『 自分の子どももいないのに、

“すべての命の母”?! 』   

ガラテヤ人への手紙3:26~27 

創世記3:20~24

2023年7月30日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 「ナンジャモンジャ」っていうゲームがありますね。大人の人たちは知らない人も多いかもしれないので、簡単にどんなゲームか説明します。こんな風に、頭と手足だけの謎の生物のカードが12種類あって、それぞれの生物にみんなで名前をつけていくんです。それぞれのカードは数枚ずつあって、めくっていく内に、もう名前をつけた生物のカードも出てくるので、その場合は、既につけられた名前を一番早く言えた人がカードをもらえるというゲームです。さあ、たとえばこんな生物には、どんな名前をつけますか?見た目から、「足長バンザイ」とかつけたくなりますね。でも、次にこんな生物が出てくると、どうしましょう。これも「足長バンザイ」っぽいですよね。仕方がないので、見た目とは全然関係のない「しなる」と名付けておきましょう。だんだん慣れてくると、見たまんまでは面白くなくなってきて、こんな生物を「すいか」と呼びたくなったりします。あえて「みかん」とは呼ばないんです。そんな風にみんなが勝手がってに名前を付け始めるので、ゲームが進んでいくと、なんて名前をつけたか誰も思い出せない生物が出て来たりもします。ただ、何回ゲームを繰り返しても、なぜか必ず同じ名前になってしまう生物もいます。わが家でゲームをしていると、この生物の名前が、必ず「ばあば」になります。さあ、次の生物はこれです。あ、これはさっき出てきたやつですね。「足長バンザイ」じゃなくて、「しなる」って言えましたか?これは?「みかん」ではなく、「すいか」でしたね。

このゲームをやっていると、「名前を付けるのって、簡単なことじゃないなあ」って感じます。まして、ゲームじゃなくて、本当の名前を考えるのは、もっと大変です。みんなにも名前があるけど、みんなの名前はどんな意味が込められているんだろうね?

さて、神さまが最初に造られた人間って、何ていう人だか知っていますか?そう、アダムです。アダムは最初独りぼっちでした。そして、神さまがアダムに最初に与えた仕事は、まさに名前を付けることだったんです。神さまは、アダムのところに、ありとあらゆる動物を連れてきては、アダムに名前をつけさせました。なんで神さまは、アダムにそんなことをさせたんだろう?名前を付けるためには、その相手のことをよく考えて、その相手のことを大切に想うんです。そうしなければ、その相手に名前を付けるなんてことはできません。ナンジャモンジャのゲームでも、自分でよ~く考えて、「これはいい!」ってつけた名前は、忘れないと思うんです。きっと神さまは、連れてきた動物のことについて、アダムによく考え、よく知ってほしかったんじゃないだろうか。そうすることで、独りぼっちだったアダムに、ふさわしい助け手、相棒となる動物を見つけてほしいと思ったんでしょう。だから、アダムは連れて来られる動物たちと、それぞれに時間をかけながら、大切にその時間を過ごしました。相手のことをいっぱい考えながら、相手のことを大切に想いながら、その時を一緒に過ごしたと思うんです。でも、残念ながら、神さまが連れて来てくれたどんな動物の中にも、アダムと一緒に生きてくれる助け手、相棒となる動物は見つかりませんでした。そこで、神さまは、アダムを眠らせ、眠っている間にアダムのあばら骨を一本取って、その骨から女の人を造りました。やがて、アダムはこの女の人にも名前を付けました。この女の人と一緒に時間を過ごして、この女の人のことをいっぱい考えて・・・そして、「エバ」っていう名前を付けたんです。この「エバ」って名前は、「命」っていう意味なんだそうです。そして、アダムはエバが「すべて命の母」だからという理由で、この名前をつけました。こうして、エバは世界で一番初めに「母」、「お母さん」って呼ばれた人になったんです。でも、実はこの時、エバにはまだ、子どもがいませんでした。ちょっと変な感じですね。エバがお腹を痛めて子どもを産んだから・・・、立派に子どもを育てたから、「すべての命の母」と呼ばれたわけではなかったということです。それでも、神さまは、アダムがつけたこの「エバ」という名前について、「それではダメだ」とは言われませんでした。そして、神さまがエバに、「すべての命の母」として必要なものを与え、その名前で呼ばれるのにふさわしい者としてくださったんです。

