『 地に足をつけて、神さまの幻を見続ける 』

エレミヤ書33:1~3

エレミヤ書33:10~16

2024年11月24日(日)

 

子どもメッセージ

  先週のお話では、エレミヤさんが宮殿で監禁されていたことが紹介されました。今週の場面でも、エレミヤさんは同じ状況にあります。監禁されるということは、エレミヤさんにとって窮屈であったと思います。外出はできず、やること、言うことは全て筒抜けでした。ささやき声で話すこともできません。すべてバレバレです。やりたいことが沢山あったと思いますが、思うようにできなかったと思います。その状況の中で、エレミヤさんはある夢が与えられました。ここでいう夢とは、夜、寝る時に見る夢とは少し違います。近い未来にどのようなことが起こるのか、どのようなことが起こってほしいのか、神さまがしてくださることを物語る夢でした。このような夢のことを、聖書では「幻」と呼びます。そして、その幻でこのようなことが描かれたのです。

 町は焼き尽くされ、動物も人もいなくなってしまい、すっかり寂れた町となってしまいます。ささやかな声さえも聞こえなくなるのです。そのような町は、もはや町とは呼べません。建物は沢山あるものの、命の気配すらないのです。しかし、それで終わるわけではありません。やがて、笑い声が飛び交い、結婚式の喜びの声が響き渡るようになるのです。その時、人々は皆神さまを讃美するでしょう。町の外を見れば、羊とその羊飼いが戻ってきて、人々は安心して過ごすことができるようになります。

 これが、監禁されていたエレミヤさんが見せられた幻でした。この幻は神さまが与えてくださったものでしたが、それをいくら伝えても、人々には受け入れられませんでした。エレミヤさんが見せられた幻は、最終的に喜ばしい明るい未来を描くものでしたが、一旦は苦しい時期を過ごすことも同時に語られていました。人々が求めたのは、一刻も早く悩みから解放されることでした。さらに困難な時期に入るという幻を、誰も受け入れたくなかったのです。たとえその苦しみの後に明るい未来が来ることを知っていても、受け入れがたいものでした。

 エレミヤさんは、神さまからいただいた幻がいずれ実現することを信じていました。しかし、その他の人々はそれを信じたくありませんでした。だからと言って、当時の人々が「夢」や「幻」を全く見ていなかったわけではありません。大多数の人々が信じていたのは、「大丈夫だ。町はすたれない。今までも守られてきたし、今回も神さまが守ってくださる。」というものでした。しかし、それは現実を無視した幻でした。いわば、宙に浮いた夢・・・現実離れしたものだったのです。町は既に何度も大国の軍隊に攻撃されていました。今日のお話の場面から約1年が過ぎた時に、神さまの幻の通り、町は焼き尽くされてしまいました。

 エレミヤさんが見ていた幻と、その他の人々が見ていた幻はどのように違うのでしょうか。もちろん、エレミヤさんの見ていた幻は神さまからいただいたものであると聖書は言っていますので、それが最も大きな違いだと思います。しかし、エレミヤさんも、その他の大多数の人々も同じような信仰をもって、それぞれの幻を信じていました。その信仰とは「神さまは善いお方である」というものでした。エレミヤさんはこう信じていたと思います。「神さまは善いお方である。だからこそ、さらに苦しい時期に入るものの、明るい未来が来る。」そして、エレミヤさん以外の人々はこう信じていました。「神さまは善いお方である。だからこそ、明るい未来が来る。」案外、それほど違いはありません。とても似ています。文字数で言うと20文字にもならない違いですが、「苦しい」という考えが入るかどうか・・・これが決定的な違いだと聖書は言うのです。

 つまり、神さまが善いお方であるからと言って、苦しいことがなくなるわけではありません。悲しいこともあるし、受け入れ難いこともあります。しかし、そこで全てが終わるのではなく、明るい未来が神さまによって与えられるのです。その「受け入れ難い」ことの中から、明るい未来が見えてくるのです。僕らが信じたいのは、今すぐに悩みから解かれることなのでしょう。ですので、エレミヤさんの時代の人々の気持ちは痛いほど分かります。「神さまは善いお方である。だからこそ、明るい未来が来る。」と僕も信じたいです。しかし、エレミヤさんの幻に秘められた信仰とは、「神さまは善いお方である。だからこそ、さらに苦しい時期に入るものの、明るい未来が来る。」というものでした。

 そもそも、エレミヤさんが監禁されていた状況の中で、幻が与えられたことは、今説明した信仰の違いをよく表していると思います。エレミヤさんは自由に身動きができませんでした。常に監視されていました。窮屈な状況にあったのです。近い未来に町が焼き尽くされる苦しい状況と重なるように、エレミヤさんは監禁された状況の中で苦しい生活を送っていました。しかし、その苦しさに押しつぶされず、むしろ当時の人々が望んでいたもの以上の明るい未来を見ていたのです。笑い声が飛び交い、結婚式の喜びの声が響き渡り、神さまを讃美する声が日常の中で聞こえてくる、明るさに溢れる未来です。

 エレミヤさんに与えられた幻には続きがあります。皆さんは「ひこばえ」が何であるか分かりますか?木が切り倒された時、切り株が残ります。もう木は生えてこないと思いきや、その切り株から新しい芽が出てくるのです。死んだはずの木から出てくる新しい芽を「ひこばえ」と言います。エレミヤさんの幻には「ひこばえ」が出てきました。つまり、切り株は行き詰まって苦しむ人々を描いていました。でもそこから、新しい芽が出てくるのです。キリスト教会は、この新しい芽である「ひこばえ」とイエスさまが重なるのではないかと信じてきました。なぜなら、イエスさまは私たちの苦しさを一緒に背負ってくださるからです。行き詰まる私たちを独りにはしません。その苦しさに押しつぶされそうな私たちの重荷を背負い、立ち上がらせる力を与えてくださるのです。「もうおしまい!」と思ってしまっても、イエスさまは続きを与えてくださいます。このイエスさまと「ひこばえ」が重なるのではないかと教会は二千年間信じ続けてきました。

 エレミヤさんは、監禁されたゆえにしんどかったと思います。エレミヤさんのあだ名は「涙の預言者」です。自分の苦しい状況だけでなく、これから町が焼き尽くされてしまうことを思う度に、涙を流しました。けれども、その悲し涙に押しつぶされることなく、なお、明るい未来を見続けることができた秘訣は何であったのか。それは、神さまがその苦しさと混乱のなかで、一緒にいてくださるという確信だったと思います。神さまも、涙を流し、行き詰まりと苦しさを共に背負ってくださるという確信でした。そして、やがて、神さまが、その重荷から自由にしてくださることを知らされていたからだと思います。

