『 不協 和音 』

 伝道の書2:1~4

創世記11:1~9

2023年9月24日(日)

 

子どもメッセージ

 今日は「ジロー」(本当の題名は「エリック」ですが内容と深く関わるところですのであえて今日は「ジロー」と呼んでいます、著者:ショーン・タン)という絵本を読みたいと思います。ある日、遠い国から来た留学生が、主人公の家に暮らすようになったのです。ジローという留学生です。ジローとの生活を描く絵本ですが「同じ人同士・・でも違いを持つ人同士は、果たして分かり合えるんだろうか?」そんなことを考えるきっかけとなる絵本だと思います。

 

「何年か前、わが家に留学生がやってきた。彼の本当の名前はむずかしくて、だれもちゃんと発音できなかった。  いいんですよ、と彼は言った。」

「ぼくのことなら、ただ“ジロー”でけっこうです。」

「ぼくらの家に空き部屋があったので、その部屋の床や家具を掃除し、カーテンも洗濯し、彼が気持ちよく暮らせるよう、すっかり準備をととのえていた。だから、なぜジローが勉強するのも、眠るのももっぱら台所の棚の中だったのか、理由はいまだに謎だ。」

「『きっとお国柄ね』と母ちゃんは言った。『いいじゃないの、本人がそれでいいんなら』」

「だからぼくらはジローのじゃまにならないよう、食料や台所用品をほかの棚にしまうようにした。」

「ずっと前からぼくは、家に外国のお客さんが来るのをひそかに夢見ていた。そしたら、いっぱいいろんなものを見せてあげるんだ。この国の面白いことを何でもかんでも教えてあげるんだ。その絶好のチャンスが、ついにめぐってきたのだ。

さいわいジローはとても好奇心旺盛で、僕をあれこれ質問ぜめにした。」

「ただその質問は、ぼくが期待していたようなとは、ちょっとちがっていた。

たいていの場合、ぼくはただ『さあ、わからないよ』とか『とうしてって、どうしてもだよ』としか答えられなかった。なんだかひどく役立たずになった気分だった。」

「ぼくは、お客さんにこの街の一番いいところを見せてあげるんだと心に決めていたので、週末のたびに計画を立てて、みんなでいろんなところに出かけた。

ジローも喜んでくれたとは思うけれど、やっぱり本当のところはよくわからなかった。」

「どこへ行ってもジローが興味をもつのは、たいてい、地面に落ちているちっちゃなもののほうだった。」

「ぜんぜん頭にこなかったといえば嘘になるけれど、そんなときには母さんの言うように“お国柄”なんだと思うようにした。」

「すると、あんまり気にならなくなった」

「そんなぼくらも、ジローが帰っていったときには正直めんくらった。ある朝早く、とつぜん行ってしまったのだー。手を振って、ごきげんようとたったひとこと言い残して。」

「もう帰ってこないのだと気づいたのは、しばらくたってからだった。」

「その夜、夕食のあいだじゅう、ぼくらはああでもない、こうでもないと思いめぐらした。ジロー、なにか怒っていたのかな?この家にいて、楽しかったんだろうか?そのうち手紙でもくれるだろうか?」

「なんだか落ち着かない気配が家の中にただよっていた。何かがちゅうぶらりんのような、何かやり残していることがあるような。そんな変な気分のまま、何時間かが過ぎた。そしてついに、だれかが台所の棚の中にあれ(・・)を見つけたのだ。」

「行って、自分の目で見てくるといい。もう何年もたつけれど、暗がりのなかで、それは今も元気に息づいている。この家に新しくお客さんが来るたびに、ぼくらは真っ先にこれを見せる。『ほら、うちに来た留学生が、これを置いていったんですよ』  ぼくらはきまってそう言う。」

「『きっとお国柄ね』そう母ちゃんが言う。」

 

同じ人同士・・でも違いを持つ人同士・・・分かり合えることもあるのでしょうが、分かり合えないところの方が多いのかも・・・そんなことを考えさせられる絵本です。実際僕の家族のことで言うと・・近しいんですけど、何を考えているか分からんなぁ・・・と思うことがあります。そんなことを偉そうに言っていますが、僕が何を考えているのかが分からず、妻や娘たちは腹を立ててしまう方がきっと多いはずです。

分かり合えたいのに、分かり合えないと、気持ちがいいわけではありません。絵本が言うように、落ち着かず、何かがちゅうぶらりんのような、何かやり残しているような気になります。でも、考えてみれば、みんな違うのだから、分からず、ちゅうぶらりんで落ち着かないほうが、当たり前なのかもしれません。分かり合いたいけど、でもどんなに工夫しても分かり合えない時どうすればいいんでしょうね?「きっとお国柄ね」という、絵本の中のお母さんの台詞にヒントがあるような気がするのです。分かり合えないことが自然なことだと受け入れる・・・と同時に分かり合うことを諦めない「きっとお国柄ね」という台詞・・・。尊敬と感謝が込められた「きっとお国柄ね」・・・。

 

 多言語多文化多民族の状況を事細かく説明する創世記10章

今日は、俗に言う「バベルの塔」の場面です。現代の私たちの世界には様々な言語や文化があり、どのようにその多様性が生まれたかをお話している・・・子どもの時からそのように読んできました。人々は、たった一つの言語で通じ合っていたのですが、傲慢になった人々は神さまになろうとし、天に達する塔を建て始めた。それを危惧した神さまは、人々の言葉が通じ合わないようにし、人々を混乱させた。多様な言語が生まれ、全地の隅々まで人々は散らされていった・・・そのように理解してきました。でも今回、そのような読み方では腑に落ちない点がありました。今日は創世記11章から読んでいますが、直前の10章を観ると、世界中の様々な民族と多様な言語について、事細かく書かれているのです。既に多言語多文化だったのです。けれども、11章に入って聖書はこう言うのです、「全地は同じ発音、同じ言葉であった。」と。「あれ?なぜ急に一つの言葉になってしまったんだろう?」と思ってしまうわけです。

10章で説明されていることは、「バベルの塔」の後の時代のことだと考えられるかもしれませんが・・・それでも聖書は、多種多様な言語の説明を「バベルの塔」の後ではなく、直前に置いているのです。理由なく前に置かれないはずです。聖書をそのまま順番に素直に読めば、「あれ?多種多様な言語がついさっきまであったのに、なぜ急に一つの言葉になってしまったんだろう?」と思うのが自然でしょう。

 

 神さまは何を危惧していたのか?