 

◆ よくも「エバ」なんて名前をつけたものだ

 「すべての命の母」であるエバは、その後、殺人犯の母となりました。彼女の息子カインは、自分の弟アベルを、その手で殺(あや)めてしまったのです。母として、こんな悲劇はあるでしょうか。また、さかのぼってみれば、アダムが妻を「エバ」と名付ける直前に、この二人は神さまに「決して食べてはならない」と禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまうという、重大な罪を犯してしまいます。しかも、アダムはその禁じられた実を取って食べた責任を、エバになすりつけ、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と神さまに訴えました。すると、エバもまたヘビにその責任を転嫁し、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と語るのです。あまりにも情けなく、みにくいやり取りを、彼らは神さまの前で繰り広げたわけですが、その直後にアダムは、「すべての命の母」だからという理由で、この「エバ」という名前を彼女につけたのです。そう考えれば、エバ自身に「すべて命の母」と呼ばれる理由や素養があった・・・というわけではありません。もちろん、夫アダムにも、彼女をそのように呼ぶ権限も資格もありませんでした。きっとそんなこともあるからでしょう。世界で最初に「母」と・・・しかも「すべての命の母」と呼ばれた人物として紹介されているにもかかわらず、「聖書に登場する『母』と言えば?」と尋ねられても、エバの名前はあまり出てきません。「すべて命の母」であるという理由で付けられた「エバ」という名前が、彼女に似つかわしくなく感じられるからでしょう。

 

◆ 何とか罪を隠しきろうとするアダムとエバ

 神さまの言いつけに背き実を食べ、更にその裏切り行為を隠したアダムとエバ。そのことを受けて、神さまがこの二人に告げられた言葉は、とても厳しい内容でした。エバに対しては、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む」と宣言されました。アダムに対しては、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」と言い渡されました。彼らの犯した罪のゆえに、この地がのろわれたというのです。彼らの罪は、彼らだけに帰するものではなく、全地へと・・・また後代へと甚大な影響を及ぼすほど重い罪でした。うすうすその事の重大さに気づき始めていた二人は、それまで神さまに対して隠す必要など何もなかった裸の状態・・・自分たちのありのままの状態を、恥ずかしいと感じ始め、いちじくの葉をつづり合わせて、隠しました。しかし、その二人の行動は、その場しのぎでしかありませんでした。いちじくの葉は、その日の内には枯れてしまい、腰巻としての役割は失われてしまうからです。彼らには、自らの罪を隠すことなどできなかったのです。それでも、彼らは更に木の間に身を隠すことで、何とか神さまに見つからないようにしました。そんな彼らを、神さまは呼ばわり、見つけ出し、先ほどの宣告をなされたのです。ただ、それは、罪を犯した彼らを罰し、苦しみを負わせ、園から追放するためだけになされたことではありませんでした。神さまは、決して彼らを見捨てられたわけではなかったのです。

 

◆ いちじくの葉から皮の衣へ

 もともと、神さまに隠すべきものなど何もたないものとして、裸の状態でつくられたはずのアダムとエバは、自らの過ちによって、身を隠さざるを得ない存在となりました。もちろん、それは、決して神さまの望まれたことではありませんでした。ところが、神さまは、自ら罪を犯すことで、苦しみと死とを招き入れ、園にいられなくしてしまったこのアダムとエバに、自らの手で皮の着物を着せてくださったと聖書に書かれているのです。この皮の着物とは何を意味するのでしょうか?皮の着物を造るためには、当然、動物が屠(ほふ)られ、血が流されます。旧約聖書の時代、罪の赦しには、血が流される必要があると考えられていました。人々は、動物を屠(ほふ)ることによって、その血によって神さまの赦しを求めたのです。つまり、ここで神さまが、皮の衣を二人に着せられたというのは、すぐに朽(く)ち果ててしまういちじくの葉で自らを隠そうとした愚かな彼らを、神さまが自らの手で覆い隠してくださったということなのです。そして、それは、ただただ神さまの一方的な憐(あわれ)みによるものでした。こうして、権利も資格もない者が、「すべての命の母」とされ、「すべての命の母」と名付ける者とされていったのです。アダムが彼女を「エバ」と呼んだ時、神さまはその名前を決して否定されなかったのは、そのためでしょう。

