『 神さまが立てられる牧者 』
ローマ人への手紙12:5
エレミヤ書23:1~6
2024年10月27日(日)
子どもメッセージ
今日は、ある方のことを覚えて、礼拝のこの時間を過ごそうと思っています。その方が誰であるかというと、Sさんという人です。36年前、1988年・・・ちょうど藻岩山の木々が赤や黄色、茶色やオレンジ色になっていた時に、若くして天に召されました。Sさんが召された時、結婚して1年半も経っておらず、27才でした。今ここにいたら63才です。
僕から見ればSさんはイラスト書きがとても上手な人でした。そして、Sさんは自分や親しい人の似顔絵を描くことがありました。これが、召される年に描かれたものです。左が旦那さんのMさん。右がSさんです。そして偶然にも、旦那さんのMさんとSさんが50代後半になった時のことを想像しながら描いた似顔絵がありました。それがこれです。Mさんは大分丸くなっていることが想定されています。昨日Sさんのお墓参りをした時にMさんとお会いしましたが、60才を超えたMさんは丸くなったわけではありません。ここで描かれたMさんとは対照的に、Sさんは、20代の時とさほど変わらないように描かれているような気がします。Mさんの似顔絵の左には、Mさんの発言として「この絵は不公平だ!!」という台詞が、Sさんの字で添えてあります。他のイラストや文書からも伝わってくることですが、Sさんはおちゃめだったようですね。
昨日まで一緒だった人ともう会えなくなること、誰かとお別れをするというのはとても悲しいことだと思います。そして、Sさんが召されたのは、病気や事故によるものではなく、ある悲しい事件に巻き込まれたから召されたのです。事件を犯したのは、私たちの教会のメンバーです。その人は今刑務所で過ごしていて、生涯そこで過ごすことになるでしょう。36年が経ったからと言って、まだまだ心が痛みます。特にSさんの旦那さんやご家族、Sさんと親しくした一人ひとりの心に穴が空いちゃっているのだと思います。
今日このようなお話をするのは、36年前に何が起きたかを事細かく説明するためにしているわけではありません。じゃあ、何のためにこのお話をしているのか。痛み悲しむ一人ひとりに、神さまの慰めが与えられるように祈り求めることが僕の中での一つの目的です。そして二つ目の目的は、Sさんを思い出すことです。忘れないことです。Sさんがどういう人であったのか。どんなことを喜んで、どんなことを嫌ったんだろう・・・それをみんなの心の中で留めておきたいと思うんです。思い出すと、なおさら切なくなるかもしれません。そう思う一方、Sさんが遺してくださった記憶には宝物がいっぱいあり、忘れちゃいけないと思うんです。教会として、この記憶は語り継いでいこうと決めました。
Sさんがどういう人柄であったかが伝わってくる本があります。そこにSさんの弟Tさんが書いた文書があります。それを今日ここで読みたいと思います。省略している部分もありますので、ご理解ください。
「さっさんの思い出」
「さっさん」とは、私が普段姉を呼ぶときの呼び名です。
私から見た、さっさんとは、普通の姉さんでした。私の悪いところに気付くと、ガンガン攻めてくる厳しい面もありましたし、また、その反面、ボーナスが入ったときには、封筒の表に「太っ腹の姉より」と書いて、一~三枚、何度ももらった事がありました。又、人のプライベートな面に、ずけずけと足を踏み込まず、静かに見守っている感じでした。【省略】
あれは、私も、さっさんも、まだ小学生の頃でした。その当時「パンダ」と呼んでいた猫を飼っていました。その猫は前日から、行方が分からなくなっていたのですが、私が偶然にも近くの舗道の上で死んでいるのを発見しました、私は家に飛んで帰り、ベランダの方からさっさんに「パンダが引かれて死んでる!」。その時、さっさんは仲良しの友達と楽しくおしゃべりをしていたのですが、私の知らせを聞くと「エー」と驚くと同時に、目から涙があふれ出て「ワー」と泣き始めました。今もこの時の事が、脳裏(のうり)に鮮明に焼き付いています。【省略】
あれは、さっさんが、Fさんと、小樽の天狗山に遊びに行って、数日後の実家でのひとときでした。さっさんが、二階の私の部屋に入って来ました。そして、私から聞いたわけでもないのに、自分から天狗山に遊びに行った時の事を、話し始めました。「Fちゃんと天狗山に行ったんだよ。」楽しそうに又無邪気に話を続けます。「天狗山の歌を、作ったんだよ。教えてあげるか?」私が教えて欲しいと言わないのに「テングヤマ、テングヤマ」と歌うのです。その時のさっさんは、子供っぽい、いや子供そのものに見えました。確かに、さっさんは結婚してから、角が取れ、さっさんのいいところが、前面に現れた感じがします。
この文書は、Sさんの弟のTさんが書かれたものです。