いずれにせよ、一つの言葉で通じ合っていた人々の間で、神さまは混乱を生じさせました。互いに言語が理解できないようになったのです。神さまは何を危惧して、混乱を生じさせたのでしょうか?何がダメだったのでしょうか?どうやら、「一つになっていること」・・・一見いいことに見える「一つになること」の内に危惧すべき“何か”があったようです。というのも、人々は4節でこう言いました「われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」と。自然に任せれば、散っていくはずの人々は一つになることを必死に頑張っていたのです。けれども8節では、「主が彼らをそこから全地のおもてに散らされた」とあります。一つになろうと必死に頑張っていた人々は、神さまによって意図的に散らされたのです。

通常「一つになること」は、目指すべきよいこととして捉えるのだと思います。それぞれの思いが通い合い、一つになって何かを成すことは、他と比べることができない喜びの出来事だと思うのです。けれども、「一つになること」に至るまで、危惧しなくてはいけない“何か”があるのかもしれません。もしもこの物語を、10章で説明されていた多言語の状態の続きとして読むとしたら、不自然な形で人々は一つの言語になってしまったことになります。多様な在り方が守られていたところ、突然一つになってしまった。それぞれの違いが抑えられて同じになってしまった。同調圧力と圧迫による同化ではないだろうか?本来私たちはそれぞれ違いを持つのですが、その違いを表せないのであれば、それは本来の自分ではないのです。極端に言えば、皆ロボットのようになってしまうのです。個性という輝きが発揮できず、つまらない世界になってしまいます。

 

 神さまが生じさせた混乱は罰なんだろうか?祝福ではないだろうか?

異常な状態としか言いようがないところに、神さまは混乱を挿入し、人々はそれぞれの輝きを取り戻し、全地に散らされていった。このように読めないだろうか・・・と僕は思うのです。神さまが挿入した混乱は罰するためにしたのではなく、違いを持つ本来の人間の姿に戻すための混乱だったのではないだろうか?先ほどの絵本でリアルに描かれていた、違いを持つ本来の姿になれるよう、人々は自由にされたのです。分かり合えない違いを持つことは気まずさという混乱がつきものなのでしょうが、でもそれが私たちの本来の姿・・・自然の姿なのではないでしょうか?分かり合えない違いを持つのが私たちなのです。違いの中で、かけがえのない宝のような接点を見出すのです。

 

 違いをなかなか受け入れられず葛藤を重ねる中で学ぶこと

 今日から、次の日曜日まで、札幌バプテスト教会の神学校週間が、壮年会の呼びかけでもたれています。私は4年間、西南学院大学の神学部で学び・・・そこで何が一番の学びになったんだろうかと考えることがあります。聖書を学ぶ・・・教会運営を学ぶ・・・牧会の感性を磨く・・・祈ることを学ぶ・・・その一つ一つは欠かせない学びですが、自分がどういう人であるか・・・そして、神さまがどういうお方であるかを集中的に見せられる時であったように思うのです。

 神学生は皆それぞれ、熱い思いで神学校に入学します。私のことしか言えませんが「こうあるべきだ」という硬直した信仰で入学しますが、そのような思いでいると、他の神学生との考えがあまりにも違いすぎて、「何でこんなにも違うんだろう」と落胆する時があるのです。違いを持つ神学生と協力することの難しさに悩まされ・・・混乱を通らされながら・・・何が起こるかというと、私自身が砕かれると同時に、それを超えて働かれる神さまに気づかされるのです。正しいお方は神さましかいないということ・・・この一点が神学校での一番の学びであったと思うのです。

 

 協力の限界を超えて生じる和音

今日の説教題を「不協 和音」としました。音楽用語で「協和音」という言葉があり、それは文字通りの意味を持ちます。複数の音が協力し合い、和合し美しい音になるのです。でも「不協和音」はその反対を意味します。協力しない、和合しない複数の音です。私たちは、それぞれ違いを持ち、分かり合えないものをもっているのでしょう。そういう意味で、私たちの協力には限界があります。けれども、それを乗り越えていくのが聖書が語る「一つになること」ではないだろうかと思うのです。人の頑張りや違いの妥協によるものではなく、唯一正しい神さまが成してくださる「一つになること」です。

 

 聖霊降臨:混乱を乗り越えて一致が生じた

キリスト教会の伝統では、「バベルの塔」の物語は、使徒行伝で記録されている聖霊降臨の出来事と一緒に読まれます。言語が通じ合わなくなった「バベルの塔」の出来事ですが、聖霊が降ったことで、人々は自分の言語でイエスさまの福音を聴き取るようになったのです。言うまでもなく、聖霊が降ってきたときに、言語は一つになりませんでした。つまり、創世記で多言語になったことは、決して神さまの罰ではなかったのです。ペンテコステでは、それぞれの違いが保たれる中で、神さまの霊による一致が描かれています。何百か国の言語が一斉に交わされたのですから、カオスそのものだったのでしょう。でもそれを乗り越える、聖霊による一致があったのです。

 そもそも、聖霊が降った時、一つの大きな炎が人々を覆ったわけではなく、「分かれた炎が、ひとりびとりの上にとどまり」ました。それぞれにピッタシの形で聖霊が降ったのです。違いを持つ私たちですが、神さまはそれぞれにふさわしい形で出会ってくださるのです。今日はAさんが証しをしてくださいましたが、Aさんならではの信仰を聴き、神さまは本当にそれぞれにぴったしな形で出会ったくださることに感動しました。「神さまが私たちのお父さんなんだ」・・・アーメンです。