 神さまはエレミヤさんを通して、当時の人々に幻を与えました。同じように私たちにも幻が与えられています。でもそれは単純に「明るい未来が与えられる」という幻ではないのでしょう。むしろ、悩みとか、悲しみとか、どちらかというと受け入れ難いことを通り抜けることで見えてくるのが神さまの幻ではないかと思います。そうだとすれば、教会が必要としているもの・・・多方から持ち寄られることを願うものとは、悩みとか、悲しみとか、どちらかというと受け入れ難いことなのではないかと、今日のエレミヤさんのお話を通して思わされるのです。

 

神さまに出会わされるということ

 皆さんはキリスト教会・・・イエスさまの教会に何を求めているでしょうか。礼拝をささげることに、何を求めているでしょうか。漠然とした質問ですので、すぐに答えが出るものではないかもしれません。ある人はこう言うかもしれません。「一番求めているのは深い平安です。」また別の人は、「力づけられることを求めています。希望を求めているんだ。」と言うかもしれません。さらに別の人は、「心が洗われるような、深い赦しを求めています。」と言うかもしれません。

 私が神学生の時に、神学生仲間でこのテーマで話し合ったことを思いだします。分かったことは、人それぞれ求めていることは、重なるものもあれば、全く違うこともあるということでした。同じ人でも、直面している状況が変われば、求めも変わるのです。100人いれば、それぞれちょっとずつ異なる求めがあるということです。多様な求めがあることを確認したうえで、その幅広い求めが満たされるきっかけは何であろうかと神学生仲間で考えました。この探求に対しても、多様な答えがあることが分かりましたが、共通したものが浮かんできたのです。様々な求めがあるものの、それを満たすのは、「神さまに繰り返し出会わされることではないか」という共通した考えが浮かび上がってきたのです。神さまに出会わされることで、平安が与えられ、力づけられる、赦しを得られる。このように話が進んでいく中で、ある先輩がこう言ったのです。「神さまに出会うことで、求めが満たされることを僕も経験してきた。けれども、満たされると同時に居心地悪さも感じるんだと思う。神さまと出会うって、多面的ではないだろうか。」と。先輩がこのように言葉にしてくれたことは、とても印象深いものでした。

 思えば、聖書で描かれる「神さまとの出会い」は、常に求めが満たされることが物語られていません。特に、神さまの働き人が召命を受ける場面では、ほとんどの人は断ろうとします。大預言者エレミヤでさえ「私は若すぎます」と答え(エレミヤ1:6)、最初は神さまからの招きを受け入れませんでした。それだけ、神さまとの出会いという出来事は異質であり、居心地の悪さを感じさせる一面があるのだと思います。イエスさまの弟子たちは、一人残らず十字架の出来事でつまずきました。私たちは、イエスさまの十字架に救いを見出し、その意味でイエスさまの十字架において深い満たしを得ます。しかし同時に、弟子たちと同じように居心地悪さを覚えるのではないでしょうか。

 今日のエレミヤ書33章の幻は、当時の人々には受け入れ難いものでした。その時代に生きていたら、エレミヤの預言を拒絶していたのではないかと思わされるのは私だけでしょうか。ついつい、居心地よいものに引かれるのでしょう。もちろん、預言者エレミヤが見せられた幻には、真の居心地良さが秘められていました。けれども、それは、受け入れ難い苦難もセットであったため、拒絶されてしまいました。

言うまでもなく、神さまが最も意図しているのは苦難を与えることではありません。真の安らぎや赦し、力と希望を見出してほしいと、善き神さまは願っているのです。他では絶対得られない、びっくりさせられるほどの喜びに満ちた幻の実現を見させてくださるのが神さまです。でも、そこに至る道筋は、自分たちだけで選ぶような、安易な道ではないだろうというのが、聖書で繰り返し物語れていることです。 

 

世界バプテスト祈祷週間に思いを寄せて:「リビング・フィールド」という幻

 今日から8日間、女性会の呼びかけで、世界バプテスト祈祷週間を過ごします。世界宣教を覚えて祈りを合わせる時です。

 私たちは、今年の6月に、カンボジアバプテスト連盟で働かれている嶋田宣教師ご夫妻との交わりが与えられました。礼拝説教と午後の講演会をお聴きする中で、カンボジアの子どもたちへの伝道活動に、ご夫妻が力を入れておられることが伝わってきたと思います。そして、近頃は、ある地域からの子どもたちが教会に出入りするようになったという話がありました。その地域とは、経済的に貧しく、多くの子どもたちは教育を十分に受けられていないというのが現状であることが紹介されました。

 カンボジアは、1970年代の後半に内戦に陥ってしまいました。たった4年間のポルポト政権の下で、国民の四人に一人が命を失い、とても悲しい歴史を持っています。このような状況のなか、人々が無差別に処刑されてしまうことを物語る「キリング・フィールド」という言葉が、カンボジアと結びつけられるようになりました。そして、ポルポト政権は、教育を徹底的に破壊しました。教師たちは迫害され、人々に考えることを止めさせたかったのです。教育は避けるべきものだという考えが、その当時普及させられたため、未だに、教育に対する抵抗が根強いこともお話の中で紹介されました。

 その、経済的に貧しい地域から来ている子どもたちを教会で受け入れることは、時には思いがけない事にもつながることが報告会で紹介されていました。その地域の住家では、ほとんどお手洗いがなく、住まいの裏に流れている小川をトイレ替わりに使っているとのことでした。そのため、トイレの使い方や、基本的な衛生知識などを、一から教えることを教会でしているのです。そして、経済的な困窮も影響しているのでしょう・・・子どもたちは多くの課題を教会に持ち寄るそうです。このお話をしている時の嶋田宣教師の表情が忘れられません。子どもたちを受け入れることは、悩ましいことがつきものであることが伝わってきましたけど、目が輝いていたのです。みるみる子どもたちが変化していくことを見せられていることを証ししてくださっていました。

 嶋田宣教師ご夫妻が抱かれている幻は「リビング・フィールド」と名づけられていました。かつて、命が失われてしまう現場が、今度は命と喜びの声に満ちる場所となっていく・・・それを物語るために「リビング・フィールド」という名前が付けられたのでしょう。沢山の課題を運んでくる子どもたちが教会に出入りし、その一人ひとりを教会が受け入れていくことで、この幻が与えられたのです。それら課題に一緒に取り組むことで、明るい未来を見せられているのです。

 

居心地悪さがあっての心地よさ

 私たちは、神さまに何を求めているのでしょうか?教会に何を求めているのでしょうか?居心地よさでしょうか?明るい未来でしょうか?他では絶対得られない居心地よさと明るい未来を、神さまは与えてくださいます。けれども、その道筋には、悩みや、悲しみや、受け入れ難いこともつきものです。居心地悪さがあっての心地よさ・・・それがイエス・キリストの教会ではなかろうかと思わされるのです。どちらも欠かせないのですから、どちらも、善き神さまに願い求めていく私たちでありたいのです。

(牧師・西本詩生)

 


『 やがて必ず帰ってくると信じる!