 

◆ イエス・キリストという皮衣を着せられた者として

 現代の私たちは、この礼拝においても、動物を屠り、血を流すということはありません。アダムやエバのように、罪を犯すことがないからでしょうか。そんなことはありません。私たちもまた彼らと同じように弱さを抱え、罪を犯します。しかし、神さまはこの罪に溢れた私たちに、イエス・キリストという皮衣を着せてくださっているのです。あの十字架で流されたキリストの血潮(ちしお)をもって、すべての罪は赦され、このキリストという衣が、この隠すべきものを多く抱えたぼくらを覆い、そのままで受け入れてくださっているのです。今朝の招詞として選ばれた『ガラテヤ書』で、パウロがこう語っている通りです。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

 

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 これこそ、ついに 』

 マタイによる福音書11:28

創世記2:18~25

2023年7月23日(日)

 

子どもメッセージ

絵本「ぼくには あながある」(まるやま なお、2019年、文芸社)

 

「ぱんやの おじさんは まいにち おおいそがし。きじを くるくる まるめて ロールパン。ビヨーンと のばして フランスパン。 チン クリームパンが やきあがって あー いそがしい。」

 

「そのころ パンきじたちは なにパンになるのか ワクワク ドキドキ 

ぱんきじたちが なりたいのは みせで いちばん にんきの あんパンです。

フワフワきじの なかには あまーい あんこが たっぷり。」

 

「おじさんは おおいそぎで あんこをいれるために きじを ビヨーン

あんこをいれてふたして コロコロ

さぁ さいごのパンをビヨーン   ズボッ

これはたいへん! あまりにも いそぎすぎたので (パンに) あながあいてしまいました。 そこに くろいけむりが モク モク モク」

 

「『しまった! やきそばパンの やきそばが こげちまう』と おじさんは おおあわてで オーブンに パンをつっこんで フライパンの ところへ いってしまいました。『おじさん まってよ。 ぼくあながあいた ままだよ。 あんこも はいってないよ!!』と あなが あいたパンは さけびましたが おじさんには きこえません。」

 

「チン おじさんが オーブンをあけると おいしそうな あんパンと あなたがあいた パンが1つ。 『これは しまった! あながあいとる。 これは あなあきパンとして うるしかないなぁ』と おじさん。

 

「みせに ならんだ あなあきパンは シク シク 『なんてこった。 ぼく あんパンに なるはずだったのに。 しかも あなまで あいちゃうなんて』 シク シク」

 

「それをみていた あんぱんくんが 『ぼくの あんこを きみに わけてあげるよ』とあんこを あなに つめてくれました。 『わぁ ありがとう』と あなあきパンは おおよろこび。」

「あんパンの なかまいりをした あなあきパン。 でも、 『まぁ このパン あんこが はみでてる。 ぶかっこうなパンは いらないわ』と おきゃくさんは あなあきパンを かってはくれません。」

 

「『まぁ おかわいそう。 あなた いっそ わたくしたちみたいに あかくてきれいな ジャムパンに なったらいかが?』と あたまに たくさんの ジャムをのっけた マダム・ジャムパンが やってきました。『うわー きれい。 ぼくも ジャムパンみたいに きれいになれるかな』と あなあきパン。」

 

「さっそく マダム・ジャムパンから ジャムを わけてもらった あなあきパン。 でもジャムは あっというまに あなをとおりぬけて ペチャペチャ おもらししたみたい。 それを みていた やきそばパンはくしゃくが 『きみ それなら やきそばパンに ならんかい?』と いってくれました。 『そりゃいいや。 ぼく やきそばパンみたいに かっこいいおひげが ほしかったんだ』と あなあきパン。」