違いを持ち、分かり合えない私たちなのでしょうが、分かり合えるところ・・・アーメンとうなずかずにいられない所は、しっかりと噛みしめて、喜ぶことがゆるされているのです。違いのゆえに生じる混乱は気まずさを生じさせるのでしょうが、ちゃんと喜びが用意されているのです。棚の中にひっそりと隠れている宝のように用意されているのです。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 ふさわしい一生 』

 伝道の書12:13~14

創世記9:18~28

2023年9月17日(日)

 

子どもメッセージ

 今日でノアの物語の最後となります。小羊会のみんなは、先週動物園に行きましたね。楽しかったですか?ノアの箱舟にいろんな動物が乗っていたんだろうなぁ・・・よくみんな仲良く箱舟に乗れたなぁ・・・箱舟の中は臭くて暑かったんじゃないだろうか・・・そんなことを考えたり、感じたり、動物園の動物たちと過ごす時間となったと思います。僕も行きたかったなぁ。

 前々回のお話では、ノアの箱舟が、ある山の天辺に伸し上がり、世界中を覆ってしまった大洪水の水が徐々に引いて行った場面でした。一週間、一カ月、半年と・・・ずっとそこで待ち続け、水はすっかりなくなりました。雨が降り出してから一年以上も経った時にやっと、ノアの箱舟にいた動物たちやノアとその家族は外に出ることができました。窮屈であったであろう箱舟生活が終わったのです。

 神さまはこの時、ノアとその家族に一つの約束をしました。洪水の前も、洪水の後も、変わらず人は悪さを考えたり、悪さをしたりするでしょうけど、神さまは、二度と人を呪ったり、滅ぼしたりすることはしないという約束でした。神さまは洪水で世界の全てを流し去ったのですが、人の心の奥にあるもの・・・悪さをたくらむ心・・・それは水で流されたり、変化をさせられたりすることは無かったのです。変わらない人・・・変わらない私たちを見て、神さまはどうしたのでしょうか。人が変わらないなら、神さまが変わることを決めたのです。人を突き放したり、無視したりするのではなく、一緒に生きることを決めたのです。その約束のしるしとして、神さまは空に虹をつくりました。虹を見る度に神さまも、自分が誓った約束を思い出す・・・美しい虹にそのような意味が込められているのです。

神さまが決断したこと・・・一緒に生きることって楽しい時もいっぱいあるけど、いつも楽しいわけではありませんよね。めんどくさかったり、イライラしたりすることもあると思います。僕は先週、1歳半の娘のRが入院していたため、夜は、彼女と一緒に入院していました。ちなみに、Rは大分回復してきて、後もう少しで退院できそうです。Rと僕が入院して寝泊まりしているのは4人部屋です。4人部屋と言っても、それぞれ入院している子どもたちには家の人が付き添っています。ですので、一つの部屋で8人で暮らしています。僕みたいに、夜はお父さん、昼間はお母さん・・・交代で入れ替わったりしている人もいるので、病院のお医者さんや、看護師さん、薬剤師さん、栄養士さんなどなど・・・みんな合わせると20人以上が出入りする部屋で暮らしています。色んな人に助けられて生活をするこのことは本当に頼もしい・・・うちのRもガンバってるし、みんなもガンバっている・・・そんなことを肌で感じつつ、一緒に生きる良さを噛みしめながら先週は過ごしていました。と同時に・・・やっぱり大勢の人たちと一緒に暮らすことでストレスを感じずにいられません。夜寝る時には、いろんな音が聞こえてきます。治療のための機械の音・・・酸素を送り出すプシューという音・・・点滴が終わったことを教えてくれるピーピーピーという音・・・8人の寝言、泣き声やいびき、生活音・・・夜でも結構にぎやかです。そんなことを言ってる僕ですが、一番大音量でいびきをかいているのは絶対僕なんですけどね(笑)。

そんなふうに、先週は一緒に生きることの頼もしさ、と同時に、一緒に生きる事の難しさ・・・共に生きることは「いいよね!」の一言ではまとめられないことを感じていました。でも、神さまは、ノアとその家族に約束したのです・・・人と一緒に生きる・・・永遠にです。何があろうとも、どんなに大変でも、どんなに難しくても、他のみんながあきらめても、神さまは一緒に生きると約束したのです。その約束は虹に込められているのです。つい最近虹を見ましたか?虹を見て思い出したいですね。「あ、神さまの約束・・・私たちと『一緒に生きる』という約束は今も続いているんだなぁ」と。

実は、ノアの物語には続きがあります。この「続きのお話」も、一緒に生きることについて教えられることがあります。箱舟を出てから数年が経った時のことでしょうか、ノアはお酒でべろんべろんに酔っ払って、裸のままで寝てしまいました。ノアには三人の息子がいて、その一人、ハムという人が、ノアが裸で寝ていることに気づきました。もしも、みんながここでノアさんのとても恥ずかしい姿に気づいたら、どうするでしょうか。「おーい!みんな!見ろよ!ノアは裸だぞー・・・恥ずかしい姿だぞー」と、いろんな人に言い広めるでしょうか。ノアの息子ハムは、お父さんノアに対して何か根にもっていたのでしょうか・・・ノアが、恥ずかしい裸の姿であることを、自分の二人のお兄さんにわざわざ伝えに行ったのです。でも、それを聞いた二人の兄弟は、お父さんノアのところに行き、裸のノアに布をかぶせました。恥ずかしいノアの姿でしたが、恥ずかしくない姿にしたのです。