どんな道をたどるかわからなくても 』   

エレミヤ書32:14~15 

エレミヤ書32:37~38,42~44

2024年11月17日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 ある時、神さまが預言者エレミヤに話しかけました。その時、エレミヤは自分の国の王さまの宮殿で、監禁されていました。「このままでは、この国はもうすぐ滅ぼされてしまいます」と、神さまから人々に伝えるようにと預かった言葉を語ったので、「なんてことを言うんだ!」って、みんなからも、王さまからも怒られて、捕まえられていたんです。なんでそんなにみんなが怒ったかって、それは、エレミヤが言ったことが“本当のこと”だったからです。みんなだって、薄々そのことには気づいていたからです。「絶対そんなことない!」って思えていたら、「何言ってんだ、あいつ」って、構いもしないで済んだんだろうけど、実際、ユダの国は大ピンチでした。だから、エレミヤの言葉を聞きたくなかったし、聞いちゃったんで、怒ったんです。そんな風に捕まえられていたエレミヤに、神さまはこう言いました。「もうすぐあなたのいとこがやってきて、畑を買ってほしいと言うだろう」って。すると、本当にハナメルっていういとこが、エレミヤの所にやって来て、「アナトテにある畑を買い取ってほしい」って、頼んできたんです。エレミヤは、すぐにそれが神さまの言われたことだって、わかりました。ただ、どうやらハナメルは、借りたお金を返せなくなって、その代わりに自分の土地を取られそうになっていただけだったみたいなんです。その土地は、ハナメルの土地というより、親から受け継いだ先祖代々の大事な土地だったんでしょう。それで、「たしか、いとこのエレミヤは、結構なお金持ちだったはずだ・・・」と思い出して、その先祖代々の土地を、代わりに買い戻してもらおうと思ったんでしょう。そうでもしないと、先祖代々の土地が、ほかの人の手に渡ってしまったことが知れたら、親戚の人たちから、何と言って怒られるかわからない・・・。せめて、身内が買い取ったということになれば、みんなからも責められずに済むんじゃないか・・・「だから、エレミヤ、お願い!」って・・・。ずいぶん勝手な話だよね。エレミヤからすれば、ただただ迷惑な話でしかなかったはずなんです。それでも、エレミヤは銀を支払ってその土地を買い戻しました。そして、その土地を確かに自分が買い取ったということを残すために、証明書をふたつ作りました。一つは書き直されないように封をしたもの、もう一つはどんな内容だったか、いつでも見て確認できるように封のないもの。そして、その二つの証明書を、土の器に入れて長く保管できるようにしました。なんとも丁寧な、正式な手続きです。でも、ちょっと考えてみてください。さっきも話したように、エレミヤたちが住んでいた南ユダ王国は、もうすぐ他の国に滅ぼされようとしていたんです。ですから、当然、エレミヤが買い取ったアナトテの土地だって、丁寧に証明書まで作ったところで、敵の国に奪われて、エレミヤのものになんかなるはずなかったんです。そして、そうなってしまうことを、誰よりも良く知っているのは、エレミヤでした。誰も言わないのに「この国はもうすぐ滅ぼされてしまいます」って言っていたのは、エレミヤだったんですから。だとしたら、エレミヤはどうしてそんな“無駄なこと”をしたんでしょう?

 エレミヤは、たしかに「この国はもうすぐ滅ぼされてしまいます」と言いました。実は、最初エレミヤがそう言い出した頃には、だれもそれを信じようともしませんでした。まだそんなにピンチでもなかったからです。むしろ、ちょっといい感じに、「もしかして、敵の国をやっつけられるかも・・・」と思えていたからです。でも、だんだんと自分たちの国が本当にピンチになっているのを、みんなも感じ始め・・・。でも実は、エレミヤが伝えたかったのは、国が滅びることだけではなかったんです。いや、エレミヤが伝えたかった・・・というよりは、エレミヤを通して神さまが人々に伝えたかったのは、「確かに一度は、この国は滅びてしまうけど、やがてまた必ずここに帰ってくることになる」という希望の約束だったんです。ただ、もう間もなく国が滅びようとしているところで、そんな言葉を信じる人なんていませんでした。みんな、国が滅びてしまいそうなことで、頭がいっぱいだったからです。それでも、エレミヤだけは、その神さまの約束をしっかり受け止め、信じました。だから、エレミヤはアナトテのいとこの土地を買い戻したんです。「きっとこの土地も奪われてしまうだろうけど、やがて帰ってきた時には、それを取り戻すことになるんだ」って・・・。「きっと神さまがここに帰らせてくれる・・・」、そのことを表わすために、エレミヤは土地を買い戻したんです。ただ、それがどんな形でそうなっていくのか・・・、それはエレミヤにも知らされてはいませんでした。もしかしたら、エレミヤ自身は生きている間に、そこに帰ってくることはできないかもしれませんでした。それでも、エレミヤは、神さまの約束を信じました。自分にはわからないけど、すべてを知っていてくださる神さまの約束にこそ希望があるって、エレミヤには心の底から思えたからです。

 

