『 十字架のもとで 』

イザヤ書53:5~6

ヨハネによる福音書19:17~37

2024年3月24日(日)

 

子どもメッセージ

 今日は「しばてん」という絵本を読みたいと思います(田島 征三「しばてん」偕成社)。登場するのは「しばてん」という妖怪です。絵本では妖怪のことを「ばけもの」と呼んでいます。そしてもう一人、「太郎」という人が登場します。絵本の題は「しばてん」ですが、太郎が主人公です。

 

たろうは、なかない あかんぼうだった、ふんづけても、たにそこへ、けおとしても、けろりと している。 おやなし子と いわれても、すて子と からかわれても、けっして なかない 子どもだった。 その たろうが、うまの とめきちを みたとたん、 ぎゃっと ないた。 たろうの しりっぺたには、おまけに、ひづめの かたちの あざが あったので、「こいつは、しばてんの うまれかわりや ないやろうか。」 だれかが こっそり、そう いった。 

たろうは にんげんの 子だから、ばけものの しばてんでは ない。

しばてんは ばけものだから、にんげんの 子の たろうでは ない。

 

その しばてんは、すもうが すきで、まいばん 村の みちに あらわれては、「おんちゃん、すも とろ。」と いって、ひゃくしょうを なげとばす。

なげとばされた ものは、その あしたから 足 こしが たたなくなって、ひと月も のらに でられない。

 

そこで、村じゅう よりあって、「しばてんを やっつける、なんぞ よい ては ないかのう。」と そうだん ぶって、「しばてんの かまえちょりそうな よみちに、あばれうまの とめきちを はなして みるかよ。」と きめた。

その よるも、しばてんは、どての 下に しゃがんで、すもうの あいてを まっていた。「こんやは、ちかごろ おもいついた すくいなげの うまい てを ためしてみちゃろ。」と じりじりしていたもんだから、くらやみを とんできたのが とめきちだとは、きづく はずが ない。「おんちゃん、すも とろ。」と とびかかっていった とたん・・・

 

この しまつ。 しばてんは とおく とおく、やみの かなたへ きえた。そのあと、よみちで しばてんに であったものは いない。 村の はずれに、あかんぼうの たろうが すててあったのは、この できごとの すぐ あとの ことである。

 

たろうは 村人たちに そだてられ、すもうばかり つよい がきたいしょうに なった。

 

あるとしの 秋まつり、かちぬきずもうの どひょうへ、はじめて たろうが のぼった。「こりゃ ちび、でべそ ひきぬかれんうちに おりて きぃ。」 ところが、たろうの つよいこと。 つぎつぎと 村じゅうの わかいしゅうを なげとばしてしまった。

 

それが、その あしたに なると、たろうと すもうを とった ものは みな、足 こしが たたなくなって、のらに でられない。 「たろうは しばてんの うまれかわりじゃ。」ひそひそごえが だんだん 大きくなって、「みなで こめつぶ だしおおて そだててきたけんど、 こんな きみわるい ばけものは 村にゃ おけん。」と、きっぱりと ちょうじゅさまが いうと、みな ぼうぎれ もって、さわぎだした。

たろうは、むらから おいたてられ おいたてられ、えぼし山に おいあげられてしまった。

 

月日は ながれた。たろうは 木の み、くさの ねを かじって、それでも なんとか いきていた。 けれども あるとき、にんげんに あいたくなった。

 

ことしは、日でりつづきだった。 たろうがこっそり 山から おりて きてみると、田んぼは かれ、村には たべものが なかった。 村人たちは 木の み、くさの ねを うばいあって いきていた。

 

ところが どうた。 ちょうじゅさまの やしきを のぞいてみれば、こめも やさいも ありあまる。 ほねだけみたいな 子どもが いった。「はらが ひついて、 しにそうじゃ。」 ははおやが いった。「ややこを たすけとうせ。 おちちが でんきに。」 びょうにんと としよりが いった。「おかゆでも ええきに。」 ところが どうだ。 ちょうじゅさまは、 ひえ ひとつぶも くれやしない。

 

そこで 村じゅう よりあって、そうだん ぶって「このままじゃと、としより、がきらは しんでしまうぜよ。」 「くらを うちこわそう。」と まとまった。 やせた 手には、くわを もった。 くぼんだ 目だまは、ぎろぎろ ひかった。 だが、はらを へらした ひゃくしょうたちは、くらに いきつくまえに へたばってしまった。 そこへ、ちょうじゃの くらの ばんにんどもが、どっと おそいかかってきた。

 

とつぜん、ひゃくしょうの 中から、たろうが とびだした。 「しばてんが たすけに きたぜよ。」と さけんで、たろうは、ばんにんどもを なげとばした。 「しばてんが でたあ。」ばんにんどもは きみわるがって にげまわる。 ひゃくしょうたちは、よろこんで、「しばてんが きたぞう。」と ゆうきづいた。 だが、ちょうじゃさまだけは、「こわがるなちゃ。 こいつは たろうじゃ。」と さけんで、とびかかってきた。 たろうは、 ちょうじゃさまを そらの かなたへ なげとばした。

 