ノアは酔いがさめ、起きた時、息子ハムをコテンパンに叱りました。そして、裸のノアに布をかぶせてくれた二人の息子には感謝して、今度は彼らをほめまくりました。

ノアの物語は、それなりに長く、僕たちも4週間をかけて聞いてきましたが、このお父さんノアと三人の息子たちとのやり取りで初めてノアの言葉が記録されているのです。洪水の前に、神さまに「箱舟を造りなさい」と言われた時、洪水の最中嵐に揺らされている時、洪水の後動物たちのお世話で忙しかった時・・・ノアさんはいっぱいしゃべりたいことはあったのでしょうが、それらの場面で聖書はノアの言葉を全く記録していないのです。唯一記録されているのが、息子ハムをとことん叱ったこと・・・そして、もう二人の息子をとことん褒めたことだけを記録しているのです。不思議ですね・・・。

でもここに、ノアを通して聖書が伝えたいこと・・・ノアの生き方そのものが凝縮されていると僕は思います。裸で深い眠りに入っているノアの姿は、何も守るものがなく、スキだらけの姿です。裸で深い眠りに入っている姿は、人間の最も弱い姿だと言えるでしょう。赤ちゃんは裸で生まれてきます。他の人の助けなしにはなかなか自分だけでは生きられません。その弱くて、スキだらけのノアを、助けるのではなく、利用したのが息子ハムでした。ハムは一緒に生きようとしなかったのです。そのため、お父さんノアは息子ハムをコテンパンに叱りました。反対に、ハム以外の二人の息子は、スキだらけのお父さんノアの恥ずかしい姿を取り除いて、助けたのです。一緒に生きたのです。そのため、この二人の息子は、お父さんノアにほめられたのです。

聖書は「ノアは神さまと一緒に生きた」という最高の誉め言葉でノアをほめます(6章9節)。このような誉め言葉を受けたのは、聖書の中で二人ぐらいしかいません。そして「神さまと一緒に生きること」は「人と一緒に生きること」と切り離すことはできません。「神さま、神さま」と言いながら、守らなくてはいけない隣の人を守らないでいるのであれば、何かおかしなことが起きていると思いますよね。弱さを抱えるお一人お一人と一緒に生きることが神さまと一緒に生きることではないだろうか・・・とノアの息子たちとのやり取りから問いかけられるのです。

神さまは人と一緒に生きることを決意した。同時にノアは神さまと一緒に生きた・・・弱さを抱える人たちと一緒に生きた・・・ここに人の最もふさわしい生き方があると、ノアの貴重な言葉を通して聖書は伝えようとしているのではないかと思えてなりません。

今日は幸齢者祝福礼拝としてささげています。幸齢者の皆さんが歩んできた人生を一緒に喜びながらささげている礼拝です。ノアと息子たちとのやり取りは、ノアが600歳以上の時のことですので、超スーパー幸齢者のノアさんからの人生の学びを受けたのかなぁと思うのです。神さまは私たちと一緒に生きるのだから・・・神さまと一緒に生きる事・・・弱さを抱えるお一人お一人と一緒に生きること・・・ここに最もふさわしい人生があると。

 

後世への最大遺物

 今日は、幸齢者祝福礼拝ですが、この礼拝の準備の時、北海道にゆかりをもつ内村鑑三のある講演会のことを思い出しました。1894年にした講演で、「後世への最大遺物」という題がついたものです。人生の営みで私たちは何を遺せるのだろうか・・・このテーマを探ったお話でした。「『お金』を遺せるのだろうか?」というところから出発し、「事業はどうだ?」、「思想や文学はどうだ?」と探り続け、それぞれ遺せるのであれば、そのために無我夢中に祈って頑張って遺したほうがいいだろうという結論に至りました。世の中を良くしようと思えば、お金は必要不可欠であり、組織や社会インフラを整えるという意味で事業は必要であり、人の心を養う思想や文学も必要・・・このような考えを講演の中で展開しました。しかしながら同時に、誰もがそれらを遺せるものではなく、それらを遺したことで害も生じる可能性についても触れました。どんな人でも遺せる最もよいものは何だろうということを深く考えたときに、内村はこの発想にたどりついたのです。「『世の中は悪魔ではなく、神が支配するものである。失望ではなく希望があるのが世の中である。悲しみではなく喜びに満ちた世の中である』と信じて生きていくことなら、誰にでもできる。」と。お金、事業、思想や文学・・それらは人の一生に比べれば価値が小さい・・と内村は確信したのです。

 僕は娘と一緒に入院しながら、夜遅くに内村鑑三さんの本を読み、なぜか心が熱くなりました。隣りのベッドでは、小学生低学年の子が「帰りたいよー」とメソメソ泣いていました。そして、家の人がトントントンと彼女の胸辺りでしょうか・・・叩いて励ましている音が聞こえてきました。ちなみにメソメソ泣いていた彼女は昨日退院しました。そんな環境の中で本を読んでいたのですが、なぜか励まされたのです。灯が灯されたのです。「そうだ・・・私たちと一緒に生きているのは、悪しき者ではなく、善い神さまなんだぁ。たとえ目の前が暗くて悲しみで満ちていても、神さまが一人一人と永遠に一緒に生きてくださる希望と喜びがあるんだぁ」・・・このことを、内村さんの本は思い出させてくれたのです。

 

先輩たちへのお願い

 今日は非常にラッキーなことに、Uさんの証をお聴きすることができました。転入会の準備のために、何回かお宅を訪問し、Uさんがどのような人生を辿ってきたのかを聞かせていただきました。聞きながら「えー、そんな危険な場面があったんですか」と僕は正直びっくりするお話もありましたが、Uさんはその節々で言うのです「いろいろありましたが、神さまのために生きてきて本当にいい人生だった」と。

 今日は幸齢者祝福礼拝ですので、シニアの皆さんにお願いがあります。皆さんの背中に、最も大切な信仰の姿を見せさせていただきたいのです。たいそうなことをお願いしているのではありません。長い月日を辿ってきた人と若い人たちの違いは経験です。その経験を積み重ねてきた皆さんにしか言えない一言があるのではないでしょうか。それは、「長い年月を辿ってきて、いろんなことがあったけれども、振り返れば、どんな状況であっても、自分がどうあっても、神さまは一緒に生きてくださった・・・恵みの月日であった・・・だから大丈夫だ」という一言です。この一言がどんなに次の世代の人たちの背中を押してくれることでしょうか。皆さんの出番がここにあるのです。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 帰ることのできる場所があります 』   