◆ 地域の“やさしさ”が教会に集められ、また社会に届けられる

 先週の火曜日に、第6回「みんなで助け合いプロジェクト」が行われました。全国から寄せられた物資と支援金をもとに用意した食料品や日用品を、来場された約250人の方々に、無料でお渡ししました。コロナ禍が始まった2020年に、「さっぽろ若者応援プロジェクト」として年4回の活動として始まってから、2021年以降は「みんなで助け合いプロジェクト」と名前も変えて、年2回のペースで活動し、これまで4年間活動を続けてきたことになります。ただ、この「みんなで助け合いプロジェクト」は、この活動だけで独立して成り立っているわけではない・・・ということを、最近つくづく感じさせられています。そこには、当然この教会の71年の歴史とさまざまな活動が、下支えとして存在します。また、現在の活動も、日本基督教団真駒内教会や厚別教会、日本聖公会札幌教会、ホレンコなど、さまざまなほかの教派の教会や団体の皆さんの助けを借りて行われています。案内のチラシは、札幌市内・近郊のほとんどの教会とネットワークのあるラジオ伝道局・ホレンコさんによって、200近い教会やキリスト教関係団体に送られています。また、この教会周辺の町内会の多大な協力も得ています。幼稚園が含まれる山鼻第12町内会さんは、毎回チラシを回覧板に入れて、所属している全世帯に届けてくださっています。わが家が含まれる山鼻第18町内会さんは、所属の約1000世帯に、毎回チラシを戸別配布してくださっています。そのこともあって、風除室に置いている物資受付箱には、多くの地域の方々が、当たり前のように物資を届けてくださり、そして、多くの人たちはわれわれに声もかけずに帰っていかれるのです。毎週金曜日に行われているアシュレーコールの皆さんや、月に2度この教会を会場にして集まっておられる「童謡の会」の皆さんも、すっかりこの活動を覚えてくださって、応援団のひとりになってくださっています。昨日もグロリアコールのコンサートが行われましたが、この教会で行われるコンサートに来場される方々もそうです。毎週金曜日に行われている「お弁当分かち合い」の活動でつながった、いくつかのフードバンクさんとは、いつも物資のやり取りをしながら、お互いの供給を満たし合う関係性が構築されました。「だれかのために・・・」、「自分にもできることがあれば・・・」という地域の皆さんの思いや“やさしさ”が、この教会にさまざまな形で集められ、そして、ここからまた社会に届けられていく・・・。そんなことが起こっていることを、目の当たりにさせられています。

 

◆ 時間をかけて伝わっていくもの

 そんな風に、このプロジェクトの活動だけを切り取っては捉えられない、神さまの不思議な御業を象徴的に感じさせられる出来事がありました。9月末、「教会に、卒園生がお母さんと一緒に来ていて、石橋牧師に会いたいと待っています」という西本牧師からの連絡を、出先で受けました。ちょうど帰るところでしたので、急いで教会に戻りました。教会に戻ってみると、高校生の男の子とお母さんが待ってくれていました。その高校生は、ひかり幼稚園の卒園生ではなく、幼稚園が行う未就園児のための親子サークルであるピッカクラブに来てくれていた男の子した。うちの長男とひとつ違いだったので、うちも同じ時期にピッカクラブに行っており、遠足で動物園にも一緒に行き、親しくなったのでした。結局、園バスと給食がないことが、お母さんの仕事の都合と合わず、泣く泣くひかり幼稚園ではない幼稚園に通うことになったそうですが、その後も、道ばたで会うと挨拶をしていました。ただ、さすがに最近は、彼も大きくなって、会ってもこちらがわからなくなっていたのだと思います。ですから、本当に久しぶりの再会だったんですが、そう言われてみれば、ちゃんと面影が残っていました。さて、高校3年生になった彼が、なんで今回教会を訪ねてくれたかというと、教会の前を通る度に、「みんなで助けあいプロジェクト」の看板を見かけ、「自分にもできることはないだろうか・・・」、「どんなものだと喜ばれるんだろうか・・・」と悩み続けていたんだそうです。そして、自分のお小遣いで買えるだけのパスタとレトルトソースを買って、持って来てくれたのでした。「せっかくだったら・・・」と当日のボランティアにも誘ってみたら、「学校と塾の間のちょっとの時間だけでも良かったら、行きたいです!」って言ってくれ、先週、本当に手伝いに来てくれました。とっても嬉しかったです。何が嬉しかったかって、彼がひかり幼稚園の卒園生で、その後も教会に通っていて、久しぶりに来てくれた・・・ということであっても、もちろん嬉しかったと思うんです。でも、ひかり幼稚園に通ったわけでもない彼が、当時2才だったはずですので、きっとピッカクラブの記憶なんてまったくない中で、そこから10年以上も経って高校生3年生になってから、教会の前の看板を見て「何かできないか」って飛び込んできてくれた・・・、それがなおさら嬉しかったんだと思います。ピッカクラブは、もちろんひかり幼稚園に入園する子が少しでも多くなるようにという願いで始められましたし、今もそうやって続けていますが、でも、それだけではないんです。行政からも、幼稚園がその地域での子育て支援の働き担うことが求められており、ピッカクラブを行うことには、そんな意味もありますが、でも、それだけでもないんです。やっぱりそこでも、ひかり幼稚園は、この教会の“教会幼稚園”として、聖書に基づいて大切にし続けているキリスト教保育の姿を表そうとしており、それが、こんな形で、時間をかけながらも、地域の人たちに伝わっていっているんだ・・・とつくづく感じさせられたのです。そのように、どんな活動、どんな行動が、どんな形でつながっていくことになるか・・・、ぼくらには想像もできませんが、神さまのなさる御業に期待をしていれば、“無駄なこと”に思えるようなことも、“無駄”でなくなっていくのです。

 

◆ やがて帰ってくると信じる!

 今日の聖書箇所の時代、南ユダ王国は、もう滅亡寸前の状態でした。実際、間もなく、エレミヤの預言の通り、南ユダ王国は、バビロン王国によって壊滅的に滅ぼされました。そんな時代に、預言者の働きを担ったのが、エレミヤでした。自分たちの国は滅び、人々は敵であるバビロンの地に連れ去られることになる・・・と、彼は語りました。ただ、エレミヤは、「バビロンの地で70年が経過すれば、主は人々をエルサレムに導き帰る」とも語りました。「主の計画は、人々に災いを与えようとするものではなく、平安を与えようとするものであり、将来と希望を与えるのである・・・」と。でも、70年後のことなど、それを聞いていた人の中でどれだけの人たちに直接関係することだったでしょうか。ほとんどの人たちは「その頃には自分はもう生きていない」と思ったことでしょう。それよりも、間もなく訪れようとしている自国の滅亡の方が、気がかりだったはずです。それが、どんなに希望溢れる言葉であったとしても、そんなに先のことを語られたところで、それを聞いて素直に喜べる人などいなかったでしょう。しかも、それが具体的にはどのような形でなされることになるのか・・・それは、エレミヤにすら知らされてはいなかったんです。それでも、迫りくる危機を眼前に控え、これまでずっと語り続けた滅亡の予告も語りつつ、エレミヤは希望の言葉をセットで語り続けました。神さまの思いは、その希望、その救いにこそあるのだ・・・と。それは、エレミヤ自身が、その希望の約束を心から信じたからだと思うのです。

 