僕は一度もSさんにお会いしたことはありませんが、恐らくSさんは、多くの場合感情を表すことが自然体でできた人だったんだろうと思わされています。悲しい時はめいっぱい泣き、嬉しい時はめいっぱいその嬉しさを楽しめるのがSさんだったのではないかと思います。多分、旦那さんのMさんと天狗山に行けたことが嬉しくて、それがあふれ出て、何も頼まれてないのに、テングヤマの歌を弟にも歌ったんだと思います。無邪気な一面を持ったSさん・・・その姿には私たちの生き方のヒントが秘められているように思うんです。そして、それは聖書にも通じるものです。聖書にはこういうところがあります。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12:15)。イエスさまが出会われた人々と一緒に喜び、一緒に泣かれたということがここで言われています。そして、誰かと喜んだり、悲しんだりするということは、小さいことであっても喜べるときはとことん喜んで、悲しいときにはとことん泣けるというのが大前提にあります。ですので、Sさんが泣く時はめいっぱい泣き、嬉しい時はめいっぱいその嬉しさを楽しんだ姿・・・これが基本となるように思います。当たり前のことを言っているのですが、僕自身、自分の感情に素直になれているんだろうかと思わされる時があります。麻痺というのでしょうか、そんな自分がいるように思うんです。皆さんはどうでしょう。Sさんの人柄に触れると、もっと素直になってもいいんだよと励まされているように感じます。そして、それはイエスさまが現わされた「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」世界に通じるものだと思うのです。
心を通わせる
涙の預言者として知られるエレミヤ・・・そのエレミヤの活動が記録されているエレミヤ書を10月と11月を通して読み進めています。エレミヤが活動した時代がどういう時代であったかというと、かつての輝かしい国の姿がみるみる失われていく時代・・・国家が低迷していく時代です(紀元前5世紀の南ユダ王国)。最終的には、その国家は北から攻めてくる大国(バビロニア)に滅ぼされてしまいました。誰もが弱っていく時代でありましたので、「かつての輝きを取り戻そう!」「まずは自分を守るんだ!」「自分の生活を安定させるんだ!」という声が頻繁に交わされていました。徐々に弱っていく状態ですので、こういう声が交わされるのは分からなくはないと思います。自らがグラグラと揺らいだ時、守りに入るのが自然の反応であるのでしょう。でもこれらの声を裏返せば、「他者にかまっている余裕はないよね」というものでした。
今日読んでいる23章は、22章の内容の続きであり、おおむね、当時の王さまを批判しているところです。エレミヤは何を指摘したかというと、王さまが神さまを知ろうとせず、神さまから離れてしまっていると訴えたのです(22:16)。そして、神さまを知るということは、具体的に「貧しい人と乏しい人の訴え」を聞き入れることだと言うのです。つまり、“弱い”と思われがちな人々、自らの主張をなかなか声に出せない人々に耳を傾けること、心を通わせることが、神さまを知ること、神さまに近づくことだとエレミヤは訴えたのです。ガードを固めて、人々の苦難に心を閉ざすのではなく、心を開いていくことが、神さまを知ることだと言うのです。物事が縮小し、低迷する中でも、心を通わせていく歩みに豊かさがあるとエレミヤは訴えたのです。心を通わせること・・・それは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」世界です。イエスさまのなされたことであり、Sさんが辿った生涯からも教えられることだと思います。
歴史をそのまま語る聖書
僕は、イスラエルの歴史、すなわち旧約聖書の大部分ですが・・・それを読むといつも驚くことがあります。一般的に歴史というものは美化されがちだと言えるでしょう。悲しい歴史、歪んだ過去を語るのであれば、最小限にし、あるいは、なかったことにします。それとは対照的に、輝かしい出来事は、これでもかというほどおおげさに語られるのが大半なのでしょう。けれども、聖書で記録されている歴史は、そうではありません。一つの国家の歴史であり、聖なる書とされている聖書は、恥ずかしいこともしっかり記録し、代々引き継がれているのです。敗者の声、“弱者”と思われがちな人々の声がしっかりと残されているのです。そこには、未来への期待が込められています。「私たちの過去から学んでください」と託されているのです。神の霊の導きがなければ、ありのままの歴史は残されないでしょう。こういう意味で、Sさんの事件のことは語り継がなくてはいけないのではと思っています。札幌教会は過去にそう決断しましたが、過去に決断したから語り継ぐというよりは、ここに集う私たちが、改めて語り継いでいこうと選び取っていく道であると思うのです。未来に希望を託して、歴史をそのまま語り伝えるエレミヤ書を読みながら、そう思わされるのです。
神さまが立てられる牧者