創世記9:15~16

ピリピ人への手紙3:17~21

2023年9月10日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 みんなは、“ふるさと”ってなんだかわかりますか?その人の生まれ育った場所や、その人にとって馴染みの深い場所を、“ふるさと”って言います。ぼくにとっては、やっぱり生まれ育った福岡が、自分にとってのふるさとだと感じます。ただ、もう20年近く札幌に住んでいるので、博多弁もだいぶ下手になってしまいました。それでも、博多弁で会話できる相手に会うと、それだけでホッとしたりもするものです。ところが、先月お休みをもらって、福岡に帰ってきましたが、「ぼくが住んでいたころとは、ずいぶん変わってしまったなあ」と、つくづく感じてしまいました。町の百貨店は閉店し、商店街には新しいオシャレな店が並び、母校も移設して立派な校舎になって、閑静な住宅街だった実家の周りには高層マンションが立ち並んでいました。そして、たくさんかわいがってもらった、たくさんの人生の先輩たちが天国に行き、福岡に帰っても、もう会うことができなくなりました。残念ながら、この世のふるさとって、そうやって変わっていってしまうものです。それでも“帰ることのできる場所”として、ふるさとがあるというのは、とても嬉しいことです。

 ただ、先月、そんなふるさと・福岡に帰った時には、ちょっとびっくりすることもありました。実は、6月に札幌で受けた健康診断で、「心臓の音に雑音が混じっているので、病院で検査を受けてください」って言われたんです。ちょうど、8月に福岡に帰ることにしていたので、ぼくのお父さんが福岡で勤めている病院で検査を受けることにしました。検査を受けてみたら、「僧帽(そうぼう)弁(べん)閉鎖不全症」という病気だとわかりました。心臓には4つの部屋があって、そのうち「左心房」と「左心室」の間にあるのが、この「僧帽弁」っていう弁で、2つの部屋を分けるためのフタの役割をしています。心臓は体の全体に血を送る役割をしていて、この僧帽弁がちゃんと働いていると、「左心房」から「左心室」の方に血が流れて、「左心室」から全身に血が送られていくことになるそうです。ところが、ぼくの僧帽弁はちゃんとフタを閉めることができなくなっていて、「左心室」から「左心房」にも血が逆流してしまっているんだそうです。そうすると、体に血をちゃんと送るために、心臓が通常よりもずっとがんばって膨らんだりしぼんだりしなくちゃいけないので、段々と心臓が大きくなってしまっているみたいなんです。ただ、この病気になったといっても、まだこれといって何の症状もないので、しばらく気づかないままで過ごしていたみたいで、知らない間に病気が進んで、「病気の状態としては重度です」と言われてしまいました。この僧帽弁がちゃんとまた働くようにするためには、手術をするしかないそうで、札幌に帰ってきてから、今は近くの病院でもっと詳しい検査を受けて、いつ手術を受けるのがいいかを相談しようとしているところです。手術をするなら、胸を開いての手術になるみたいなので、「入院も一か月くらいはしてもらうことになると思います」と言われています。ぜひお祈りしてもらえるとうれしいです。

 さて、今日の聖書の箇所には、こう書いてありました。「わたしたちの国籍は天にある」。この言葉は、パウロっていう人の言葉です。パウロと言えば、イエスさまのことを伝えるために、世界中を旅した伝道者です。そのパウロが、「わたしたちの国籍は天にある」、「わたしたちの本当のふるさとは、天にあるんだ」って言ったんです。パウロにとっては、タルソっていう町が、生まれ育ったふるさとでした。ただ、パウロは、イエスさまを伝えるようになってからはほとんどタルソには帰っていないし、最後もローマっていう、タルソからは遠く離れた町で、パウロは死にました。そんなパウロが、言ったんです。そんなパウロだから、言ったのかな。「わたしたちの国籍は天にある」って。それは、神さまが私たちに、本当に帰るべき場所を、天に用意してくれているよっていうことでした。そして、だからこそ、私たちはこの世では、どこに行っても大丈夫。神さまが示してくださるところであれば、どんなところへでも出かけて行って、神さまのために働くことができるんだって、パウロは言いたかったんだと思うんです。

 

◆ 幼稚園の表現活動

 この4月から、教会の幼稚園であるひかり幼稚園の園長を兼任させてもらっています。毎日、保育の働きはまったくの素人ですので、先生たちに迷惑をかけながら、それでも、子どもたちの姿に、毎日癒されたり、励まされたりして過ごしています。この幼稚園では、毎年秋に「表現活動参観日」という行事がもたれ、今年も活動が始まりました。これまでの表現活動も毎年見せてもらってきましたが、忘れられない活動がありました。その年の子どもたちは、「ひかりタウンへようこそ!」というテーマを掲げ、準備が始まりました。「公園グループ」「道路グループ」「スーパーグループ」「マンショングループ」の四つのグループに分かれ、それぞれがこの「ひかりタウン」を紹介していくという内容でした。

 「公園グループ」は、幼稚園の近所にあるいくつかの公園に実際に足を運んで調査をしてきました。それぞれの公園の特徴を知るために、公園にある色んな遊具を調べたり、公園に生えている木を調べたり、公園に来ている人たちにインタビューをしたり・・・。公園といえば子どもたちが遊んでいるイメージですが、日中は結構、大人の人たちが散歩に来ていて、思い思いに過ごしているんだということも調べてくれました。また、公園でチェロを弾くおじさんにも出会ったそうです。そうやって、子どもたちが自ら足を運んで調査した、色んな情報を報告してくれました。