◆ 希望の約束を語り続けてくださる神さま

 今日、Kさんが信仰告白をされ、バプテスマを受けました。Kさんが、信仰に導かれたのは、Kさん自身が一番苦しい思いをした時期を通らされたからであったことを、告白をお聞きしながら知らされました。苦しい思いを通らされたことを喜ぶことはできませんが、そこを通らされなければ、ここに至ることもなかったことを、振り返れば知らされるのです。そして、今なおKさんも、そしてぼくらも、まったく苦しみと無縁の歩みをなしているわけではありません。先も見えない、希望を見出せない状況を過ごしておられる方もおられるかもしれません。ぼく自身も、いくつかの課題においては、まさにそうです。どうしていいのか、答えがまったく見えないまま歩んでいます。それでも、神さまは語り続けられるのです。「わたしが必ずあなたがたを連れ帰る」と。ぼくらがそれをすぐに信じられなくても、決して諦めることなく、語り続けてくださるのです。

 

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 なかなか変わらない・・・  

     だったらまず神さまが変わる 』

ローマ人への手紙8:3~4

エレミヤ書31:27~34

2024年11月10日(日)

 

子どもメッセージ

  みなさんもこういう経験があるのではないでしょうか?ちょっと前まではとても難しいと思っていたことが、気づいたら、何も考えずにそれができるようになっている。たとえば、ハイハイしていた子が、歩くようになって、次第に走るようになる。あれこれ教えられなくても、または、レシピ本も見なくても、美味しいケーキをパパパッと作れるようになる。思うがままに絵を描いたり、楽器を自由に奏でたりすること。頭で丁寧に次の事を考えて、慎重に物事を進めるというよりは、自然体でただやっているだけ。教わったコツや法則を思い出しているというよりは、その法則が身についている。それがあたかも自分の体の一部になっているという事があるんだと思います。体の芯・・・心から湧き出てくるということです。そして、気づいたら、昔の自分とは別の自分・・・新しい自分になっているのです。

 今日のお話のテーマは「新しい心・新しい自分」・・・このテーマを探っていきたいと思います。別の角度から言えば「人が変化すること」「心が入れ替わること」について探っていきたいと思うのです。子どもメッセージでは、まずは、僕が学生時代にしていたスポーツの経験から、このテーマを探っていきたいと思います。

 僕は10代の時にいろんなスポーツに挑戦しました。バスケ、ハンドボール、サッカー、水泳。その中でも続いたのがサッカーと水泳でした。特に上手だったというわけではないのですが、楽しくできたということで続けたんだと思います。小学校高学年の時は、通っていた学校のサッカーチームに入っていました。とても小さい学校だったので、チームに入っていれば、上手でなくても、必然的に試合に出ることになっていました。その当時、背が高かったわけではなかったのですが、なぜかゴールキーパーとして選ばれました。そして、僕の出番は試合が半分過ぎてから、ゴールキーパーとして登場する・・・そういう役割でした。もう一人のゴールキーパーは背が高く、足も速く、運動神経もよく・・・その人は、僕がゴールキーパーに変わった時には、ゴールを決めるストライカーに交代していたのです。試合の展開はどうであったかというと、僕がゴールキーパーとして入るまでは、かろうじて1点で勝っているか、あるいは引き分けているかというものでした。そして僕がゴールキーパーとして登場してどうなったかというと、必ずと言っていいほど、相手チームに点を入れられてしまうという残念な結果でした。悔しい思いを沢山しましたが、それでもサッカーは楽しかったです。

 とある日、サッカーチームの仲間たちと一緒にいた時に、あるお友だちがこう言ってきたのです。「こないだ父ちゃんがこんな事言ってたんだよなぁ。『うちのサッカーチームの試合は、前半までは何とかしのげている。でも後半になるとゴールが入って、結局負けてしまう。後半のゴールキーパーが問題だと思うんだなぁ。』」。これを聞いて僕の頭の中はこうなっていたと思います・・・「後半で負けてしまう。後半のゴールキーパーが問題。・・・僕のことやないか!?」と。6年生だった僕は、固まって、目がビー玉になっていたと思います。うすうす気づいていたことが突き付けられ、大きなショックでした。もちろん、そのお友だちやそのお父さんを責める気はありません。恐らく、チームをよくしたいというお話の中でそのような発言があったのだと思います。けれども、このことを耳にして僕はひどくショックを受けました。「僕がチームを毎回負けさせているのだろうか・・・サッカーは向いてないのかなぁ」とまで思うようになりました。

 ちょうどこの時期、僕のお父さんが転勤になり、別の学校に移ることになりました。別の学校どころか、別の国に引っ越すことになりました。そして、その国はシンガポールというところで、年中真夏の国でした。転校した学校にはプールがあり、年中そこで泳ぐことができました。そしてその学校には水泳部がありましたので、そこに入ることにしました。小学生の時から週に何回か市民プールに一人で通っていたぐらい水泳が好きだったので、自然と水泳部に入ることになりました。でも「泳ぐのが好き」という理由だけで水泳部を選んだのではありません。水泳というスポーツは基本的には、一人でやるものです。一秒でも早く泳ぐ・・・それをチームではなく、一人でやるんです。サッカーをしていた時、ゴールキーパーとして仲間に残念な思いをさせてしまったという記憶がまだ残っていたのだと思います。水泳であれば、たとえ望むようにならなくても、それは他の人までは影響しない・・・そういう複雑な考えがあり、水泳部に入ることにしたのです。ともかく、誰か他の人に残念な思いをさせてしまうことは避けたいというそういう根強い思いが自分の中にあったんだと思います。