はこびだした こめだわらは、みんなで わけあった。 だれも かれも、はらいっぱい たべられるように なって、 たのしい 日びが、また 村に かえってきた。 たろうは、村人たちに ひきとめられて、また 村に すむことに なった。

 

しばらくたって、やくにんが 村へ きて、「ちょうじゃの くらの こめだわらを ぬすんだ やつは、だれだ。」と よばわった。 ひゃくしょうたちは、だまっていた。

「ちょうじゃの こめを くった やつは、だれだ。」やくにんが、また どなった。

みなは、ふるえながら かんがえたのは、しばてんの ことだ。

あいつは ばけものだから、やすやすと なわを ぬけられるだろう。うちくびに なっても、にいっと わらって、いきかえるに ちがいない、と 村人たちは おもった。

「しばてんです。」 「しばてんが ぜんぶ やりました。」と、くちぐちに こたえた。

 

たろうは、やくにんに ひきたてられていって、そのまま かえってこなかった。

秋まつりが くるたびに、村人たちは、いなくなった たろうの ことを おもいだす。 じぶんたちの こころに、いつからか すんでいる しばてんの ことを おもいながら。

 

 決して美しいカワイイ絵が描かれた作品ではないと思います。内容は軽いものではありません。けれども、読めば読むほど、引かれる何か・・・生きるためのヒントとなる何かがこの絵本に込められているように思えてなりません。

 村人たちが、太朗を役人に引き渡したとき、どういう気持ちだったのでしょうね。そして、時間が経ってから、太朗のことを思い出した時、どういう気持ちになったんでしょう。

 この絵本を読むとき、僕が村人であったらどうだったんだろうと考えることがあります。そして、その村人たちを観ると、自分の弱さ・・・僕の中にある「人間のずるさ」というものがよく見えるような気がします。都合のいい時には相手を受け入れ、都合が悪くなると突き放す・・・身勝手さ。立場の強い人の一言で、自分の思いを曲げてしまう・・・弱さ。本当は自分にも責任があるのに、だまって知らん顔をする・・・ずるさ。太朗を引き渡したその日、「よーし、ずるいことをするぞ」という思いで、一日を始めた村人は誰一人いなかったはずです。でも一日が終わった時には、みんなを助けてくれた太朗・・・みんなをお腹いっぱいにしてくれた太郎を、「ばけもの」扱いし、突き放したのです。そして、太朗はそのまま、帰ってこなかったのです。

 世界中の教会で「受難週」と呼ばれる一週間を今日から過ごします。イエスさまが十字架に向かわれた時に・・・そして十字架にかけられた時に、どれだけの苦しみを受けたのか・・・このことを思い巡らす一週間です。十字架は美しいものではありません。イエスさまがそこで生命の終わりを迎えたのですから、十字架のお話は明るい軽いお話ではないと思います。けれども、そこに思いを寄せる度に、引かれる大事なものが見えてくると思うのです。

 十字架の周りにいた人たち、そして、イエスさまが十字架にたどり着くまでにいた周りの人たちの姿には、人のずるさや、弱さが映し出されているように思えるのです。僕のずるさ、身勝手さと重なるように映し出されているように思えるのです。

 人のずるさや身勝手さは・・・一言二言では言い表せないものを生み出してしまいます。先ほどの絵本のことで言うと、最後に連れてかれた太郎の心の傷はどれほどのものであったのかを考えるわけです。村人たちは、自分たちがしたことのうしろめたさという心のしこりを、一生ぬぐえなかったかもしれません。それに加えて、役人たちのずるさに振り回される苦労はいつもつきものでした。

 イエスさまは十字架にかかり、人の身勝手さのゆえに生まれてしまう痛みと傷を全部背負ったのです。一切背負わなくてもよかったのですが、率先して背負ったのです。私たちには負えきれないと分かっていたので、私の分も、あなたの分も背負ったのです。それほどまで、一人ひとりのことが大事で、大切なのです。このようにして、イエスさまは十字架で愛を「成し遂げられた」と聖書は言います。人のずるさや愚かさはイエスさまの愛を止めることはできませんでした。神さまの愛が罪に勝ったのです。

 私たちは罪につまずいてしまう時があるのでしょう。自分の愚かさのゆえに立ちすくんだり、人の身勝手さに振り回され、何もかもあきらめたくなることがあります。事が大きすぎて複雑すぎて、「しょうがないのかな」と流してしまうことがあるように思うのです。だからこそ、私たちは十字架のもとに集められるのでしょう。今日も私たちは、この礼拝で、イエスさまの十字架のもとに集められました。そして、十字架のイエスさまは私たちに語りかけてくださいます。「あなたが負っているその痛み・・・あなたが引きづっているその記憶・・・それは私の痛みであり、私の記憶なのです。もう独りで脅えなくていい。私と一緒に立ち上がってみないか。愛することをあきらめないで、次の一歩を踏み出してみないか。神さまがあなたを愛することをあきらめないのだから、次の愛の一歩を踏み出そう。もうすでに、愛は成し遂げられたのだ。」。このみ言葉があるから、私たちは十字架のもとにたえず集められ、ここから「愛することを諦めない」日々に押し出されていくのです。

 

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 

 


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