 「道路グループ」は、道路を行き交う乗り物や横断歩道に着目しました。バス、タクシー、市電に自家用車・・・。ただ、子どもたちがスポットを当てたのは、乗り物そのものではなくて、その乗り物に乗っている人たち・・・、横断歩道そのものではなく、そこを渡る人たちのドラマでした。バスに乗る人たちの行き先は、ある人はハワイ・・・、ある人は近くのスーパー・・・、ある人はお風呂屋さん・・・。自家用車に乗る人たちの行き先は、病院でした。赤ちゃんが生まれそうなお母さんとその家族がそこに乗っているという設定で、お母さんが産気づいて、急いで病院に向かおうとしているのでした。まさか子どもたちが、ただの自家用車から、そんな具体的な家族の様子を発想してくるとは思いもせず、ビックリしたのを覚えています。

 「スーパーグループ」は、自分たちの近所のスーパー・マーケットに出かけ、お店の人たちの働く様子、来ているお客さんの様子をつぶさに観察しました。「町といえば・・・」ということで、私たちの生活には欠かせない存在であるスーパーに着目した彼らは、そこで働く人たちが、どのようにして一日の働きをなしているのかを、NHKの番組『プロフェッショナル』風にアレンジして、忠実に再現してくれました。翌日に運動会のある日は、お弁当の材料を多めに陳列します。お弁当のいろどりのためのミニトマト、定番のおかずであるザンギを作るための鶏肉などなど。また、ファイターズの試合のある日には、夕方の客足が伸びないので、早めに割引を開始します。店員さんが割引のシールを貼って回りますが、それを待ち構えているお客さんもいれば、一度はカゴに入れたお肉をわざわざ出して、シールを催促してくるお客さんもいます。そんなスーパーの生々しい様子が再現され、演じられました。子どもたち、よく見ていますね。

 最後の「マンショングループ」は、ほとんどセリフのない、マンションを舞台にした、音と光のエンターテインメントを披露してくれました。このグループだけは、言葉ではどうにも説明しようがありませんが、とっても美しい舞台を演出してくれました。

 そして、それらのグループの発表の狭間に、一番小さな満三歳児・たんぽぽクラスの子たちの表現活動がありました。「祈ってごらんよわかるから」という讃美歌に合わせ、この札幌バプテスト教会の絵をバックに踊りました。満三歳児って、半分はまだ2歳児ですから、まあ、とにかく出てくるだけでかわいいんですが、聖歌隊のガウンに模した衣裳を着た10人の子どもたちが、歌に合っているのか合っていないのかよくわかりませんが、とにかく楽しそうに踊っている姿に、一同大変ホッコリさせられました。そして、「子どもたちの町の風景の中には、しっかりとこの教会もあるんだなあ」と、とてもうれしい気持ちにさせられたことでした。

 最後は、子どもたちのこんなセリフで、閉じられました。「スーパーに行っても、公園に行っても、車に乗ってお出かけしても、帰って来る場所はいつもお家!愛をありがとう!」表現活動を通して、どこに行っても“帰ることのできる場所”があるということのありがたさを、きっと子どもたちは感じたのでしょう。

 

◆ 人の努力によるのではなく神の一方的な憐みによる

 今日取り上げた『ピリピ人への手紙』は、伝道者パウロがピリピ教会の人々に宛てて書いた手紙ですが、パウロとこのピリピ教会との関係は、他のどの教会とよりも親密であったと言われています。そんな大切なピリピ教会に、パウロの伝える福音に反対し、人々をパウロから引き離そうとする人々が介入しているという知らせを、彼は獄中で耳にしたのです。そして、いても立ってもいられないパウロが彼らに送った言葉が、今日の言葉です。反対者たちは、律法にこだわった人たちでした。人は律法を守ることによって救われるのだと主張し、パウロが伝道しようとした異邦人、つまり非ユダヤ人に対して、ユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われないと、それを強要したのです。そして同時に、律法を守るということによって救われるのであれば、キリストの十字架など、救いには不必要なものだと排除しようとしたのです。しかし、パウロは「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」と批判し、彼らの思いが地上にのみ・・・、また地上における自分自身の業や力にのみ向いていることを指摘します。つまり、人は律法を守れるかどうかという、その人自身の努力によって救われるのではなく、ただただ神様の一方的な憐みによって救われるのであり、その救いはあのキリストの十字架によってもたらされたのだということを、パウロは大切に伝えようとしたのです。そして彼は、人々に向かって、「わたしたちの国籍は天にある」と宣言するのです。ぼくは、このパウロの言葉が大好きです。

 

◆ 移りゆくこの世のふるさと

 先ほども触れたように、ぼくにとって、生まれ故郷である福岡は特別な存在です。でも、ぼくにとって福岡が特別な存在になったのは、大学進学のために福岡を離れて広島に行ってからであり、また就職のために福岡を離れて札幌に来てから、ますますそうなりました。特に札幌に来るのに福岡を離れる際には、それまで三年間二人暮らしをしていたおばあちゃんと別れる寂しさや、想定していなかった牧師になることへの不安しかありませんでした。ですから、その行く先で、どのようなことになっていくかは、神さまに委ねるしかありませんでした。その意味では、“帰ることのできる場所”としてのふるさと福岡があってくれることが、その時どれほどか慰めであったでしょうか。しかし同時に、札幌に来て18年半も過ごしてみれば、ふるさと福岡も、ぼくの知っているかつての福岡とは、だいぶ様変わりしました。ですから、最近は福岡に帰る度に、懐かしさと同時に、そのような哀愁の念を禁じ得ないことも確かなのです。この世のふるさととは、そのように移りゆくものであると言わざるを得ないでしょう。

 

