『 水域を通り抜けて 』

 イザヤ書43:2

創世記7:1~24

2023年8月27日(日)

 

子どもメッセージ

 今週も「ノアの箱舟物語」からのお話です。今日は特に、ノアの視点・・・もし僕らがノアであったら、どんなことを見たり、考えたり、経験しただろうかを探っていきたいと思います。

ノアが生きた時代・・・人は皆好き勝手に生きていたと聖書は言います。「おまえのものはおれのもの・・おれのものはおれのもの」・・・皆「ガキ大将ジャイアン」の名台詞のままに生きていたということです。世界中のみんながジャイアン精神で生きるとどうなるでしょう?混乱があり溢れてしまうのです。そんな大変な時代でも、唯一ノアは自分のことだけでなく、神さまのこと・・・また目の前の人のことを心掛けていました。「おまえのものはおれのもの」ではなく、「私のものはあなたのもの・・・あなたの悩みは私の悩み・・・あなたの喜びも私の喜び・・・わたしのものは、実はみんな神さまのもの」という考えでノアは生きていました。

ノアが人生のちょうど半分を過ぎた時・・・今の私たちの感覚から言えば、40歳代でしょうか・・・神さまからの声が聞こえてきました。神さまはこう言いました・・・「ノア。この時代の人々にあきれてしまった。人は何もかもめちゃくちゃにしてしまう。悲しすぎる。世界の全てを流し去る大洪水が来る。あなたとあなたの家族は生き残れ。大きな箱舟をつくりなさい。そこに、動物や鳥を、雄と雌、一匹ずつ連れて入れなさい。この動物たちも、あなたとあなたの家族も生き残らなくてはいけない。大きな箱舟をつくりなさい。」

もし、このようなことを突然神さまにお願いされたら、みんなはどうしたでしょうか?その時点で、どしゃ降りの雨が降っていたわけでもなく、川があちらこちらで溢れて氾濫していたわけでもありません。周りの人で、大洪水が来ると予想していた人は誰一人いませんでした。ただ神さまが「いずれ大洪水が来る、大きな箱舟をつくりなさい」と言っただけです。皆さんがノアであったら、大きな箱舟をつくりはじめたでしょうか?僕だったら、そんなすぐにはつくらなかったと思います。周りのみんなが舟をつくり始めたら、僕もつくってもいいと思ったと思います。周りがしていないことをすること、たとえそれが正しいことであっても、一人だけ浮いてしまうことってやりたくないですよね。でも、「ノアは神さまの言った通りにした」と聖書は言います(6章22節、7章5節)。

箱舟をつくることは簡単なことではなかったはずです。そもそも、神さまからもらった設計図をみると、求められた箱舟はとてつもなく大きなものでした。なんせ、世界中の動物たちを乗せてなくてはいけませんでした。また・・・当時のことですから、全ての材料がそろっているホームセンターがあったわけでもありませんでした。全て手作業で、自分でやらなくてはいけませんでした。箱舟をつくることは並大抵の大変さではなかったのでしょう。でも僕が思うには箱舟づくりの大変さと同じぐらい、周りからの目線・・・周りからの理解の無さが大きな悩みの種だったのではないかと思うのです。こんなことを言われることは日常茶飯事だったのでしょう。「ノア・・・バカ真面目だなぁ。いくら神さまから『洪水が来る、箱舟をつくれ』と言われても・・・ここには川も湖も海もないぞ。雨も降ってないぞ。こんなものつくっても無駄!無駄!もっと人生楽しまないと。」とみんなに嘲笑われる日々だったのでしょう。それでもノアは箱舟をつくり続けました。

やがて箱舟が完成しました。すると世界中の動物や鳥たちが集まり、神さまが言われた通りに箱舟に乗せました。これも、並大抵の苦労ではありませんでした。動物たちが人の誘導のままに動くわけがありません。このころ、遠くの空に黒い雲がひろがりはじめていました。全ての動物と鳥、ノアとその家族が箱舟に乗り込むと、空からぽつりと一滴、また一滴。やがて、前が見えないほどの、どしゃ降り雨が降りはじめました。「ギギー・・・ガシャン!」と扉が閉められました。

滝のような雨が降り続け、それが箱舟の屋根にたたきつけてきました。「ザァー」と。屋根に雨があたる音があまりに大音量だったので、箱舟の中で会話すら成り立ちませんでした。中は薄暗く、じめじめして、動物たちの臭いもプ~ンとします。雨の大音量の中、ノアとその家族、また動物たちの間に緊張がはしりました。これほどの雨と水に、箱舟は耐えられるだろうか・・と。すると箱舟が「ガタガタガタ」と揺れ始めました。「もうダメかも・・・さすがにこの雨には耐えられなかったか」とノアは一瞬自分の箱舟づくりの確かさを疑いました。でも、「ガタガタガタ」という音は箱舟が崩壊する音ではありませんでした。周りの乾いた地が水で溢れ、箱舟が浮かびはじめたのでした。それから40日もの間、一時も、滝のような雨が途切れませんでした。今日から40日間というと、10月に入ってしまいます。ずっと「ザァー」という大音量の中・・・その圧迫感の中、ノアとその家族、そして動物たちは、水に流されるまま過ごすことになりました。「本当に助かるのだろうか?」と、ノアでさえ疑ったかもしれません。この後どうなるのでしょうね?続きは来週のお話です。

よく考えてみると、ノアは、神さまからのお告げを受け、その後は決して平凡な日々ではありませんでした。箱舟をつくること自体もとてつもない作業で、それに加えて周りにはバカにされ、動物を入れるにも試行錯誤で苦労を重ね、箱舟に入って命は助かったと思いきや、最悪な環境としか思えない中、明日どうなるか分からず、大嵐の中でさ迷うことになったのです。この一つ一つの事の中でノアの背中を押し続けてくれたものは何だったのでしょう?ノアを元気づけてくれたものは何だったのでしょう?