 水泳部に入って半年ぐらい経った時に、大きな大会に出ることになりました。当時僕は13歳になったばかりで、13歳から15歳の人が競い合うこととなっていました。13歳の人と15歳の人の体の大きさは全く違います。13歳で出場するだけでも、大変なことでした。決勝に残れた種目はかろうじて一つだけあり、案の定メダルまで届きませんでした。大会の最後の種目で「メドレーリレー」という競技がありました。メドレーリレーというのは、4人でチームを作り、順番にその4人で泳ぎ、他のチームと競い合います。本来僕よりも二つ上の先輩4人がそれに参加するはずでした。でも、その内の一人が大会中にケガをし、なんと、僕が代わりに泳ぐことになったのです。正直嫌な予感がしました。順番としては僕が最初に泳ぎ、力を振り絞って精一杯泳ぎましたが、その段階では10チーム中のビリでした。先輩たちに申し訳ないという思いでいっぱいでした。けれども、先輩たちは他の選手を一人二人と追い抜いていき、最後の50Mでは3位まで追い上げていました。最終的に上位3人はほぼ同時に壁をタッチしました。結果的にそのまま3位でした。3位までが確実に決勝まで進める順位でしたので、仲間みんなで喜びました。けれども、喜ぶのは束の間・・・うちらのチームに反則がみつかり失格となってしまったのです。僕のターンに違反があったのです。そもそも僕の泳ぎは遅く、チームの“お荷物”でしかなかったように思え、それに加えて僕のミスで失格となりましたので、恥ずかしくて、悔しくてたまりませんでした。そもそも、チームスポーツをすることを避けたくて、水泳部に入ったので「またかぁ」と思いました。その直後どうなったかと言うと・・・先輩たちから責められるか、無視されるのかと思いきや、しばらくそこで4人で悔しがったのです。先輩たちにいろいろ語りかけられたと思いますが、そこで言われたことは何も覚えていません。そのぐらい感情が高まっていたのでしょう。ただ、一緒に悔しがったことは鮮明に覚えています。

 結果的に、この大会に出たことで、失敗を一人で負うのではなく、チームで一緒に負うということを経験しました。入部して間もなかった僕はそこではじめて、仲間の一員なんだと思えました。実は、入部して成績がなかなか伸びなかったので、水泳部を続けるかどうかも悩んでいた時でした。年上の先輩たちにはかなわなかったのです。でもこのことをきっかけに、僕の思いが変わったのです。「がんばろう・・・チームで競い合うのも捨てたもんじゃない」と自然に思えるようになったのです。心が入れ替わったと言っていいと思います。結果的に高校を卒業するまで泳ぎ続けました。でも、あの時、4人で一緒に悔しがったという出来事がなかったら続いてはいなかったと思います。先輩たちは、僕のミスを僕だけのミスとせず、自分たちの痛手としてくれたのです。これが、僕の心を入れ替えたのだと思います。

 大分遠回りをしましたけど・・・今日は「心が変化すること」について考えさせられる聖書のところです。神さまは、私たちが、「心を入れ替えるように」とずっと働きかけてきました。「自分・自分」という考えだけでなく、「神さまと自分」「隣の人と自分」という心構えを持つようにと働きかけてきました。聖書は私たち人類の歴史を数千年の間隔で物語るのですが、どの時代の人も、神さまが望んでおられる心構えには届かないということが繰り返されるのです。真逆のことをするので、人の心は変わらないのではと思えてしまいます。

 けれども、神さまはあきらめません。神さまはこう言うんです「神さまが望まれる心になる時が来る。教わったからではなく、本をじっくり勉強したからではなく、自然とそうなるんだ」と。つまり「人の心が入れ替わる時が来る」と神さまは約束されたのです。

 「人の心が入れ替わる」・・・そのきっかけは何にあるのでしょうか。聖書によるとそれはイエスさまの十字架の出来事にあります。なぜイエスさまは十字架にかかったのでしょうか?僕らひとりひとりのためにかかりました。ひとりひとりがとても大事だから、ひとりひとりを愛しているから、イエスさまは十字架にかかりました。僕らの罪のために十字架にかかったと聖書は言います。私たちは自分の失敗や罪をひとりで負えないのでしょうし、背負わなくていいのです。十字架のイエスさまも一緒に背負ってくださるのです。神さまは雲の上から雷を落とす神さまではなく、私たちと全く同じとなったのです。一緒になって、共にいてくださる。それがイエスさま。共に喜び、共に苦しんでくださる。それが、十字架に至るイエスさまの生涯です。そのイエスさまが、私たちと出会ってくださる。ここに「心が入れ替わる」きっかけがあるのではないかと僕は思うのです。僕は、20数年前、水泳部の先輩たちとプールの横で悔しい思いを共にしました。僕のミスで失格になったのですが、先輩たちはそうは考えず、一緒に悔しがったんです。「お前の痛手は俺たちの痛手だ」と言われたような気がしたのです。その経験と少し重なるように、イエスさまは言うのです「あなたの痛手はわたしの痛手」・・・「私はあなたのために、同じとなった。私のほうからまず変わった。一人で変わらなくてよい。一緒に変わっていこう」。ひとりじゃなくて、イエスさまと一緒に。ここに変わるきっかけがあるのではと思わされるのです。

 

新しい契約:変わらない私たちのために、まず神さまが変わった

 時折、人が変化することについて相談を受けることがあります。それは、相談をされに来られた方ご自身のことであったり、ご家族のことであったり・・・「人が変化」することについての相談を受けることは珍しくありません。そしてそれは、深刻なことに関わることもあります。そして、その課題とされていることが深刻なことであればあるほど、「こうしなさい・・ああしなさい」という助言をきっかけに変化が起こることはほとんどありません。短期的に微調整があったとしても、長続きはしません。だからと言って何も助言しないわけではありませんが、助言そのものが、変化のきっかけになることは、残念ながらまれなことだとつくづく思わされています。

 変化を求めることについて、新約聖書に登場するパウロも葛藤していたことが手紙に記されています。今日のエレミヤ書に出てくる「新しい契約」を念頭に置きながら、パウロはこう言うのです。「わたしは善をなそうとする意志はあるものの、なぜかからまわりして、善をしないで、反対に悪を行ってしまうのだ」(ローマ7:18~19)。人類の歴史を貫く根本的な悩みについて、パウロは語っていたのだと思います。善を意図していても、なぜかそうはならないという、最も深い大問題です。

 預言者エレミヤも、人々の間で変化が起こらないということについて大変悩まされた人物です。語れば語るほど、人々の耳と心は益々塞がれていくだけでした。そして、預言者エレミヤが涙するほど感じていたこの葛藤は神さまの葛藤でもありました。預言者エレミヤは、幾度も心折れて、くじけたことでしょう。「もうあきらめるしかない・・・最善を尽くした・・・もうどうなっても知ったことではない」と自分の中で、預言の働きから退くことを正当化する誘惑があったと思います。けれども、神さまはエレミヤに対して促しました、「語り続けなさい」と。なぜなら、主なる神さまご自身はあきらめることがないからです。今日の31節で登場する「新しい契約」とは、イエスさまにおいて成就されたとキリスト教会は信じます。つまり、神さまは私たちと同じとなったのです。人となり、一緒に歩み、最終的には私たちの罪の報いを十字架上で担われたのです。変わらない私たちのために、まず、神さま自らが変わったのです。罪の大問題に対して、自らの全存在を投じたのです。善しか知らない神さまご自身が、歴史上の悪の報いを十字架上で受けられたのです。私たちの心が入れ替わるために・・・教わったからではなく、本をじっくり勉強したからではなく、自然と変化が起こされるきっかけをイエスさまが十字架上でもたらしたのでした。一人で変わらなくていいのです。イエスさまのメッセージは「共に」です。だからこそ、私たちに聖霊を送ってくださったのです。一緒に変わろうというメッセージを、私たちの間で働かれる聖霊が携えておられるのです。