 

「あなのなかに クルクルクル と やきそばをいれて さいごに おひげを ちょいとのばすと あなあきパンは かっこいいおひげの やきそばパンに なりました。

おひげが クルン 『これで ぼくも りっぱな やきそばパンだ』」

 

「『まぁ かわった やきそばパンね かってみましょう』と おきゃくさん。 でも もちあげると やきそばが ズルッ 

こうなると だれも あなあきパンを かってはくれません。」

 

「けっきょく あなが あいたままの あなあきパン。 うれていくのは あんパンに クリームパン・・・・・ そとは もうまっくら。 みせに のこっているのは あなあきパン 1つだけ。 でも そんな あなあきパンを だれかが まどから のぞいています。」

 

「それは ワニさんでした。 『わたしに この あなあきパンを くださいな。 パンをもって あるけない わたしでも これなら こどもに おいしいパンを もってかえれるわ』」

 

「ワニの しっぽに とおされて あなあきパンも ワニさんも おおよろこび。 あなあきパンは おもいました。『ぼくの あなは とってもすてきな あなだったんだ。 (ついに ぴったしのが みつかった。)』」

 

「つぎのひ パンやさんに くびのながい おきゃくさんや しっぽのある おきゃくさんが やってきました。 『ぼくらにも あなあきパンを くださいな』」

 

「それから おみせには すてきな あながあいた たくさんの あなあきパンが ならぶようになりました。」

 

「あなあきパン」にぴったしなワニさん・・お二人が巡り合えてよかったですよね。「あなあきパン」はワニさんをずっと求めていましたし、ワニさんも「あなあきパン」をずっと求めていたのです。でも考えてみれば、この絵本に出てくるパンはみんな穴があいています。やきそばパンには、やきそばがちょうどいい具合に入る切れ目の穴があります。ジャムぱんには、ジャムがほどよく入るくぼみの穴。ちくわパンには、ちくわの形がスポッとはいる空洞の穴。そして、実は・・・聖書によると、僕らもみんな「あながあいている」のです。「え?どう見てもあななんかあいてないけど」と思うかもしれません。聖書が言う「空いているあな」は目で見えるものではありません。病院のレントゲンでしか見えない、身体の中の隠れた穴でもありません。でも、たしかに空いているなぁ、と分かる「あな」です。「心のあな」と言えばいいのでしょうか・・心にぽっかり空いた「あな」なのです。その空いたところにちょうどよく、ぴったしはまるものは何でしょうね?

神さまが人をつくった時、「人は独りぼっちでいるのはよくない」と言いました。そして、人を深い眠りに入らせて、骨を一本ここら辺(あばら骨)から取りました。その骨から、神さまはもう一人の人をつくったのです。その骨が元々あったところは、空洞のような穴としては残りませんでしたが、「心のあな」として残りました。除かれた骨の分、何かを求める「心のあな」がずっと残ったのです。「あなあきパン」がワニさんのしっぽを求めていたように、私たちも何かを求めているのかもしれません。わたしたちの「心のあな」は、食べ物で埋めることもできないし、お金でいっぱいにすることもできないし、学校の成績や部活の結果で埋めることもできません。友情と愛情で埋められていくのです。神さまがつくってくれたもう一人の人・・与えてくださった大切な相手と築いていく友情と愛情が「あな」を埋めるのです。

友情と愛情って何でしょうね。例えば、その人と一緒にいると楽しい・・そこには友情もあるし、愛情もあるんじゃないかな。その人は自分のことを思ってくれるし、自分もその人のことを思う。相手が大変な時には、一緒に悩んで、その人のために祈る。じっくりその人のお話を聞き、自分の話も聞いてもらうこともあるでしょう。一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、一緒にイタズラをする。何か間違っている時には、「それ違うんじゃないの?」と本音を言えて、「あー間違っているかも」と素直に受け止められる。自分が見たことも気づいたこともない世界に目を開かせてくれる。そして、自分もまた違う世界を紹介する。いつも自分を迎えてくれて、自分もその相手をあたたかく迎える。お互い信頼し、信じることができる。その人がいるだけでホッとして、「自分は独りぼっちではないんだ」と思える。このような友情と愛情で、心の穴が埋められていくのです。そして、これは、目の前の人と築いていける友情と愛情ですけど、聖書が一番伝えようとしているのは、イエスさまがそんな友達・・そんな愛情をくださる相手であるということです。イエスさまが本当の意味で、「心のあな」を埋めてくださる・・と。