僕が今回聖書を読み返しながら、「もしかしたらこれなんじゃないか」と思えた事は二つです。一つは、神さまからの約束でした(6章18節:「契約」)。「あなたとあなたの家族は生きなさい。未来へ命をつなぎなさい。」という神さまからの約束です。そして、二つ目は、その約束を分かち合える仲間でした。ノアは家族の協力と支えなくして、突き進むことはできなかったでしょう。仲間と一緒に、神さまの約束の確かさを噛みしめていたのでしょう。

この二つの励まし・・・「神さまの確かさ」、そして「それを分かち合える仲間」・・・これはノアだけに与えられたものではありません。教会の先輩たちにも聞いてください。皆それぞれノアと重なるような体験談をもっていると思います。「神さまは裏切らない」・・・そして、「そのことを分かち合える仲間がいると、励ましになるんだなぁぁ」と。

 

え?棺?

私の娘だけではないと思いますが、小さい子どもたちにとって箱は最高の遊び道具です。僕の目には質素なダダの“箱”としか見えないのかもしれませんが、彼女にとって箱は家になったり、車や電車になったり、上に乗れる舞台となったり、そして「ノアの箱舟物語」を再現するのであれば “舟”になるのです。

私たちはノアの物語を読み進めていますが、言うまでもなくこの物語で「箱舟」は重要な役割を担います。実はこの「箱舟」と訳された言葉は大変珍しく、掘り下げていくと「異質な存在」としか言いようがない言葉なのです。ノアの物語以外では、赤ちゃんモーセが入れられた「かご」だけに登場する言葉です。そもそも、これは元来ヘブライ語でもなく、エジプト語であり、私たちの感覚から言えばカタカナ言葉です。違う言語から借りてきた言葉です。「ストレス」とか、「リフレッシュ」のような言葉です。そして、それは元来「舟」を意味せず「箱」を意味します。しかもそれはただの箱ではなく「棺」を指します。葬儀などでご遺体を納める「棺」です。もしも、この物語に登場する「箱舟」という言葉を「棺」という言葉に置き換えて読むとしたら、首をかしげるのが当然だと思います。ノアご自身も「なぜ神さまは大きな『棺』をつくりなさいと命じたのだろうか!??」と不思議に思ったに違いありません。ヘブライ語では「舟」という言葉が複数あります。あえて「棺」という言葉が使われているのです。

言うまでもなく「棺」という言葉は否定的なことを連想させます。「行き止まり・行き詰まり」「経たれること」「続きがないこと」などなど。どんな角度から見たとしても、救いをもたらす乗り物が「棺」と呼ばれていることが奇妙でしょうがありません。けれども、この「箱舟」という言葉・・・「棺」という言葉に、今日の7章に込められているメッセージがあると思うのです。

 

救いへの道は思わぬところを通る

子どもメッセージで触れたことですが、ノアは神さまからのお告げを受け、平凡な日々を過ごすと思いきや、次から次へと困難を背負うことになりました。今日の7章の時点では、初めてこの物語を読む人にとって「どうなるんだろう??・・・そもそも助かるのだろうか」と続きが気になる場面です。16節を見ると、箱舟の扉を閉めたのはノアではなく、神さまご自身であることが分かります。「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」とあります。ノアの立場から見れば、神さまがなぜか「棺」と呼ぶ乗り物に閉じ込められ、歴史上最強の嵐の真っただ中に投げ込まれているのですから、極度の恐れと不安を抱くのが当然でしょう。

ノアほどの状況ではないかもしれませんが、私たちも、人生の荒波に投げ込まれてしまったと思うことはあるのではないでしょうか?抜け道を見出そうとしても、悩んでも、悩んでも、どれも行き詰る選択肢ばかり。今まで頼りにしてきたことが、すべて流されてしまう経験。そのような事はあってほしくありませんが、起きてしまうのです。

今日の物語が語っていることは、救いへの道筋は、まさに私たちが行きたくない場所にある・・・できるのであれば避けたい道を通らせるということなのかもしれません。少なくとも、ノアの物語では、救いへの道は荒波から離れた安全な場所を通りませんでした。混乱の真っただ中を通らされたのです。荒波に揺らされながら、どこまでも続く水域をさ迷い、そこで、神さまによって運ばれるという救いを経験したのです。恐れと不安のただ中で、神さまの揺るぎない守りを経験したのです。私たちの目に「棺」というものは「行き詰まり」としか映らないのかもしれません。けれども、神さまの目には救いをもたらす希望の箱舟として映っていたのです。

 

S姉の証し

 先週の木曜日、96年の生涯を全うし、S姉が召されました。S姉はY姉のお母さんです。お隣のN教会から、2020年に私たちの教会に転入会をしました。すでにその時点でS姉は意識がなく入院を続けていました。というのも2011年にクモ膜下出血を患い、それ以来の入院でした。葬儀はご遺族の意向で家族葬の形で金・土曜日に行われ、神奈川からもS姉の娘さんとお孫さんが駆けつけました。

 葬儀でも紹介されたことですが、S姉は手先が器用で、幅広い趣味に取り組んだそうです。今日のお花が飾られているこの花瓶は、S姉が、特別な道具を用いて、ブドウの木の模様を削ったものだと聞いています。「何でもできてしまうお母さんで、その同じレベルが求まられた時には困ってしまうこともあったと」ご遺族は言葉を合わせて語っていました。それだけ、なんでもできるS姉でしたが、73歳の時にバプテスマを受けられました。70代になってからバプテスマを受けられたことについて、三女の娘さんはこんなことを語っていました。「何でもできる母でしたので、身体の衰えは受け入れがたいことだったと思います。私自身年を重ねることで感じています。母も年を重ね、乾きを感じたのでしょう。」その衰えと乾きの中で、S姉は神さまの救いを見出し、クリスチャンとなることを決心したのです。