今日の23章に入ると、その当時の王が人々の牧者として失格であることを述べつつ、やがて新しいリーダーが現れることが語られています。5節・6節はイエスさまの預言として読まれるところです。その直前の4節では、やがて、神さまによって牧者が立てられることが言われています。「わたし(神)はこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる」とある通りです。興味深いことに、この「牧者」という単語は複数形で言われています。「牧者たち」です。その牧者たちによって人々が養われ、人々の恐れおののきがケアされ、迷いでることもないと言われているのです。複数の牧者ですので、神さまが立てられるのはイエスさまだけではないということです。
Sさんのお母さんであるSさんは、Sさんが幼い時から二つの聖書のお話を繰り返し伝えてきたと記念誌で語られています。その一つが「99匹と迷える1匹の羊」で、もう一つが「よきサマリア人」の話です。Sさんも、イエスさまが私たちの牧者であることを幼い時から聞いてきたのです。99匹の羊を置いてでも、迷い出た1匹の羊を救い出すのが真の牧者であるイエスさまなんだというお話です。
Sさん(お母さん)曰く、Sさんはイエスさまがなさったこと・・・“迷い出た”人に寄り添っていくことをその通りに行った人であるのです。暖かい心通う隣人愛の感性を豊かにもっていたことがどの文書からも伝わってきます。信仰者として、イエスさまが私たちの牧者であるという自覚を持っておられたと思いますが、その牧会の歩みにも率先して加わったのです。
石橋牧師が読んだ詩・・・Sさんに思いを寄せながら紡がれた詩の中に、こうありました。「Mさん/私の生き方はまちがっていたのでしょうか/病いに苦しむ人をただただ励げましてやりたかった/私の生き方はまちがっていたのでしょうか/・・・いいえ、あなたは知っていて下さる/私がまっすぐに神の教えに従ったことを/何の代償も求めず人につくしたことを//あなたは私のことを分かっていて下さる/あなたも又、きっと限りなく生徒さんたちのために/生きて下さることを信じています」。
Sさんの旦那さんであるMさんは高校の先生でした。数年前に定年を迎え、近頃は住んでいる地域の社会福祉協議会でお働きをしています。住民の高齢化に伴う課題などに向き合う日々で、スパッと物事が解決するような策はなかなかないとおっしゃっていましたが、課題をみんなで共有しながら過ごしているとお話をしていました。そう語るMさんは僕の目には生き生きしているように見えました。人と人の心が通い合う志・・・何かできないかと助け合う心構え・・・その灯を、Mさんは輝かせているんだなと思えました。
僕も、Sさんの歩まれた道は決して間違っていなかったと信じています。間違っていなかったことを行動にも表し、大牧者イエスさまの姿に倣う私たちでありたいと思うのです。
(牧師・西本詩生)
『 キリストに心開くなら 』
マルコによる福音書5:18~20、ヨハネによる福音書9:1~3
2024年10月20日(日)
聖書にはイエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた多くの人々を見ることができます。私たちが生きている今の時代においても同じです。イエス・キリストとの出会いによって、人の人生は変わるのです。出会いは、人生を左右するほどに大きな影響を与えることがあります。出会いが人生を決めると言っても過言ではありません。私たちにとって何にも増して、イエス様との出会いほど素晴らしい出会いはありません。
マルコ5章に、悪霊につかれた男の話が出て来ます。彼もまた、イエス・キリストとの出会いをとおして、その後の人生が変えられた人の一人です。イエス様が弟子たちと共に、ゲラサ人の地というところに行った時のことです。そこは、ガリラヤ湖の南東部、ヨルダン川の東側、現在のヨルダン領にあり、デカポリスと呼ばれた地方でした。そこでは、豚が飼われていたということですから、ユダヤ人が住む地域ではなく、いわゆる異邦人の住むところでした。この悪霊につかれていた男もユダヤ人ではなく、異邦人だったのでしょう。
この男がどうして悪霊につかれるようになって墓場に住むようになったかはわかりませんが、推測できることは、彼がそうなりたくてなったのではなく、そのような状態から変わりたくても自分ではどうすることもできなかったのだと思います。そこへイエス様が来られて、その状態から救ってくださいました。そして、その男はイエス様についていきたいと願いました。しかし、イエス様はそれを許されませんでした。イエス様は言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」彼はイエス様のもとを去って、イエス様が言われたとおりに、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、その地方で言い広めたのです。