 

チームで

 コロナの影響からそれなりに解かれて、教会のあらゆる活動が活発化してきていると感じているのは僕だけではないと思います。本当に嬉しいことです。その中で、様々な活動グループや委員会が活発化していることも、教会の元気につながっていることだと思います。つまり一人で物事を悩んだり、課題に取り掛かったりするのではなく、チームで取り組むというスピリットが教会の活性化につながるのでしょう。言うまでもなく、一人でできることは限られています。そしてそれだけではありません。そもそも、神さまが新しい契約で約束されたのは、根本的なところで、「ひとりではなく、共に」というものです。物事を担い合っていくというスピリットが益々広がっていくことを教会として願い求めていければと思うのです。

 

(牧師・西本詩生)

 


『 希望と絶望とは隣り合わせ 』

マルコによる福音書15:39

エレミヤ書30:1~3、18~22

2024年11月3日(日)

 

子どもメッセージ

 

 ついこないだまで、数カ月をかけて、聖書の最初・・・創世記を読みました。ある家族に注目したお話でした。その家族が平凡な生活をしていたというお話というよりは、驚くようなドラマに富んだものであったと思います。ひどい兄弟げんかがあったり、親戚のおじさんに騙されたり、弟を奴隷として遠い国に売り飛ばしたりというドロドロ物語でした。でもその裏切られた弟が家族全員を救うことになるというお話でした。様々な人間ドラマを通らされながらも、最後は「めでたしめでたし」のような終わり方だったと思います。人の思惑や失敗を超えて、神さまがその家族を守ってくださったという話です(創世記50:20「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」)。今日はその続きのお話です。

 雨が全く降らず、食べ物が十分にないという状況が続いたため、その家族はエジプトに移り住むことになりました。兄弟10人で裏切った弟は、エジプトの総理大臣になっていたため、家族は特別な待遇を受けることになりました。でも、それから400年がたち、その家族は数千人どころか、数万人に増えていました。その人たちはヘブライ人と呼ばれていました。エジプト人から見たら、ヘブライ人は増えすぎて、国が乗っ取られることを恐れて、エジプト人の奴隷とされてしまったのです。ヘブライ人たちは、あまりにも苦しい生活を強いられたため、「もう辛いです!」と叫ばずにいられませんでした。そして、神さまはその叫び声を聞き入れ、数万人にもなったヘブライ人を、その奴隷生活から救うことになりました(出エジプト記3:7「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。」)。つまり、数万人のヘブライ人がエジプトから脱出することになったのです。神さまの不思議な働きを何度も体験しながら、無事にエジプトから逃げ出し、自由になりました。そしてその自由になった人々は、先祖の故郷に移り住むことになりました。その旅の最中で、「自由になった私たちはどう生きればよいのか」・・・「互いにどう生きればよいのか」を解き明かす「十戒」という神さまからの教えをいただくことになりました。その十戒を凝縮するとこうなると思います。神さまを愛し、自分も隣の人も大事にすることです(マルコによる福音書12:30~31「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」)。「自分、自分」という生き方ではなく「神さまと自分」「隣の人と自分」という生き方です。それが、互いに生き生きなるためには大事なんだよ、と神さまは教えてくださったのです。ある意味で当たり前のことが言われています。考えてみましょう。みんなが「自分、自分」という世界観にはまってしまうとどうなってしまうのでしょうか。「わたしには関係ないね」とみんながみんなのことを思っていたら、めちゃくちゃになってしまうと思います。優しさが欠けてしまう日常です。

 みんなが生まれる前、20数年前「ジコ虫、増えています」というテレビCMが流れていました。こんなCMです。

 

 全国からお寄せいただきました新種の“ジコ虫”をご紹介いたしましょう。荷物で場所を取る「バショトリ虫」。所かまわず自転車を止める「チュウリン虫」。人前でイチャイチャする「チュウ虫」。そしてエスカレーターの真ん中に立つ「トウセンボ虫」。ペットのうんこを始末しない「ウンコ虫」。他にも “ジコ虫”はまだまだいるようです。皆さんもお気をつけください。

 

“ジコ虫”目撃をお知らせしている全国から届いたハガキは山ほどありましたね。他の人の欠点はすぐ気づくんですけど、自分の「自己中度」はなかなか気づけないよなぁ・・・自分事としてそんなことも考えます。ともかく・・・今日ここでこのCMを紹介しているのは、もしもみんなが「自分、自分」という発想になってしまったら、どうなるんだろうということを面白く紹介してくれていると思うからです。神さまからの教えは「自分、自分」という世界観ではなく、「神さまと自分」「隣の人と自分」というものでした。それが、私たちを豊かにさせるんだよという大切な教えでした。

 聖書のお話に戻りますが・・・ヘブライ人たちは、神さまからプレゼントされた十戒という教えを携えて、先祖の故郷に移り住み、新しい暮らしをはじめました。そしてある時から王さまが立てられるようになりました。ある日、王さまが亡くなり、誰が次の王さまになるかという事を巡って兄弟げんかになりました。それまで一つの国であったのですが、その兄弟げんかをきっかけに、北と南とで、二つの国に分かれることになりました。元々大きな国ではなかったものの、二つに分かれることによって、さらに小さくなりました。

 この時から、徐々に、二つの国は弱っていきました。多くの人々から笑顔が消えていったのです。そして、なぜそうなったかというと、聖書に言わせれば、王さまを筆頭に、多くの人々は、神さまからいただいた教えからそれてしまったからです。「互いにどう生きればよいのか」を解き明かす「十戒」からそれてしまったのです。「神さまと自分」「隣の人と自分」という発想ではなく「自分、自分」という生き方を突き進んでいってしまったのです。自分たちの先祖がエジプトの奴隷とされ、苦しんでいた時、神さまは助けてくれた・・・同じように小さく弱くなっている人々を助けるのが本来の生き方だという神さまのメッセージが何度も届いたのですが、多くの場合それを忘れてしまったのです(イザヤ書1:17「善を行うことをならい、公平を求め、/しえたげる者を戒め、/みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。」)。