 私たちが求めている救い・・・渇きを満たす救いは、思わぬところを通らされるから見つける・・・このことをS姉も、自らの生きた証しとして残してくださっているように思えてしょうがありません。そもそもキリスト教は、この二千年間「救いは自らに死に、イエスさまに生きること」・・このことにおいて見出してきました。

 私たちの目には行き詰まりとしか映らないものでも、神さまの目には救いの道筋に映っているに違いない・・・神さまが目の前のどんな現状をも用いて下さる・・・この励ましに押し出されながら歩んでいこうではありませんか。

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 ノアの箱舟づくり 』

 ペテロの第一の手紙3:17~18

創世記6:5~22

2023年8月20日(日)

 

子どもメッセージ

 聖書によると、この世界は神さまによってつくられました。この世界がつくられる前は、どこを見ても真っ暗なところでした。神さまはその真っ暗闇に対して「光あれ」という愛の息吹をかけ、光が生まれました。その後、空と地、動物たちがつくられ、最後には、私たち人間は「神さまに似せて」つくられました。つくられてすべてを神さまはご覧になり、「極めていいね!」という喜びの声をあげました。そこは、人にとっても、動物にとっても、とても住みやすいところでした。あまりにも世界が素晴らしくて、美しさに満ち溢れていたので、神さまは喜びの声をあげずにいられなかったのでしょう。そのような美しい、喜ばしい世界の始まりでした・・・。

けれども、それほど時間が経たないうちに問題が起きてしまいました。人が、自分だけの考えでただしい(義)ことを判断するようになりました。「善悪を知る」こと・・・善いこととそうでないことを知ることは本来神さま抜きにはできないのでしょうが、自分だけでできると思い込んでしまったのです。神さまは私たち人間と一緒に生きたかったのですが、私たちは神さま抜きに生きられると思い込んでしまい、人は神さまから離れて生きることになりました。これはとんでもない間違えでしたが、人は、この間違えを、間違えとして認めようともしませんでした。

もう少し年月が過ぎ、本来良いものとしてつくられた世界は徐々に混乱していきました。次第には歴史上、初めての殺人事件・・・しかも、兄弟の間で・・・痛々しい、悲しい、あってはならない殺人事件まで起きてしまったのです。そして、この時も、殺人が犯した間違えを人は認めようとも、見つめようともしませんでした。「ごめんなさい」の一言もなく、そこから学ぶこともありませんでした。

さらに、何百年と月日が経ち、世の中は暴力に満ち溢れていました。それぞれ、自分が良いと思うままに・・・自分の欲に任せて生きてしまったのです。他人のことなんかどうでもいい、僕が・・僕が・・という考えにそれぞれが駆られてしまったのです。

本来神さまは美しく、喜びに満ちた、誰にとっても住みやすい世界をつくられました。ところが、人は、神さまの言うこと・・・「一緒に生きよう」いう声を聞こうとしませんでした。人は、神さまがつくられたよい世界をどんどんわるくしてしまい、誰にとっても居心地が悪いところになってしまったのです。

暴力と混乱に満ち溢れる世界をご覧になり、神さまは泣き崩れました。「こんなことになるのであれば、人をつくらなければよかった」と呻き。心が真っ二つに割かれるほど痛み続けました(6節)。悩みに悩みを重ね、苦情の決断だったのでしょう・・・神さまは、世界を覆ってしまう大洪水で、つくられたすべてを消し去ることを決めました。それほどまで、私たち人は「救いようがない」ところ・・・どん底のさらにどん底まで落ちてしまったのです。

大洪水ですべてを消し去ることを決めた神さまでしたが、ノアという人物が神さまの目に溜まりました。世界のどこに行っても、誰一人神さまのことを考えもしないと思いきや、ノアとノアの家族は神さまと一緒に生きようとしていました(9節)。ノアは何事においても神さまと相談しながら、神さまに対しても、誰に対しても忠実に生きようとした人でした。神さまはノアに命じました、「暴力に満ちた悲しい世界になってしまったため、世界の全てが流される洪水が来る。その洪水に耐えられる、大きな箱舟をつくりなさい。そしてそこに世界の全ての動物を二つずつ入られるようにしなさい。あなたの家族も箱舟の中に入り、生き残りなさい。」と。このようにして、ノアは神さまの指示通りにし、世界のあらゆる命を、未来に繋げる箱舟をつくるようになりました。箱舟は洪水に耐え「命を守り、命を繋げる」場所でありました。箱舟がなかったら、何一つ残ることはありませんでしたので、この世界の未来がノアの肩にかかっていたのです。

僕は小学生の時に、ノアの箱舟の物語を聞いて、「大昔の人たちはなんて身勝手な人たちだったんだろう」と思わされました。「何で、とても住みやすいいい世界を悪い世界にしてしまったんだろう・・・愚かな人たちだったんだなぁ」と思いました。でも、あることをきっかけに「人が自己中(身勝手)であること・・・人が愚かであること」は、昔のことではなく、今に続くことであり、自分の中にあることだと気づかされたのです。

それは、僕が小学生二年生の時、体育の時間にサッカーの試合をしていた時のことです。きっかけが何であったかは思えだせないのですが、相手チームのR君のお腹を試合中にパンチしたのです。決してR君と僕は中が悪いわけではなかったはずなのですが、すきを見てパンチしたのです。それがちょうどお腹と胸の間に命中し、R君は即座に地面に倒れ、呼吸困難になってしまいました。僕がR君をパンチした時、サッカーボールはピッチの反対側にありましたので、R君と僕とのやり取りは誰も見ていませんでした。恐らくR君自身も、何が起こったのかが明確には分かっていなかったのだと思います。R君が倒れているのを、レフリーをしていた先生はすぐに気づき、試合は中断されました。先生は急いで、走ってきて「R君大丈夫か・・・何があったんだ?」と僕に聞いてきました。当然のこと・・・僕は何が起こったかを120%分かっていたのですが、事をごまかしました。「ぶつかったら、気づいたら倒れていました」と。それから30年以上経っていますが、今日のノアの箱舟の物語を読みながら、このことがなぜか自分の頭の中から離れませんでした。