考えてみると、イエス様のもとを去った後、この男の行動について、福音書の著者はどのようにして知ることができたのでしょうか。マルコはペテロとは師弟関係にあり、この福音書はペテロの記憶をもとにマルコによって書かれたとも伝えられています。もしも、そうだとしたら、ペテロはどのようにして、この男の行動について知ることができたのでしょうか。彼に直接会って聞いたのでしょうか。それとも、他の人から聞いたのでしょうか。そこは想像するしかありません。イエス様の時には弟子として認められたのはユダヤ人だけでした。しかし、パウロやペテロが宣教する時代になると、ルカをはじめ何人もの異邦人の働き人が起こされていたことがわかります。もしかすると、この男もその一人として活躍していた可能性もなくはありません。
確かなことは、悪霊から自由にされたこの男は、イエス様に心開いたのです。心を開くとは、相手に対して親しい気持ちを持って歓迎することです。この男は、イエス様を喜んで主として迎えました。そして、彼の人生は変えられていきました。イエス様に心開いて、イエス様を歓迎して自分の心の座に迎え入れるなら、その人の人生は変わるのです。
イエス様との出会いで人生が変えられた人の話は、ヨハネ9章にも見ることができます。彼は目が不自由でした。この時代は今の時代とは違って、目が不自由ということは、生きるためには物乞いをするしかありませんでした。そこへイエス様と弟子たちがやって来ました。弟子たちはイエス様にこんな質問をしました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
弟子たちは、なんて無神経で思いやりのない質問をするのでしょうか。でも、弟子たちがこんな質問をしたのにはわけがありました。当時は、病が罪の結果として起こるというのが一般的な考えだったのです。病と罪とはまったく関係がないとは言い切れませんが、この考えはあまりにも極端すぎます。このような病に対する偏見が人々を苦しめていました。
しかし、イエス様の見方は違いました。イエス様の見方には、真理があり、愛があり、希望がありました。イエス様は弟子の質問にこう応えました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」盲人にとってはイエス様のこのことばが、今までに聞いたことのない、まったく新しい発想、そして、それは自己肯定感と希望と慰めを与えてくれることばだったと思います。彼はイエス様に心開いて、イエス様の言われるとおりに行ないました。そうしたら、見えなかった目が見えるようになりました。
この後、彼にとって大変なことが起こってしまいます。イエス様の事を受け入れたために、ユダヤ人のコミュニティーから追放されてしまったのです。でも、彼は以前の彼とは違っていました。彼の内には、真理のためならいかなる困難にも屈しない勇気が与えられた姿を見ることができます。イエス様に心開くなら、そして、イエス様を歓迎するなら、その人の人生は変わります。そして、神の力とみわざがその人にいろいろな形で現されます。
私も学生の時にアメリカ人宣教師と出会いました。それがきっかけで教会に行くようになりました。聖書を読みました。理解できないことがたくさんありました。それでも、イエス様に心開いて、信じてやってみようと思いました。今考えると、それは最高の選択だった思います。イエス様を信じたら、明るくなりました。あまり心配しなくなりました。悩まなくなりました。楽観的になりました。不安や恐れが小さくなりました。生きることが楽になりました。イエス様に心開き、イエス様を心に迎え入れるなら、人生は変わります。
しかし、イエス様を信じたからと言って、人生に何の問題も起こらなくなるわけではありません。いろいろな問題や困難を通ります。でも、たとえ、そのようなことが起こったとしても、神様はそれらを乗り越えさせるために、私に力と余裕を与えてくださいました。そして、それ以上の恵みとして、復活の希望が与えられ、とこしえまでも神の子どもとして神の御国に生きる者としてくださいました。将来、必ず起こることとして、そのことを信仰によって受けとめています。すべては、イエス様のおかげです。
私たちには、イエス様を信じてよかったと思うことがたくさんあると思います。思い出してみましょう。イエス様を信じたら変わるということを、イエス様をまだ知らない人に知らせたいと思います。私たちの周りには、そのような人がたくさんいます。もしかしたら、話してもあまり興味を示さないかもしれません。もしかしたら、反発されてしまうかもしれません。でも、もしかしたら、イエス様の話をずっと待っていたと言う人もいるかもしれません。
また、クリスチャンである私たちは、いつもイエス様に心を開いた状態でいたいと思います。イエス様に心を開くとは、イエス様をいつも歓迎することです。キリストに心開くのなら、私たち自身と私たちの人生にも神様のわざが豊かに現わされるのです。そのことを覚えたいと思います。それではお祈りします。
(オープンドアチャペル・佐々木俊一牧師)
『 うその平安はいらない!本当の平安を受け取る 』
マタイによる福音書11:28~30
エレミヤ書6:13~15
2024年10月13日(日)
◆ こどもメッセージ