 時代がさらに進み、ついに北の国は巨大国に飲み込まれてしまいました。そして、南の国も、いつ倒れてもおかしくないところまで追い込まれました。この時代に、エレミヤという預言者が登場しました。多くの場合、悲しそうな姿で描かれるエレミヤさんです。エレミヤさんはどんなメッセージを語り伝えたのでしょうか?「大丈夫ですよ、皆さん安心してください!国は滅びません。」というメッセージだったのでしょうか。実際、エレミヤさんと同じ時代におられた“偽預言者”と呼ばれる人たちはそう語っていました。「国は倒れません!私たちには神さまがついているのですから。」と。もちろん、人々はこれを聞くと、一時はホッとしました。エレミヤさんもそのように語りたかったと思います。人々が喜ぶことを語りたかったと思います。でもエレミヤさんが託されたメッセージは、全く受け入れやすいものではありませんでした。エレミヤさんはこうお話したのです。「皆さん。大丈夫じゃないんです。大ピンチです。皆さんは神さまの教えを忘れてしまいました。ヤバいんです。国は滅びます。」そして、エレミヤさんは言い続けました。「国は滅びますけど、神さまは私たちを見捨てません。確かに私たちは散らされてしまいます。でも、いずれ神さまは私たちを集めてくださいます。」。これからどん底を通らされるけど、神さまは人々を救われるという約束でした。

 僕は41年間生きてきて、何度か行き詰ったことがあります。20代半ばで仕事を失った時。30代で、ある事件に巻き込まれた時。そして40近くで、うちの次女が、心臓がほぼほぼ動いていないまま生まれてきた時。僕の人生の中では、これらの出来事は非常に受け入れがたい、どん底を通らされるような経験でした。けれども、それを経験したから気付かされたものもありました。たとえば、「僕のために祈ってくださる人が大勢いるんだ」ということを毎回教えられました。Rが生まれた時、みんな祈ってくれました。多くの人に祈られていることの関連で、もう一つ気づかされる事があります。僕は僕だけで突っ走って生きられるような者ではないんだということです。「自分、自分」ではなく、「神さまと自分」「隣の人と自分」。神さまからプレゼントされた教えは本当に豊かなんだということを毎回教えられているように思うのです。

 

希望と絶望とは隣り合わせ

 今日の聖書を読みながら、以前ある先輩牧師がお話してくれたことを思い出しました。「誰かを愛するとか、未来に望みを抱くということは、もっとも愛しにくく、もっとも望みを持ちにくい状況からもたらされるのかもしれない。別の角度から言えば『愛しやすいこと』を愛し、『望みやすいこと』に希望を抱くことからは『本物』は生まれないのでしょう。人を愛するとか、希望とは、実は絶望的な状況からもたらされると思う」。自分の人生を振り返ってみれば、どん底としか思えないところを通らされたから知り得た「愛」や「希望」が確かにあるなぁと思わされています。

 預言者エレミヤに託されたメッセージは、人々に受け入れられるものではありませんでした。語れば語るほど、やっかい者とされたのでしょう。「大丈夫ではないんだ。私たちは神さまに背いた。国は滅びる。」という、ある意味で誰も聞きたくないメッセージだったのです。でも、エレミヤは徹底的に語り続けました。絶望を絶望として直視しなさいというメッセージでした。「大丈夫だ、大丈夫だ」という甘い声・・・いわゆる“偽預言者”のメッセージが飛び交う中で、絶望を直視しなさいとエレミヤは語ったのです。なぜ、神さまはそのようなメッセージをエレミヤに託したのでしょうか。その絶望を受け入れなければ、見えてこないものがあるからです。問題を問題として受け止めなければ・・・現実から目を逸らすのではなく、ありのままで受け止めていくことがなければ何も始まりません。安易な「大丈夫」ではなく、本物の「大丈夫」を知ってほしかったのです。頼りになるのは、神さまだと知ってほしかったからです。神さまが用意してくださっている未来があり、それは、限られた視野しかもてない私たち人が望んでいるものでないかもしれないけど、今まで知り得なかった豊かさに満ちた歩みである・・・これを経験してほしかったのです。私たちの弱さ、欠点、失敗、絶望・・・これらは、神さまの御業を止めるどころか、それを通して神さまから注がれる愛と希望に出会うことになると聖書は語るのです。

 思えば、イエスさまの十字架はそれを最も明らかにしています。十字架上のイエスさまはどう見ても、弱さと絶望の極みでした。けれども、絶叫して息を引き取られた十字架上のイエスを見届けたローマ軍の百人隊長は、思わずこうつぶやいたのです「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」。

 

自分自身で+共に

 来週は、私たちの教会から10数名が福住のオープンドアチャペルに赴き、その主日礼拝に加わることになります。すでに、先月、S牧師と信徒さんお二人が私たちの礼拝に加わってくださいました。この企画は教会間交流を目的としています。絆を深めたいという狙いです。というのも、S先生は来年3月でオープンドアチャペルでの、牧師としての働きを終えることになります。新たな牧師招聘に向けて既に教会は動き始めています。共に祈りたいという思いで、この交流を持つことになりました。

 決して、オープンドアチャペルが直面している状況が絶望であるとか、そういうことを言っているのでは全くありません。でも、オープンドアチャペルが教会として、向かい合わなくてはいけない課題を抱えていることは事実です。オープンドアチャペルの皆さんが祈りを深めて選び取っていく未来でありますが、自分たちだけで向き合わなくてはいけないものではないということを感じ取っていただけたらと強く思わされるのです。

 課題や悩み、あるいは自分の弱さもそうですが、言うまでもなく、当事者が向き合い受け入れなくてはいけません。けれども、独りでそれをしなくてはいけないというのと、仲間と共に向き合うのとで全然違うと思います。私自身それを、札幌教会に来てから教えられています。協働牧会体制の中I牧師と相談しながら、あるいは、皆さんと相談しながら、共に祈りながら歩む豊かさを見せられています。

 イスラエルの人々は、国として滅びを経験しました。けれども、見捨てられたのではないという気づきが人々の経験の中から湧いてきた信仰告白でした。今日のエレミヤの預言はその先取りとして、今までもイスラエルの人々は神さまの民であり、今後も神さまの人々であることを約束しているのです。これから直面する日々は独りで向き合うものではないという福音のメッセージだったのです。私たちも独りにされているのではないのです。「自分、自分」で突っ走らなくていいのです。「神さまと自分」「隣の人と自分」というプレゼントをいただいているのです。これを携えて、新しい一週間に旅立っていこうではありませんか。

(牧師・西本詩生)