 R君との出来事は自分の中に「自分だけではどうしようもないもの」・・・「自分でも自分にびっくりする」闇のようなもの・・・聖書が罪と呼ぶものが自分にあることに気づかされるのです。しかも、あの時R君に事を素直に話して謝ればいいと分かっていたにも関わらず、ごまかし続けたのです。正しいことが何であるかを知っていてもあえてしない自分がそこにいました。そのことにも「自分にびっくり」していたことを思い出します。ですので、僕が小学生の時にノアの物語を聞きながら「昔の人は愚かだったなぁ・・・何でそんな暴力に加わったんだろう」と思っていたのですが、実は僕も例外ではないのではと思いはじめたのです。僕が、ノアの時代に生きていたら、どうしていただろうと考えはじめたのです。みんなは、ノアの時代に生きていたらどうしていたでしょう。

 今回聖書をよくみてみたら、少なくとも1600年間(アベルの殺害から洪水まで)、神さまは、暴力に暴力を重ねる暗い時代に悲しみを覚え、悩みながら、耐えながら過ごしました。世界を再スタートさせる決断は、決して感情にまかせたものではなかったのです。それだけでなく、救いをノアの箱舟を通して用意したのです。命が未来に繋がれるように箱舟が用意されたのです。

 僕は小学校3年生の時に、イエスさまを僕の救い主と信じ、クリスチャンになりたいと神さまにお祈りしました。僕は神さま抜きには生きられないと思ったのです。その時は、全く意識していませんでしたが、恐らくR君との出来事は影響したのではないかと今になって思い返すのです。罪からの救いが必要だと、心のどこかで感じていたのです。

 ノアの時代から大分立った時代に生きる私たちにとって、イエスさまが私たちの箱舟です。イエスさまは私たちに本当の命をくださり、命を未来に繋いでくださいます。イエスさまを信じるからと言って、自分の罪が消えるわけではありません。僕のことで言うと、今でも自分の中にある暴力にびっくりし、深く悩まされることがあります。罪は悲しさと痛みと苦しみしか生み出しません。目の前の人を傷つけ、自分をもがんじがらめにするのが罪です。でも、イエスさまは、新たな命へと繋いでくださいます。イエスさまという箱舟の扉は今も開いています。今日、イエスさまを信じて、頼って、祈って生きていこうと改めて思わされたのは僕だけではないはずです。誰一人取り残されることなくみんなが信じるように、みんなが神さまに頼るように、イエスさまという箱舟の扉は今も開いているのです。

 

3.11以後いかにノアの物語を読むか

 今週も含めて、5週間をかけてノアの物語をじっくり味わっていきます。

 2011年3月11日に東北大震災が起こり、津波による洪水の映像がニュースで流れました。被災者の当時の証言を聴くと、耳をふさぎたくなるような・・・心が引き裂かれるような出来事が起こってしまったのです。3.11以後の今の時代、私たちはどのようにこの大洪水の物語を読むかを問われていると思います。神さまが天罰として自然災害を本当に起こすのでしょうか。

 この物語を読み進めていくと、大洪水の後、神さまの中で大きな変化が起こります。全ての命を滅す洪水は二度と起こらないという約束を二回も神さまはノアに告げることになるのです(9章11節、15節)。その約束のしるしとして虹が空に現れるのです。この約束を基盤とすれば、自然災害は神さまによる天罰なのでしょうか?自然災害は、文字通りの自然による災害だ・・・それ以上でもそれ以下でもないと思うのがおのずのことなのではないでしょうか。もちろん、地球温暖化を無視できない現代において、人災という面は否めないのですが、そこに神さまを絡めるのはあまりにも乱暴だと私は思うのです。なぜこれを話すかというと、震災後、人々の罪と震災を結びつけるクリスチャンは少なくなかったからです。被災者と共に痛み、癒しと慰めを祈り求めなくてはいけない肝心な時に、心無い裁きの言葉が被災地でも語られてしまったのです。取り返しのつかない二次被害が、聖書のメッセージを通して起きてしまったのです。語った当事者たちを批難するために僕は言っているのではありません。私たちが受け取らなくてはいけない大事な学びがあるからあえて言うのです。

 

8.15集会に参加して

 先週の火曜日は、クリスチャンセンターで8.15集会が開かれました。今年は、カトリック教会からの大勢の参加があり、会場の席が足らなくなるほどの会となりました。集会の直後、平和を訴えるメッセージが綴られたプラカードを持ちながら、大通りに向けての「平和行進」に加わらせていただきました。その行進を終えて、感想を語る時間が設けられ、その中で、X教会のX牧師がX語で語ったのです。僕はX語をまったく理解できませんので、語れた内容は聴き取れませんでした。けれども、心がジーンと暖かくなり、涙をこらえるのでやっとでした。なぜなら、Xの侵略の歴史を知れば知るほど、罪の恐ろしさを思い知らされるからです。「ごめんなさい」では済まされない不の歴史が刻まれてしまったのです。ノアの時代の暴虐と悪事が絶えない世界と重なるような現実をつくりだしてまったのです。日本の教会はその暴力に加担しました。Xにルーツを持つX牧師はどのような思いを抱きながら、一緒に平和行進に加わったんだろうか・・・そんなことを思いながら、胸が熱くなり、帰り際にX牧師に「今日は本当にありがとうございました。X先生のメッセージの内容、また今度教えてください。でも今日はX先生がここにいることで勇気をもらいました。」と告げ握手を交わしました。