世界で一番小さい国は、ヴァチカン市国という国です。どのくらい小さいかというと・・・。ヴァチカン市国はイタリアのローマの中にあるんだけど、イタリアっていう国がこのブーツみたいな形をした国で、その中のローマという都市がこのくらいの大きさで、ローマを大きくしてみると、やっと見えてくる小さな国がヴァチカン市国です。そのヴァチカンに、システィーナ礼拝堂という建物があって、中はこんな感じで、壁や天井にたくさんの絵が描かれています。
今からもう25年くらい前に、大学の卒業旅行で、3人の友だち一緒にイタリアを旅したことがありました。飛行機だけ予約していたけど、泊まるホテルも何も決めずに行った、無謀な旅でした。イタリアはとにかく食べる物がおいしいので、イタリアに着いてから、調子に乗ってパスタとかピザとかラザニアとかジェラートとか・・・食べまくっていたら、旅の前半で持って来ていたお金がほとんどなくなってしまいました。なので、治安のあまり良くないイタリアで、セキュリティーの「セ」の字も感じられないような、一つ星の安ホテルに泊まるしかなくなってしまいました。鍵もちゃんとかからなければ、シャワーを浴びたら、お湯が寝る部屋に溢れ出てしまうような、とんでもない部屋でした。バスや電車に乗るお金もないので、とにかくどこに行くにも歩くしかないという、過酷な旅でした。実はその時に、このヴァチカンにも行ったんです。泊まっていたホテルからヴァチカンまでは20キロくらい離れていたけど、何せお金がないので、ヴァチカンにも、朝5時に起きて、歩いて行きました。鍵もかからない部屋だったので、荷物も全部抱えて歩きました。着いたのは、確か10時くらいだったと思います。なので、そこに辿り着いたということがとにかく嬉しくて、嬉しくて、たまりませんでした。その時の写真がこれです。完全にのぼせてます。こののぼせた状態で、ぼくらは礼拝堂の中も騒ぎながら歩き回っていたので、日本人のシスターに捕まり、こっぴどく怒られた・・・という、苦い思い出しか残っていません。写真もこれしか残っていません・・・、一体何をしに行ったんでしょうね・・・。
その時に、きっと見たであろう礼拝堂の中の絵の中に、“ルネンサンスの三大巨匠の一人”と言われるミケランジェロっていう有名な絵描きさんの絵もあって、その中に、7人の預言者の絵があるんです。ダニエル、ゼカリヤ、イザヤ、ヨナ、エゼキエル、ヨエル、エレミヤ。“こひつじタイム”で『聖書覚え歌』を歌っている人たちは、なんとなく聞き覚えのある名前もあるよね。さて、この7人の絵を並べてみると・・・、どうでしょう?最後のエレミヤだけ、なんだか暗くて・・・、陰気臭くて・・・、下を向いてて・・・、しみったれてるなあって思いませんか?他の預言者たちは、なんだか凛々しくて、知的に描かれています。神さまの言うことを聞かず逃げ回っていたあのヨナですら、エレミヤよりはずっとましです。“涙の預言者”って呼ばれるエレミヤは、このミケランジェロの描いた絵の通り、悩みながら、苦しみながら過ごした預言者だったんです。
今日の聖書の箇所で、エレミヤは、「平和だ、平和だ」って言っているほかの預言者たちの言葉を打ち消しながら、「平和なんかじゃない!」って言いました。「わたしたちの先祖は、神さまの言うことを聞かず、神さまとの約束を破って、自分たちのやりたいようにやってきたじゃないか。このまま神さまに立ち返ることをせずにいたら、この国はやがて滅びるんだ!平和なんかじゃない!」って。実際、イスラエルの国は、もうすぐ滅びようとしていました。だけど、みんなそんな現実と向き合いたいとは思っていませんでした。だから、「大丈夫、大丈夫。そんなに心配しなくても、真面目に考えなくても、今は平和なんだから」という、偽の預言者たちの言葉を、喜んで聞いたんです。「うその平和」で、誤魔化していたんです。でも、それでは本当の意味で、心は満たされませんでした。神さまとの関係が崩れたままでは、いくら熱心に形だけ礼拝をしていたって、みんなの心は平和でなんかなかったんです。エレミヤの言葉は、厳しい言葉だったけど、それは「神さまが与えてくれようとしている本当の平和をちゃんと受け止めよう!」って、みんなに訴える言葉だったんです。
◆エルサレムの嘆きを負ったエレミヤ
エレミヤが預言者として過ごした時代は、紀元前600年頃。それまで、地中海地方で独裁的な勢力を奮っていたアッシリアが、徐々に勢力を落とし始め、代わってバビロニア帝国が確実に勢力を拡大しており、南ユダ王国もその帝国の勢力に脅かされていました。そんな折に、若くして預言者として立てられたエレミヤでしたが、彼の40年にも及ぶ預言者としての活動は苦悩に満ちたものでした。先ほどのミケランジェロの描いたエレミヤ像を見てみると、彼の右肩はガックリと下がっているのがわかります。ひどい重荷を負った彼の右肩は、その重荷に耐えかねたように下がり、そしてその右肩のちょうど後ろには、一人の悲しそうな娘の姿が描かれています。この娘は、「シオンの娘」と呼ばれています。シオンというのは、もともとは丘の名前でしたが、そのうちに神殿を含めたエルサレム全体を指す言葉として用いられるようになりました。そして、シオンを母親に見立てると、その娘というのはその住人たちのこと。つまり、「シオンの娘」というのは、イスラエルの人々のことを指すのだそうです。エレミヤの肩には、国を失おうとしているイスラエルの人々の嘆きと悲しみが、ずっしりとのしかかっていたのでした。
