではなく、「キリスト・イエスに“ある”信仰」です。
もし「キリストに対する信仰」であれば、矢印は「『私』から『キリスト』」。すると、「私がどれだけ強く信じられるか」「私の信仰がどれほど純粋か」という、人間側の努力が中心になります。しかし、激しく揺れる時代の中で、私たちの“信じる力”もまた揺れてしまうのが現実です。
けれど聖書が語るのは、「キリストの中にある信仰」です。それは、キリストという絶対に揺らがない“領域”の中に、私たちがすっぽり包まれているということです。私たちの信じる力が揺れても、キリストの真実は揺らぎません。たとえ不安で震えていても、私たちを外側から包むキリストの愛と真実は1ミリも揺らぎません。だから、「大丈夫」なのです。イエスさまが一緒だから、大丈夫なのです。
ノンクリスチャン作家が語る「聖書の救い」
ここで、一人の作家の言葉をご紹介したいと思います。ノンフィクション作家の最相葉月(さいしょう・はづき)さんです。彼女は日本各地のキリスト者の人生を3年間にわたって取材し、その成果を一冊の著書にまとめました。それが、日本の大手出版社であるKADOKAWAから刊行された『証し―日本のキリスト者』です。この本には、かつて私たちの教会で牧会された奥村敏夫牧師の姿も記されています。先日の北海道連合信徒セミナーでも紹介され、深く心に残りました。
最相さんご自身はクリスチャンではありません。しかし、作家として長年、無数の人生相談に向き合う中で、ある確信に至ったと言います。「相談されたほぼすべての悩みに対する応答や対話は、すでに聖書の中に含まれている」「だからこそ、キリスト教会は必要なのだ」と。家庭の葛藤、職場の行き詰まり、孤独、そして喪失。時代がどれほど移り変わっても、人間の「傷つき、迷い、希望を求める」という本質は変わりません。聖書は、私たちの現実に後から追いつくのではない。何千年も前から、人間の現実に先回りし、その芯に触れる“生きた知恵”を蓄えている――最相さんはそう語るのです。明確な信仰の告白は持たなくとも、この揺れ動く世界の中で、聖書の言葉がどれほど確かな拠り所となり得るか。彼女は誰よりも深くそれを確信し、文字通り「証し」をしてくれているように思います。
「義」と「良い業」
最相さんの言葉の通り、聖書は私たちの現実に先回りし、個人の悩みや葛藤を丸ごと包み込む「圧倒的な安心」へと招き入れます。しかしパウロは、そこで語りを終えません。16節から17節にかけて、彼は聖書の働きをさらに深く掘り下げます。神の息吹が吹き込まれたみ言葉は、私たちが安心の殻に閉じこもるためのものではない。「教え」、「戒め」、「正し」、「義への導き」を施す言葉だとパウロは語ります。そして重要なのは、これら四つが別々の働きではなく、すべて 「義に導く」ための一つの流れ だということです。
聖書が語る「義」とは、自分一人が救われて満足することではありません。神さまの前で、隣人と共に生きることです。そして、神さまの愛の姿が、ほんのわずかであっても、私たちの具体的な歩みの中に“形”となって現れていくことです。だからこそ聖書は、激しく揺れ動く世界の中で、決して揺らぐことのない「道」そのものを指し示す言葉なのです。
『マニフィカ・フマニタス』にみる「義の道しるべ」
では、この激しく揺れ動く現代社会において、聖書が指し示す「義の道」とは、具体的にどのような歩みをいうのでしょうか。まさに先月、ローマ・カトリック教会が『マニフィカ・フマニタス(大いなる人間性)』という、現代社会に向けた極めて重要な公式文書を発表しました。その中心にあるのは、「人工知能(AI)の時代に、私たち人間はどう生きるか」という、現代を生きる私たちの地続きの問いかけです。
この文書は語ります。AIをはじめとする新しい技術は、どこまでも道具にすぎない。それゆえ、ただ盲目的に恐れたり、逆に神のように盲信したりしてはならない、と。そして、今私たちは一つの「決定的な選択」の前に立たされている、と警鐘を鳴らします。
選択肢の一つは、技術を一部の強者が独占し、人間を単なる「データ」や「労働力」として切り捨てて格差を広げていく道。いわば現代の「バベルの塔」を築く道です。しかし、聖書が指し示すもう一つの道は違います。機械がどれほど進歩しようとも、神さまに愛された存在としての「人間の無限の尊厳」を絶対に守り抜き、すべての人の足元を支える「共通の善(コモン・グッド)」を追求する道です。技術はどこまでも、一握りではなく、人類を幸せにするために使われなければならない。しかもその出発点は、社会の中で最も小さくされた命であるべきだと、この文書は強く訴えかけているのです。
さらに、カトリック教会自身が過去に犯した過ちにも率直に目を向けています。「かつて、教会自身が奴隷制度を正当化し、人間の尊厳を傷つけてしまった歴史的な罪」を厳粛に認め、前例のない正式な謝罪を行いました。自らの過ちを隠さず、その痛みを引き受けながら、不変のみ言葉に照らされて自らも「正され」ていく。これこそが、いまを生きるリアルな「義の道」ではないかと、私たちは強い挑戦を与えられます。
キリストの福音が私たちに「大丈夫だ」と宣言してくれるのは、私たちが世間から目を背けて逃げ込むためではありません。激しく移ろう世界のただ中で、「人は神さまにかたどって創られた。侵すことのできない最高の尊厳を与えられている」という真理を、この地上で具現化していくためです。
それは、たいそうなことではなく、私たちの日常の中で始まります。今、目の前にいるその人に与えられた「神さまの光」を丁寧に、大切に見つめていくこと。そこから、私たちの「義の道」は一歩ずつ、確かに始まっていくのです。
示される「義の道」
札幌バプテスト教会の73年、そして、ひかり幼稚園の72年の歩みは、良い時も悪い時も、雨の日も、大雪の日も、ただひたすらみ言葉を開き、養いを受け続けてきた歩みです。それは、何千年もの間、信仰の先輩たちによって手渡されてきた“ぶれないバトン”を、この札幌の地で私たちが受け取り続けてきた、ということでもあります。
昨日のバザーでも、私はそのバトンの一端を、見せられたと思っています。多くの方が足を運んでくださいましたが、帰り際にバザーに来てくださった方とお話しする機会がありました。その方は、私にこうおっしゃってくださいました。「ここの教会に足を運ぶと、自分が自由でいられるのが嬉しいんです。今年もありがとうございました。」この言葉をいただき、嬉しくなりました。私たちの教会が、決して完璧だからではないのでしょう。けれど、この教会が、誰かにとって「自分らしく、自由でいられる場所」だと感じてもらえたということ。この一言は、私たちの教会が小さくとも、確かにひとりの尊厳を重んじる「義の道」を歩んでいることの、何よりの“証し”であったと思うのです。
聖書は、ただ「読むための本」ではありません。私たちの前にある「歩むべき道」を開く言葉です。私たちをキリストの中にしっかりと立たせ、そこから、自分自身も、そして他者も、互いの尊厳を重んじる「義の道」へと、私たちを送り出す言葉なのです。私たちの周囲がどれほどズルズルと流され、揺れ動こうとも、私たちを丸ごと包み込んでいるキリストの愛は、決して揺らぎません。「移ろう世 ぶれぬ言葉が 道となる」この変わらない神さまからの言葉をしっかりと胸に抱き、「聖書があって本当によかった」と互いに語り合いながら、今日もまた、隣人と共に新しい一歩を踏み出していきましょう。
(牧師・西本詩生)