 過去を変えることはできませんが、過去から学び、今日から始まる未来を変えることはできるのです。聖書は人類の罪の歴史をあからさまに語りますがそれは「はるか昔のこと」だけなのでしょうか。罪の歴史を顧み、そこから学び、私たちが本来与えられている使命・・・命を励まし、命を繋げる働きのために役立てればと思わされるのです。イエス・キリストが、闇と混乱から全ての人々を救い出す「箱舟」であると信じる故に、そうしたいのです。

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 神さまのしるし         

         ~生かされて いかに生きるか~ 』

 ルカによる福音書15:17~20

創世記4:13~26

2023年8月13日(日)

 

子どもメッセージ

 明後日は8月15日です。一般的には終戦記念日と呼ばれ、78年前、日本がアジアの国々に対して繰り広げた悲しい戦争に思いを寄せる時です。

 僕は今年で40歳になりました。言うまでもなく、78年前まで続いた太平洋戦争は経験していません。でも僕が小学校、中学校、高校と進んでいく中で、僕の周りには戦争を経験した人たちが少なからず居たことを思い出します。戦争の経験を話すというのは簡単なことではないのでしょう。ほとんどの人はその時代の事を口にしませんでした。でも、何人かは話してくれました。話してくれたと言っても、一言、二言でした。

 例えば、僕のおじいちゃんは、陸軍兵として戦争で戦った人です。中国に渡り、戦争が進むにつれ、段々南に行き、戦争に負けた時にはインドネシアにいました。「満州はマイナス40度の極寒だった・・・インドネシアのジャングルの中ではココナッツばかり食べた」など、その時の生活のことを時々口にしていました。でも、争いの事は何も言いませんでした。唯一口にしたのは「戦争はバカげたこと・・・絶対にしてはいけない」ということでした。

 そのおじいちゃんと結婚した僕のおばあちゃんは長野県の山の中で生まれ育ち、そこで戦争を過ごしました。彼女が中学生・高校生の時です。近くに軍事施設があったのか、飛行機が落とす爆弾を逃れるために、山の斜面に掘られた洞穴で、危険が過ぎ去るまで過ごしたことを話してくれました。戦争の最初のほうでは、食事もちゃんと取れたものの、戦争が進むにつれ、食べるものがなくなり、腐りはじめていた、指の細さぐらいのサツマイモを食べながらしのいだことも話してくれました。僕のおばあちゃんも、おじいちゃんと同じように、「戦争は絶対にしてはいけない」と口にしていました。

 このような話は、僕が小学生の時に教えてもらったことでした。そして、今度は僕が高校生の時、インドネシア人で戦争を経験したおじいちゃんとお話をする事がありました。僕は高校時代、学校の寮に住んでいました。そして、僕と部屋を一緒にしていたのはインドネシア人のSさんでした。Sさんと僕は仲良しでした。そしてある夏休みの時、彼のインドネシアの実家を訪ねました。そこで、Sさんのおじいちゃん・・・Mおじいちゃんとお話をする時間がありました。

 Mおじいちゃんは僕を暖かく迎えてくれました。「よく来たねー」と。遊びに行ったほうがいいところを教えてくれたり、インドネシアでの滞在で絶対食べたほうがいい物を教えてもらい、遊びのためのお小遣いももらいました。そして、お話の最後のほうになると、こんなことを言ってくれました。「しなる君が今日来てくれてとても嬉しい。でも帰る前に一つお話したいことがある。それは、戦争のこと。インドネシアが日本軍に占領された時、私はその反対勢力の一人だった。仲間と一緒に日本人にひどいいじめを受けた。でも、今日このようにしなる君が私の家を訪ねてきてくれて、僕の孫のSと仲良くしてくれているのがとても嬉しい。」それを聞いて、僕は自分のおじいちゃんやおばあちゃんが良く口にしていた「戦争は絶対にしてはいけない」ということを、幼いころから教わったことを共有し、Mおじいちゃんがいじめられたことを謝りました。

 すると彼はこのように言ってきたのです。「しなる君のおじいちゃんとおばあちゃんはいいことを教えてくれた。彼らも戦時中大変な経験をしたのでしょう。でもね・・・決して君を責める意味で言っていないことを分かってほしいんだが・・・しなる君は何に対して謝っているのか分かっていますか?今ここで答えてほしいわけではなく、考え続けてほしい・・しなる君は何に対して謝っているのかを。」

 高校生だった僕は、Mおじいちゃんが何を言っているのかがピンときませんでした。後々分かってきたことですが、Mおじいちゃんが言わんとしたことは、歴史を知ってほしいということでした。謝るというのは、どういう事について謝っているのかを知ってはじめて意味があることだと僕に伝えたかったのです。誰に、何が、どのように起こったのか・・・どんな悲しいことがあったのか、そのことでどんな夢が奪われてしまったのか、それを知ってほしいという願いだったのです。後々Sに教えてもらったことですが、Mおじいちゃんは、日本軍の反対勢力に入っていたことを理由に、お姉さん二人を亡くしていたということです。それでも僕を喜んで歓迎してくれたと思うと、Mおじいちゃんの心の広さは並大抵なものではないことに気づくのです。ちなみに、Mおじいちゃんはクリスチャンです。亡くなったお姉さんたちもクリスチャンでした。

 今日の聖書は先週に続いて「人類初の殺人事件」のところです。神さまへのささげものを巡ってお兄さんカインが弟アベルを殺してしまったのです。取り返しのつかない殺人事件を、カインは犯してしまいました。神さまはカインに問いかけました「弟アベルは、どこだ?」と。でもカインは「アベル」という名前すら聞きたくなかったのでしょう。「知るもんか。俺が弟の何者だと言うのか」とカインは反発しました。アベルという名前を口にすることを避け、カインは殺人がなかったことにしたかったのでしょうか。弟に注目を向けたくなかったカインでしたが、神さまはアベルを探し続けました。「おまえは何をしてしまったんだ。おまえの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」と神さまは言いました。神さまはこの悲しい出来事から目を逸らすことはしませんでした。むしろ、その悲しさに留まりました。そして、殺人を犯してしまったカインにも、この悲しい出来事をしっかり見つめてほしかったのです。