◆自ら預言者になりたかったわけでもないのに託された重たい預言の働き
『エレミヤ書』の冒頭には、神さまから「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」と、預言者として立つようにとの召命を受けながらも、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と、神さまの召命を拒むエレミヤの姿が描かれています。エレミヤは、何も喜んでこの預言の働きを担ったわけではなかったのです。なんなら一度は断ったのに、それでも神さまから「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない」と命じられたために、その働きを担うことになったのです。渋々だったのか、諦めてだったのかはわかりませんが、少なくとも自分から前のめりで預言者になったわけでは、決してありませんでした。ところが、そんなエレミヤに、神さまは「この国はやがて滅びる」と語らせたのです。人々が喜ぶはずのない言葉を、エレミヤに託したのです。偽預言者たちが語るように、「平安だ、平安だ」と、人びとの喜ぶ言葉を語ることができれば、どれほど楽だったでしょうか。でも、エレミヤは、彼らのようにうそぶくわけにはいきませんでした。本当の平安は、この後訪れようとしている大きな試練を経て、人びとが自ら神さまへと立ち返っていかなければ、決して受け取ることができない・・・ということを、エレミヤは知っていたからです。
◆そういえば、ぼくも“大丈夫”じゃないかも・・・
今年、二度の小さくない手術を受けました。腎臓癌と心臓弁膜症という二つの病気を治すための手術でした。病名が病名でしたので、ぼく以上に、家族や周りの人たちが心配してくれました。今もそうです。「その後、大丈夫ですか?」と皆さんが声をかけてくれます。遠くで祈ってくれている人たちもたくさんいます。本当にありがたいことです。それで、ちゃんと考えてみました。「大丈夫か?」と言われれば、たぶん大丈夫ではないです。術後の経過が良くないというのではなく、術後の経過は順調すぎるほど順調です。でも、それで手術をしたことを忘れるくらい元気なために、手術前より忙しく過ごしています。皆さんに助けてもらわなければ、全然大丈夫じゃないです。それこそ、「大丈夫だ、大丈夫だ」、「平安だ、平安だ」と、“うその大丈夫”・“うその平安”で誤魔化しているのは、ぼく自身だと、今回とても反省しました。先日天に召されたN姉の葬儀でのメッセージを準備しながら、N姉が年を重ねながら、だんだんと弱って、色んなことができなくなっていくことを、決して隠そうともせずに教会に集い続けてくださったことで、その最期を“教会家族”みんなで看取ることができたことを思いつつ、弱さが人と人とを優しさでつなげていくんだということを、つくづく学ばされました。逆に、ぼくの“うその大丈夫”は、強さで人と人とを分断してしまっている・・・と。ですから、正直に申し上げると、ぼくも全然大丈夫ではないです。手も足りなければ、日々アップアップしています。牧師たちの契約更新が迫る中で、執事会でも、牧師たちの働きをどう軽減できるか・・・と話題にしていただいていますが、皆さんに、自分たちのどの働きを代わりに担ってほしいというよりも、どうぞ可能な限り教会に足を運んでほしいと思っています。特に平日の教会の姿を見に来てほしいです。何をするわけでなくてもいいので、教会に足を運んでみてください。教会にパソコンを持ってきて、自分の仕事をしたって、家計簿をつけたって構いません。平日、実に多くの人びとが教会に出入りしておられます。
プログラムもたくさんもたれています。水曜日の朝夕の「祈祷会」、ひかり幼稚園の「親子合同礼拝」、ママさんコーラスの「アシュレーコール」、幸齢者の集いの「パトモス会」、子育て中の親たちの集まり「まめクラブ」、手作り品を作る「オリーヴの会」、金曜日に無料でお弁当をお渡しする「お弁当プロジェクト」とその準備、YWCAと共催の「ご近所食堂」、教会から始まった高齢者施設「神愛園」には月に一度ボランティアを派遣しています。
この教会が行っているプログラムだけでなく、ここを会場としてもたれているプログラムもたくさんあります。先日コンサートも行われた「童謡の会」、超教派の聖歌隊「グロリアコール」、近隣のいくつかの町内会の総会やお楽しみ会、介護予防センターの「お料理教室」、その他いろんな団体が教会を会場として使っておられます。