◆ 本当のふるさとを与えられているからこそ、この地上ではどこへでも

 パウロにとってもそうだったのではないでしょうか。あれだけ世界中を駆け回ったのですから、きっとふるさとを思う気持ちは、小さくなかったと思うんです。また生粋のユダヤ人として生きたパウロにとっては、ふるさと以上に、聖地エルサレムは、特別な場所であったことでしょう。しかし、パウロはこの世のふるさと、この世の聖地にだけにとらわれることはありませんでした。それは、彼の中に「わたしたちの国籍は天にある」との言葉が響いていたからでしょう。ぼくらがこの地上でどんなに大切にしている町や家や人間関係よりも、慕い求め、帰るべき場所を、神さまが天にこそ備えてくださっているのだという宣言です。そして、それは同時に、パウロにとって、「その帰るべき本当のふるさとが天に与えられているのであれば、この地上では神さまが示されるどんな地にも出かけて行こう」という原動力ともなっていたのではないでしょうか。「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。先に召された方々も、今を生かされているぼくらも、「国籍は天にあり」です。神さまが示されるところへと出かけ、与えられる働きに仕えていきたいと願うのです。

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 再創造 』

 ピリピ人への手紙2:6~8

創世記8:1~22

2023年9月3日(日)

 

子どもメッセージ

 今週もノアの物語の続きです。先週は、滝のような雨が40日間降り続けたお話でした。40日も雨が降り続けるとどうなるでしょう?山々のてっぺんまで水が覆ってしまう、未だかつてない大洪水が起きてしまったのです。ノアと動物たちはその洪水の中、どこを目指すわけでもなく、大嵐に揺らされながら水の世界をさ迷いました。嵐の激しさと壮大さに比べれば、自分たちを守っている箱舟はお米の粒のようなちっぽけなものと感じてもおかしくない状況でありました。このお話を聞く私たちは「本当に助かるんだろうか?」という疑問を抱かずにいられず、続きが気になる場面で先週は終わったと思います。

40日40夜の雨が続きましたが、雨は次第に弱まってきました。激しい雨が屋根にたたきつける爆音は過ぎ去り、やっと静けさを取り戻すことができました。まともな会話を久しぶりにすることができたのです。けれども雨が止んでも、心配がなくなったわけではありません。周りの360度、どこを見ても、地平線の奥のさらに向こう側まで、水だけでした。どこを見ても青と灰色の水の世界。その中で、ノアはじっと待つしかありませんでした。もちろん、ノアとその家族は暇をしていたわけではありません。動物たちのお世話をしなくてはいけませんでしたので、忙しくしていたのでしょう。でも、頭の隅にはいつも・・「どうなるんだろう?」という心配があったことだと思います。

ノアに知らされていたかどうかは、聖書で明らかにされていませんが、洪水の水位が最も高いところで、神さまは自らの息吹を水の上に送りました(1節)。世界の始まりの時、深い暗闇の中に「光あれ」という息吹が吹き込まれたように、神さまは自らの息吹を水面に送りました。その息吹に呼吸するように、水は次第に引いていきました。すると、ある朝、箱舟の底から大きな音がしました・・・ギギギゴゴゴ・・・と。箱舟のみんなはびっくり。「何が起こったんだろう?」と首をかしげました。山の上に、箱舟が押し上げたのでした。もちろん、それが山のてっぺんであることは、誰も気づいていませんでした。岩の上に押し上げてしまったと思ったくらいだったのでしょう。でも、日に日に水は引き、隣の山のてっぺんも見えるようになり、そこではじめて箱舟が山の上に居ることが分かったのでした。

それから、40日が経ち、水はずいぶん減っていきました。ノアは、他の所がどうなっているかを探るために、カラスを送り出しました。しかしながら、カラスはこっちに行っても、あっちに、向こうの方に行っても住めるような場所はみつかりませんでした。また数日たってから、様子を見に行ってもらうために、今度は鳩を送り出しました。でも、カラスと同じように、住める場所が見つからず、鳩はすぐ戻ってきてしまいました。鳥たちが戻ってくるたびにノアは何を感じていたのでしょう。「いつまで待てば良いのだろう?動物たちの餌の底がつくのは時間の問題なのに・・・」そんなことを頭の中でグルグル考えていたかもしれません。また、しばらく経った時に、ノアは鳩を放ちました。でも、今度はなかなか戻ってきませんでした。夕方になってやっと戻ってきたら、何と・・・口にオリーブの木の葉っぱを加えていたのです。「森に命が戻ったんじゃぁぁ」と、隣にいたノアの妻をハグし、涙がポロリとほっぺたに伝っていきました。急いで、箱舟のみんなにオリーブの葉っぱを見せにいきました。「もうすぐ箱舟から出られるかもしれない」という期待感がみんなの間で湧き上がってきました。日に日に、山のてっぺんから見える地上の景色は緑に変わり、水もすっかり引いていきました。そして、ある日、神さまはノアに言いました「ノア、箱舟から出なさい。動物たちや鳥たちを地上に放ちなさい。そして、ふえて広がりなさい。」ノアは神さまの言う通りにし、動物や鳥たちを放しました。ものすごい勢いで地上の隅々まで動物たちは広がっていきました。箱舟から出たところで、ノアとその家族は神さまに礼拝をささげました。その時、神さまは自分の心の中で一つの大きな決断をしました。「もう二度と人や地上の命を滅ぼさない。人の心の中を見れば、洪水の前も、洪水の後も悪巧みの思いが変わらずはびこっている。けれども、二度と滅ぼすことはすまい。今度は、悪事を抱く人を滅ぼすのではなく、それぞれの人生にとことん付き合うことにする。どんな時でも『共にいる』ことを貫く。いい時も悪い時も普通な時も悲しい時も嬉しい時も・・・ずっと『共にいよう』。」と。

この時の神さまの決断がなかったら、キリスト教会はなかったかもしれません。というのも、この「二度と人を滅ぼさない・・・今度は『共にいる』ことを徹底する」この思いを抱かれたから、イエスさまは私たちのところに送られたのです。私たちと「共にいる」イエスさまとして送られたのです。神さまが「もう二度と滅ぼさない」と決めたことは、しばらく噛みしめてもいいことなのでしょうね。