 殺人という痛々しい出来事が起きてしまったわけですから、神さまはカインをそのままにすることはしませんでした。呪いをカインにかけたのです。今までカインは土を耕して、畑の収穫で生活を支えていたのですが、畑をいくら耕しても何も実らないという呪いでした。今度は、殺してしまった弟アベルのように、カインは狩りをして生活を成り立たせるということでしょう。地上をさ迷い、狩りをしながら、弟のことを思い出してほしいという神さまの意図がここにあると思います。死刑になってもおかしくないカインは、生かされたのです。

 この物語はもう少し続きますが、残念ながら、最後までカインは自分の犯した罪を振り返ることはありませんでした。むしろ、自分の辛さだけに注目するカインであり続け、ちっともすっきりしない物語なのです。神さまの辛さやアベルの無念の思いを知ろうともしませんでした。でも、もしカインが、弟アベルにしてしまったことを嘆いたのであれば、何かが違ったかもしれないと僕は思うのです。カインがアベルの死を悲しんで、そこに留まっていたのであれば、別の物語が始まったと思うのです。なぜなら、神さまは嘆き悲し続けていたからです。神さまから離れず、神さまがなされていることをカインもすれば、新しい道が開くはずです。

 僕は今日の物語を読みながら、僕が高校生の時にMおじいちゃんに言われたことが頭から離れませんでした。戦争の悲しい歴史を知り続けてほしいという僕に与えられた人生の宿題でした。二度と悲惨な戦争を犯さないようにという願いも含まれていたのでしょうが、これからもインドネシア人と仲良くしてほしい・・・もっと深く関係を結んでほしいという願いがあって、歴史に目を向けるように僕に訴えたのだと思います。

 日本が戦争で犯した罪の歴史に目を向けるには、相当な勇気が必要です。けれども、今日の聖書を読む限り、それはひとりですることではないのです。神さまはすでにその歴史に眼差しを向け、嘆き悲しみ続けているのです。そこに加わるように僕らは期待されているのです。そこから新しい物語が始まるのですから。

 

他でもなく私がカインの子孫

 私が高校生の時に出会ったMおじいちゃんはその一回しかお会いしませんでした。けれども強烈な印象を僕に残しました。そして、もしもMおじいちゃんと一緒に今日の聖書を読むとすれば、他でもなく、この私がカインの子孫であると言わざるを得ません。

 カインは神さまのしるしをつけられ、生かされることになります。彼は人類初となる町をつくりあげ、彼の子孫は、酪農の先祖、音楽の先祖、鉄職人の先祖となり、文明的な観点から言えば発展を成し遂げます。けれども、この物語は後味が悪い結末を迎えます。レメクという名のカインの子孫が、新たな殺人事件を犯し、そのことをあからさまに誇っているのです。経済と文明が発展しても、倫理的には腐敗し続けていることを物語っているのです。

日本は戦後、どの国からも“奇跡”と呼ばれるほどの経済発展を成し遂げました。その実りに僕も預かっているのです。これは感謝しなくてはいけないことだと思わされます。けれども、倫理的にはどうなのでしょう?アジア諸国との関係は良好なのでしょうか?アジアにおける戦争の傷は癒えているのでしょうか?その癒しのために何か僕はしているのだろうか?そんなことを、今日の聖書は問いかけているように思えてしょうがないのです。

 

罪に気づき、それと向き合う向こう側には

 こどもメッセージでも触れたことですが、もしもカインが自らの罪と向き合い、そこで生じた悲しみを少しでも抱いたのであれば、物語は大分違ったのではないかと思わされるのです。なぜそう思うかというと、イエスさまが語った放蕩息子の物語を思い出すからです。放蕩息子の物語の転換点は、一つには、財産を何もかも失ってしまうということですが、もう一つは、神さまと自分の父に対して罪を犯したことを気づいたことでした。この気づきが、物語の方向を大きく変えていくのです。自分の辛さだけでなく、他の人の辛さに目が開くとき、物語がグググっと変わっていくのです。確かに、日本は戦争で大きな被害を受けました。世界で唯一原爆を経験した国です。でも、同時に取り返しのつかない痛みの歴史を積み上げてしまったのです。罪と向き合う中で出会わされていくのは、神さまの無限の愛と赦しです。父の暖かい愛情です。どんな罪をも乗り越えていく神さまの恵みです。

 私たちが心砕かれ、戦争の不の歴史と向き合うのであれば、必ず神さまは御業を起こしてくださると私は信じています。Mおじいちゃんに教わった一つは、戦争による痛みは未だに続いているということです。もしも、私たちがその痛みを少しでも知って引き受けていくのであれば、神さまが癒しの御手をそこに添えてくださると、Mおじいちゃんも信じていたと思うのです。カインの物語とは別の結末が絶対あると僕は信じたいのです。8月15日を目前に、悔いる心を祈り求めようではありませんか。

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 あなたはあなたでしかないんだから、あなたのままで 』   

歴代誌上29:14 

創世記4:3~8

2023年8月6日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 先週は、最初の人間として登場するアダムとエバのお話を読みました。そのアダムとエバの子どもとして生まれたのが、カインとアベルというきょうだいです。お兄さんのカインは、畑を耕して作物を育てて暮らしました。だから、ひとつのところに留まって暮らすことができました。「ひとつのところに留まって暮らすことができる」と言っても、「へ~」としか思わないかもしれないけど、これってすごいことだったんだそうです。弟のアベルは、羊を飼って暮らしていたので、羊の食べる草がなくなると、草のあるところを探して引っ越し、そこでまた草がなくなると、また草を求めて引っ越す・・・ということを続けなければなりませんでした。また、畑の作物はどんどんできるけど、羊はどんどん増えるわけでもありません。だから、きっとアベルは、ずいぶん苦労しながら生活していたはずです。