プログラムがなくても、地域の人たちが教会に出入りします。犬の散歩をしながら玄関前のベンチで休む人、風除室の「どうぞの机」の物を持って来る人・持って行く人・チェックだけする人、玄関前のお茶を飲みに来るこどもや大人、長い信号待ちをしながら掲示板に貼ってあるものを隅から隅まで読んでいる人、「みんなで助けあいプロジェクト」のための物資をこっそり持って来て箱に入れていってくれる人、毎日手紙を書いて届けに来る人、ホールに卓球をしに来るK中学の卓球部の子とその友だちのバレー部の子、大人数でなだれ込んで来て思いっきり遊んで帰る小学生たち、フラッと来て子どもコーナーで寝転がっている子もいます。その子たちが、日曜日の午後にもたれているソフトボールチーム「エダーズ」の練習にも参加したり、「こひつじタイム」のイベントに参加したりもしています。
平日の教会に、人びとがどのように出入りしていて、その人たちにとって、教会がどれだけ平安を得られる“居場所”となっているかを、一度ぜひ見てください。それを見てくださるだけで、きっとぼくら牧師たちの普段の働きを、ずいぶん理解していただけると思うんです。その中で、どのような形で、この教会に託された神さまの働きを、共に担えるかを、皆さんと一緒に考えていけたらと願っています。
◆エレミヤを支えたのはただただ神さまの言葉だった
自分がまだ若いことに不安を抱え、立ち向かう人々からの反応に対しても希望を持てないまま、預言者として立たざるを得なくなったエレミヤ・・・。彼を唯一支えたのは、「わたしがあなたと共にいて、あなたを救う」という、神さまの言葉でした。先ほどのミケランジェロの絵で、シオンの娘の重荷によって下がった右肩に対して、左の肩は、対照的に光に照らされ上を向いていることに気付かされます。そして、この左肩のちょうど後ろに描かれているのは、「懲らしめを受けた後のユダの子の横顔」だと言われています。神さまを離れ、神さまに対して罪を繰り返したイスラエルの人々は、自分たちの国を失うという大きな悲しみを経験します。ところが、このユダの子の横顔は、右肩に描かれたシオンの娘とは違って、真っ直ぐに前を見据えた、どこか希望に満ちた顔として描かれています。
確かにエレミヤの預言には、希望を感じられませんでした。「やがて、この国は滅びる」、「平安などない」という言葉を、誰が聞きたいと思うでしょうか?でも、彼の預言はそこに留まっていたわけではありませんでした。神さまに背を向けた歩みを繰り返していた我々は、大きな試練を経験することがなければ、神さまに決して立ち返ることがないのだということを、エレミヤは語り続けていたのです。事実、イスラエルの人々は、国を失い、バビロンという地に捕囚として連れ去られていくわけですが、その地で、改めて神さまに与えられた律法を読み、それを守ることの大切さ、神さまに向かって生きることの大切さに、立ち返っていくのです。彼らが守ろうとした地上の富や力は、彼らを助けることはできませんでした。より強大な力によって、飲み込まれていくだけでした。ですが、エレミヤが語った神さまの言葉は、絶望の淵に立たされた彼らを、もう一度立ち上がらせていったのです。エレミヤ自身も、苦悩し続けた預言者ではありましたが、この絵にあるように、決して絶望はしていませんでした。それは、神さまがいつも彼と共にいて、その働きを導いてくださっていることを、彼が確信していたからでした。神さまの召しに答え、その働きに仕えることには、苦悩が伴います。順調になどいきません。でも、その現場でこそ、ぼくらは「わたしがあなたと共にいて、あなたを救う」という神さまの言葉を聞くのです。その言葉にこそ支えられていることを知るのです。“うその平安”を語ることなく、苦悩の内に“本当の平安”を、一人でも多くの人々と共に受け取っていきたいのです。
(牧師・石橋大輔)
『 ひかりの子として 』
ヨハネによる福音書1:5/詩篇199:105
エフェソの信徒への手紙5:8(新共同訳)
2024年10月6日(日)
札幌バプテスト教会の誕生
おはようございます!幼稚園では、毎月必ず「誕生会」が開かれていると聞いています。毎月の誕生会をいつも楽しみにしているという人、手を上げてくれるかな?誕生日・・・生まれてきてありがとうの日・・・今日は、ひかり幼稚園の70歳の誕生日をみんなで喜びたいと思ってここに集まりました。70って、大きな数字ですね。指で数えても指が足りなくなって全然数えきれません。70年・・・とても長―い間、ひかり幼稚園は子どもたちと一緒に過ごし、成長してきました。
実は、幼稚園の誕生日をみんなで喜びたいと思って、幼稚園のS理事長の力を借りて、今日のためにすごろくゲームを作りました。人生ゲームならぬ、「ひかり幼稚園すごろくゲーム」です。幼稚園がどんな風に誕生したのかが見えてくるゲームです。
早速始めてみましょう。時は70年以上も前のこと。まだひかり幼稚園は誕生していません。ルーレット・スタート!♪・・・大当たり!!!18マスも進めます。時は1953年5月17日・・・雪が解けて、沢山のお花も咲き始める時期ですね。この日に何が起こったのでしょう。実はこの日に、沢山の人が大きなテントに集まりました。この写真がそのテントです。