 

変化の難しさ

「難しいことの代表的なものは何でしょう」と聞かれたら何が思いつきますか?決して一つのことに絞る必要はありませんが、「人が変わること」は上位に入るのではないでしょうか。良く「他人は変えられないが、自分は変えられる」という提言を耳にしますが、自分が変わることもたやすいことではないと思えてしょうがありません。もちろん変わることは目指したいものですし、変わらなくてはいけないことも沢山あります。僕は、妻と結婚し、それ以前の僕を知っている教会の人たちに「しなる君は結婚して変わったよね」とよく言われたことを思い出します。ですので、変化は確かに起こるのでしょうが、「ダイエットにはリバウンドがつきもの」と言われるように、変化を維持することは、並大抵のことではないのです。

 

神さまの変化

ノアの物語を読み進めていますが、不思議なことに、ノアという人物の心情について聖書は全く明かしてくれません。今まで読み進めてきたところでは、ノアの言葉の一言すら記録されてないのです。子どもメッセージでは、ノアが感じたであろう心配や葛藤などを紹介しましたが、それは全て僕の想像の範囲で語ったことです。聖書自体、ノアの心情に全く注目していない反面、神さまの心の中の感情は2回も明らかにしています。一回目は、6章6節で、悪事を重ねる人類の故に心を痛め、人をつくられたことを後悔した場面です。そして2回目は、今日の21節のところです。お読みします。「主は・・・(自らの)心に言われた、『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。」物語を聞く上で、ノアの心情を知りたいところですが、それには触れず、神さまの心の内を明かしていると考えると・・・今日の21節に、重きが置かれていると言えるでしょう。

この物語りを一読すると、最も変化が起きたのは、洪水によって一変された大地であると思うのが自然だと思います。けれども、聖書自体が神さまの心の内に注目していることを考えれば、最も重視されている変化とは、神さまの心の変化ではないだろうか・・・そう思わずにはいられないのです。そしてその変化の内容とは「変化をしない私たちを、二度と呪わず、滅ぼさない」という神さまの側の変化でした。洪水を決断させたのは、人類の罪と悪事でしたが、今度は「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」ことを知りつつも、それを、人を滅ぼす理由にするのではなく、滅ぼさない理由としたのです。罪人に裏切られても、振り回されても、どこまでも付き添い、寄り添うことを神さまは決断したのです。私たちと共に生きることを決断された・・・たとえ悪事と罪があっても・・・。

 

十字架に至るまでの変化-それを知らされた私たち

神さまがここで決断された変化の重さ、その重大さを考える時に、僕が青年大会に参加した時のあるお話を思い出しました。その青年大会で講師を担当した牧師の、幼いころの思い出話です。青年大会の講師を務めた牧師のお父さんも牧師で、そのお父さんは福岡県の教会で長い期間牧会をされていました。今は90代ですが、未だに佐賀県の無牧師教会の依頼を受けて、そのサポートに努めていると聞いています。そのおじいちゃん牧師が、恐らく、まだ30代40代の時のことでしょう・・・ある近所の方が、毎晩お酒に飲まれ、夜遅くに教会を訪ねてきたのです。最初はそうではなかったのですが、ある夜から、その近所の方が乱暴に物を扱うようになったそうです。止めてあった自転車を倒したり、物を投げたり、次第に牧師を殴ったりる蹴るところまで至り・・・暴力に悩まされる日々になってしまったのです。ある夜、いつもよりは早い時間に教会に訪れたのでしょうか、家族が居るところにその近所の方が訪れ、案の定、子どもたちの目の前でお父さんが・・・牧師が思いっきり殴られるのです。牧師は全く抵抗しないためだったのか、一番上の子どもがそれを止めようとしました。でもお母さんは手を拡げ、子どもたちに言ったそうです「父ちゃんの姿・・・牧師の姿を目に焼き付けんしゃい・・・イエスさまの姿を見るがよい」と。その家族には4人の子どもがいて、今でもこの出来事については意見が分かれるそうです。

けれども、このお話を紹介してくれた牧師は、この出来事は忘れられない記憶となったと言っていました。というのも、アルコール中毒であったこの方は、次第に礼拝に参加するようになり、バプテスマを受け、教会のメンバーになったのです。その後、アルコール中毒とどのように付き合ったのかは分かりませんが、大きな変化を経験したのは確かです。牧師とのやりとり、あるいは、その後の教会とのやり取りを通して、十字架のイエスさまと出会わされたのです。自分の暴力の愚かさにも気づかされたことでしょう。変化を経験したのです。

神さまが、「二度と私たちを呪わず、滅ぼさない」という決断の内実は、私たちの罪の故の呪いと滅びを神さまご自身が、十字架で引き受けるという決意だったのです。先ほどの牧師が、暴力を無防備に引き受けたことは十字架のイエス様に通じるものだと言えるでしょう。新約聖書の言葉を借りれば「豊かであったイエスさまは、私たちのために貧しくなったのです」(二コリ8:9)。十字架に至るまで、イエスさまは貧しくなられたのです(フィリピ書2:8)。私たちが豊かになるためにそうなさったのです(二コリ8:9)。

神さまが大洪水の後に決意されたこと、それは、私たちにどんなに振り回されても、どんなに裏切られても、神さまの側から私たちを引き離すことはないという変化だったのです。神さまご自身が変化をすることで、私たちの変化が見守られているのです。先ほど、変化の難しさに触れましたが、聖書に言わせれば、イエスさまの十字架という神さまの変化に、私たちの変化の切っ掛けが与えられているのです。なかなか変化をしない私たちなのかもしれませんが、その傍らにいつもイエスさまは寄り添ってくださいます。失敗をする時には、その失敗の結果まで共に背負ってくださいます。共にいてくださることで、私たちの変化が見守られているのです。神さまの側でまず変化がなされ、私たちの変化が見守られているのです。

 

(牧師・西本詩生)