 さあ、そんな二人が、ある時、神さまに献げ物をしました。すると、神さまはなぜだか、弟のアベルの献げ物だけを喜ばれ、カインの献げ物は無視されたっていう、とてもひどいお話です。いったいどういうことだろう?まずは、カインが畑でなった作物をもって神さまに献げました。「日がたって」って書かれているから、畑を始めて、何か月か、何年か経って、もう作物も十分に育って、何度か収穫もしていたんだろうね。「神さまに『ありがとう』の気持ちを表そう」って、取れた作物から選(よ)りすぐって、神さまに献げたんです。「こんなに献げれば、神さまもきっと喜んでくれるだろう」って思ったんじゃないかな。ぼくは、「カインの献げ物は、とっても素敵な献げ物だ」と思います。すると、そこに弟のアベルもやってきました。アベルは、小羊を一頭連れていました。そして、「神さま、いつもありがとうございます」って、その小羊を献げました。もしかしたら、アベルは「ようやく生まれたこの小羊くらいしか、神さまに献げられる物がなかった・・・」って、思っていたかもしれません。それでも、ぼくは「アベルの献げ物も、素敵な献げ物だなあ」と思います。でも、カインは、どうだったでしょう?弟のアベルの献げ物を見て、どう思っただろう?いつも引っ越しを繰り返して、苦労しながら生活しているアベルが、やっとこさ持ってこられたのは、小さな小さな小羊一頭だけでした。「まあ、あいつはそうだろうね」と思ったんじゃないかな。「あいつが献げられるのは、そのくらいのもんだろうよ」って・・・。もしかしたら、カインが自分しかいないところで、神さまに献げ物をしていれば、それは、ただただ神さまへの感謝の表れでしかなかったかもしれません。でも、そこにアベルが来たことで、カインの目はアベルに向かってしまいました。いつもみたいに、アベルのことを見下すカインになってしまいました。そして、カインの目も、心も、もう神さまには向かっていなかったんです。神さまが、カインを無視したんじゃなくて、カインが神さまを無視して、神さまから目も、心も背けてしまったんです。神さまはカインに言いました。「顔を上げて、ちゃんと私に目を向けなさい。そうでないと、心の扉のすぐそこで、罪があなたのことを待ち伏せているよ」って。でも、カインは、その神さまの忠告に耳を向けることもしませんでした。そして、怒りのあまりに、弟のアベルを殺してしまったんです。

 カインはとんでもないことをしてしまいました・・・。でも、そんなカインの気持ちが、ぼくもわかるような気がします。どうしても、ほかの人と自分を比べてしまって、なんとか自分を強く見せようとか、賢く見せようと頑張ってみたり・・・、はたまた、「どうせぼくなんか・・・」と肩を落としてみたりするものです。「詩生さんみたいに英語をペラペラ話せないけど、詩生さんよりは漢字をたくさん読めるぞ」とか。「詩生さんより太っているけど、ソフトボールは詩生さんより上手にできるばい」とか。いつもそんなことばかり考えてしまいます。だけど、神さまはカインに言いたかったんじゃないかな。「カイン、大丈夫だ。アベルと比べなくても、わたしにとっては、あなたはあなただ」って。「あなたが、わたしに『ありがとう』って献げてくれるなら、わたしはそれを喜んで受け取るんだよ」って。その証拠に、神さまは、アベルを殺してしまったカインが、ほかの人たちから殺されることのないように、カインがカインだとわかるしるしをつけて、カインのことを守られんだそうです。

 

 ◆ 最初の子カインの陰に隠れた存在としての第二子アベル

 アダムとエバは、最初の人間であり、初めて神さまの言いつけを破り、うそをついた人間たちでもありました。そのせいでアダムとエバは、エデンの園から出て行かなくてはならなくなってしまいますが、そのアダムとエバに、神さまは皮の衣を着せて守られたのだということが、先週読んだ3章に書かれていました。それでも、神さまの言いつけにそむいたことで、エデンの園を出て行くことになってしまったのですから、きっとアダムとエバは、その後、ずいぶん落ち込んだことでしょう。「あんなことさえしなければ、あのとっても素敵な園にいられたのに・・・」、「どうにか時間を戻せないだろうか・・・」って考えていたかもしれません。でも、そんな落ち込んでいた二人に、とてもうれしい出来事が起こるんです。アダムとエバに、初めての子どもができました。きっと、落ち込んでいたことすら忘れてしまうほど、うれしい出来事だったでしょう。でも、ちょっと待ってください。確かにその子は、二人にとって初めての子ですが、世界で初めての子でもありました。ですから、もしかしたら二人は、当初、喜んだというより、戸惑ったんじゃないでしょうか。だって、子どもができたということは、まず何が起きるかって、つわりでエバの具合が悪くなるわけです。なんだか気持ち悪くて吐きそうになったり、普段なら何ともないにおいや食べ物が急にいやになったり・・・。「なんで急にこんなに具合が悪くなったんだろう?」って思っていたら、だんだんお腹が出てきて、そのうち、お腹の中の何かが動き出して、中から蹴とばしてきたりして・・・。それが、子どもができたからだ・・・ということがわからないんですから、そんな気持ち悪いことはありません。そして、極めつきは、陣痛です。突然、とんでもない痛みがエバを襲ってきたはずです。「痛~い!」、「ぎゃ~!」と、痛みと必死に闘うエバの横で、何が起こっているかもわからず、何もできずにオロオロしていたアダムは、きっとエバに蹴とばされたんじゃないでしょうか。でも、そんなたくさんの戸惑いとか痛みを乗り越えて、ようやく生まれてきた初めての子だったので、エバとアダムは、その子の誕生を心底喜んだでしょう。聖書にも、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と、エバが喜びの叫びを発したことが紹介されています。ところが、その後に何て書かれていると思います?「彼女はまた、その弟アベルを産んだ」とだけ書いてあるんです。弟が生まれたことについては、あまりに淡白な報告です。そりゃ、同じようにつわりで具合が悪くなっても、陣痛がきても、初めてでなければ、「あぁ、これは子どもが生まれてくるために通る痛みね」と思えて、一人目の時に比べれば、エバも気持ち的にはずいぶん楽だったと思うんです。初めての子の時ほどは戸惑わなくて済んだ分、生まれてきた時の感動も違っていたのかもしれません。「アベル」という名前は、ヘブライ語で「息」を意味する言葉で、虚しさとか、はかない人生を思わせる言葉なんだそうです。名づけの名手だったはずのアダムは、どんなつもりで、そんな名前をつけたんでしょう。その後、二人の息子たちは、同じきょうだいであるにも拘らず、兄は畑で作物を育てる農耕民として過ごしたのに対し、弟は羊を飼う遊牧民として苦労して過ごしました。自分が次男であるぼくは、もしかしたら両親が、小さいころから、第一子である兄だけを甘やかしたことで、そんなことになったんじゃないかと密かに考えています。まあ、それはぼくの想像でしかありませんが、そのような依怙贔屓(えこひいき)があったわけでないにしても、この物語が書かれた当時の社会では、長子の特権や地位は大変なものでした。相続や継承などの場面では、特にそのような長子の特権が表れました。弟アベルは、兄カインの陰に隠れた、目立たない存在として描かれているのです。