これがどこだか分かりますか?今ひかり幼稚園の建物が立っているあの場所です。70年以上前は、建物がない原っぱだったのです。そこで、大きなテントが建てられました。そして、今私たちがしているように礼拝がそのテントの中でもたれたのです。礼拝で「新しい教会をはじめさせてください」とみんなで神さまにお祈りしたのです。その様子がこの写真です。薄暗い中で、大勢の人がいますね。このようにして、私たちの教会、札幌バプテスト教会が始まりました。
さぁ、どんどんゲームを進めますよ。今度は何が出るかなぁ?ルーレット・スタート!♪・・・あら、今回は3マス。とりあえず進んでみましょう。時は1953年11月1日。さっきと同じ年ですが、秋になりました。雪虫が飛んでいる時期でしょうか。5月まで原っぱだったあの場所に、なんと、急ピッチで教会の建物が建てられたのです。5カ月という信じられないほどの速さで建てられました。どこか見覚えありませんか?今もこの建物はひかり幼稚園でも使われています。この時から、幼稚園をはじめようかという話が教会の人たちの中でされ始めたと言われています。いよいよ、ひかり幼稚園の誕生に近づいてきました。
ひかり幼稚園の誕生
幼稚園の誕生のマスに当たるだろうか。6が出れば、ドンピシャです。さぁ、ルーレット・スタート!♪・・・6マス!すごい!時は1954年4月15日。まだ寒い時期ですね。ひかり幼稚園が48人の園児たちと一緒に始まりました。入園式の記念写真は教会玄関前で撮りました。今写っている写真がその様子です。
よく観ると、園児も、家の人も、先生たちもちょっぴり緊張している様子。でもいざ幼稚園に慣れてくると、こんな様子の写真もありました。のびのびしていますね。
「ひかり幼稚園すごろくゲーム」の残されたマスが減ってきました。今度は何が出るでしょう。ルーレット・スタート!♪・・・なんと!!桁違いの832!!もう、残ったマスからはみ出てしまいました。でも、未来へLETS GO!
ひかり幼稚園・園歌
時は1982年4月。幼稚園は28歳になりました。そして、この頃幼稚園では、ひかり幼稚園で作られた讃美歌が欲しいねと盛んに言われていたそうです。その時の園長先生であったN先生は「よし。ひかり幼稚園の園歌を作ろう!」と決め、このようにしてひかり幼稚園の園歌が誕生しました。せっかくなので、今ここで、園歌をみんなで歌いたいと思います。
わたくしたちは しゅいえすのこども
いつもあかるく うたいます
かみさまのさんびを ひびかせながら
ひかりのみちを すすみます
ひかりかがやく ひかりようちえん
素敵な讃美歌ですね。この讃美歌の言葉を作り出したのは、当時の園長先生であったN先生です。そして、その言葉にメロディーをつけたのが、私たちの教会員のMさんです。実はこのメロディーを思いついた時のMさんは、ぎっくり腰で入院していました。入院するほどのぎっくり腰ですので、相当痛かったはずです。でもこの讃美歌を歌うと、その当時入院していたとは全く思いもつきません。
ひかりの子として歩みなさい
この素敵なメロディーが、入院中に作られたと聞いたのは、三日前のことです。そして、そのことを聞いて、不思議にも元気づけられました。というのも、入院するとなると、ものすごくルンルン気分になる人はあまりいないと思います。入院したての時は特にそうだと思いますが、下向きになりがちなのでしょう。でも、その入院中に、下向きになった顔を上げさせてくれるような讃美歌が作られたと思うと、元気づけられたのです。
この讃美歌の言葉を生み出したN先生のことを、幼稚園のみんなも覚えて祈ってくれました。先月ぐらいから90歳のN先生は、食べ物も、飲み物も飲み込めなくなっていました。そして、幼稚園のみんなはこういうビデオメッセージをN先生に送ってくれました。
N先生。お祈りしているよ。神さまが一緒にいるよ。バイバーイ。
N先生が作った園歌はこう始まります「わたくしたちは しゅいえすのこども」。私たちは涙の子でもなく、雷の子でもなく、真っ暗なところの子でもありません。私たちは主イエスのこども。主イエスのこどもとして、神さまが愛してくださっている・・・神さまがそのように私たちを最大限に愛してくださっているのですから、顔を上げて進むことができるのです。
とはいえ、時には悲しい時もあります。顔が下向きになる時もあります。真ん前が真っ暗だとしか思えない時もあります。転んで起き上がれない時もあります。でも、神さまはそんな私たちと一緒にいてくれます。光であるイエスさまが一緒にいてくれます。だから、聖書はこういうのだと思います。「光の子として歩みなさい」。つまり、神さまはこう言ってくださるのです。「真っ暗じゃないよ。神さまの光が闇の中で輝いているから、顔を上げて進んでみないか」と。「光の子として歩みなさい」と聖書は励ましてくれるのです。「愛された光の子として歩みなさい」と。
わたくしたちは しゅいえすのこども♪です。涙の子でもなく、雷の子でもなく、真っ暗闇の子でもない。わたくしたちは しゅいえすのこども♪。このことを覚えて、ひかり幼稚園、また、札幌バプテスト教会も70年と71年歩んできました。これからも、顔を上げて、与えられた道を進んでいければと思わされるのです。
(牧師・西本詩生)