 

◆ 目が神さまにでなく、人に向いてしまう・・・

 そんな二人が、ある時、それぞれの収穫の中から、神さまに献げ物をしたのです。兄のカインは土の実りを、弟のアベルは生まれた羊の初子から、その中でも肥えたものを選んで、神さまに献げました。ところが、神さまは弟アベルとその献げ物には目を留められたものの、兄カインとその献げ物には目を留めようとはされなかったというのです。何せ世界が始まって間もなくのことですから、以前からある習慣に従いそのようにしたというわけでもないはずです。二人とも、きっと神さまへの純粋な感謝の気持ちで、献げ物をすることにしたことでしょう。ただ、そこに弟アベルの存在が表れたことで、カインの目は、神さまにではなく、弟へと向けられていくのです。「一緒に献げ物をしよう」と相談したのでしょうか・・・。カインが、アベルを誘ったのでしょうか・・・。そうだとしたら、カインの中には既に、アベルを見下す思いがあったのかもしれません。そうしてカインは、両親であるアダムとエバが犯した罪と同じように、罪を犯すのです。アダムとエバは、神さまから禁じられた善悪を知る木の実を食べることで、自分たちが裸でいること、つまり自分のありのままの姿を恥ずかしいと思うようになりました。二人にとって、自分のありのままの姿は、もはや隠すべきものとなり、それによって、人と人との関係も崩れ始めました。神さまによって「互いに助け合うもの」として造られたはずの、本来の人間の姿は失われていきました。アダムは、自分の罪をエバにかぶせ、エバもまた蛇に責任転嫁しました。自らの弱さや罪深さを隠し、何とか自分を他人よりも良く見せようとし始めたのです。カインもそうでした。

 

◆ 目を留めていなかったのは神さまではなくカインだった

神さまが、カインの献げ物には目を留められなかった理由を、聖書は明らかにしません。でも、それは、神さまが目を留められなかったのではなく、目を留めようとしなかったのが、カインの方だったからではないでしょうか。神さまはカインに「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」と言われました。神さまは、カインがご自分に目を向け、ご自分と向き合うことを求められたのです。顔を伏せるカインに、「他のどこでもなく、わたしを見なさい」と呼びかけました。しかし、カインが顔を上げることはありませんでした。そして彼は、弟アベルを野原に連れて行き、彼を襲って殺してしまうのです。

 

◆ アベルの目は神さまにしか向いてなかった

二人が献げ物をする時、カインは自分の献げ物に自信があったのではないかと思います。「きっと神さまは、弟の献げ物より、自分の献げ物を喜んでくれるに違いない」と・・・。一方、アベルは、兄の献げ物がどうであるかなどには、興味がありませんでした。放牧民として生きていたアベルは、農耕民である兄とは比べ物にならないほど不安定な生活を送っていることを自覚していたでしょう。兄に勝(まさ)る献げ物を献げることなどできないとわかっていたでしょうし、そのようなことはどうでもよかったのです。アベルは、自分にできる最善の献げ物を、神さまに献げました。ですから、その時、アベルの目も心も、ただ神さまに向かっており、神さまがそれを喜んで受けてくださるその様を、彼はしっかり確認し、それを喜んだのでしょう。

 

◆ 顔を上げて十字架のキリストに目を向けたい

 反対に、神さまにではなく、弟に目を向けていたことで、カインは自分の献げ物に応えてくださる神さまの眼差しを見過ごしてしまっていたということです。そんなにもったいないことはありません。でも、神さまに目を向けず、周りにばかりを目を向けながら、神さまと向き合うことから逃げてしまっているのは、カインだけではないでしょう。神さまに目を向け、神さまと向かい合うことは、そんなに楽なことではないからです。周りには決して見せられないような、ありのままの自分、弱く、罪深い自分が顕(あら)わにされ、そこに立つことになるからです。でも、そのようにして、隠したいような自分のままでそこに立たされる時、そこにこそ、あの痛々しい十字架につけられたままのイエス・キリストがいてくださるのです。「そのままで、わたしのもとに来なさい」と。その愛を・・・、その赦しを・・・、見失うことのないように、周りに向かってしまう目を・・・、心を・・・、十字架のイエスさまにこそ向けていきたいのです。この後もたれる主の晩餐式の時を、そのように、ただ十字架のキリストにこそ目を向けて過ごしたいと思います。

 

(牧師・石橋大輔)