 

人がひとりでいるのは良くない

先日「プリズン・サークル」というドキュメンタリーを観ました。島根県の刑務所の受刑者たち・・・皆20代前半の若い青年たちですが、一番長くて八年の判決を受けた彼らにカメラを向けた作品です。そこでは、TCと呼ばれるある特殊な教育プログラムが実施されています。複数の専門家がプログラムに関わり、受刑者たちが対話を重ねていきます。最初は皆なかなか本音を言い表すことはありませんが、そのプログラムを進めていく中で、犯した罪を見つめて少しずつ変えられていく姿が描かれています。彼らの犯罪は様々。ある人はなりすまし詐欺を繰り返し、またある人は住居侵入罪で捕まった受刑者です。ただ共通しているのは、幼い時に受けた過酷な虐待、性暴力やいじめの経験です。そこで生じた恐怖、悲しみや寂しさ・・それを言葉にして誰かに聴いてもらい、自分も他者もがんじがらめにしている怒りの正体を知り、少しずつ自分を客観視できるようになっていきます。ある受刑者がこう言いました「刑務所で毎日番号で呼ばれ、『お前はどうしようもない最低な人間だ』と罵倒されている時には、『どうして自分だけがこんな辛い目に会うのか』と思い、的外れな怒りでいっぱいいっぱいだった。けれども自分の話を真剣に聴いてもらい、自分の辛い過去を吐き出せて、背中をそっと押してくれる人の存在を知った時に、はじめて被害者の気持ちに向き合おうと思った。そこではじめて自分の過ちを考えるようになった」。

受刑者たちが幼い時に負った辛い経験・・それは、成人になってから犯した罪を決して正当化するものではありませんが、そこで生じた辛さと痛みを言葉にし、誰かに受け止めてもらうことで、本当の意味での罪の償いがはじまることを描いている作品であったと感じます。

今日の聖書は大変有名なところです。「人がひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を与えよう。」と神さまは私たちに言うのです。ここで言う「ふさわしい助け手」とは単に、結婚相手の対象ではありません。一番根っこにある意味は「自分と向かい合い一緒に荷物を背負うパートナー」のことです。私たちの「心のあな」が求めるパートナーであり、同時に、私たちが目指す生き方のことでもあります。

この物語を読み進めていくと、「善悪を知る木」の実を食べたことを巡って、責任のなすりあいが起こります。「あの人がわたしをだましたので・・・いや、わたしは知るはずがなくて」という責任逃れです。「一緒に荷を背負う」どころか、その反対のことが起こってしまうのです。ですので、確かに私たちが持つ「心のあな」は人と築いていく愛情と友情で埋められていくのでしょうが、それだけでは足りないのです。最たる助けて・・・イエスさまが必要なのです。イエス・キリストは「共に重荷を負う方」として私たちの傍らに来てくださいました。いのちがけで、私たちの荷を負ってくださるのです。いのちがけで私たちのために愛を顕されるのです。人はとてつもない荷を負った時、その重荷を受けとめ聴いてくれる存在が必要なのです。教会は、私たちの主であり、本当の友であるイエスさまを目の前の人に紹介しつつ、できれば私たちもお互いに誰かの言葉を聴き、その背中にそっと手を添える存在になれたらと思うのです。

「人がひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を与えよう。」アーメン。

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 命の木 

エレミヤ書29:11

創世記2:4後半~9

2023年7月16日(日)

 

 おはようございます。小樽バプテスト教会の牧師のエイカーズ愛と申します。いつも、小樽教会をおぼえてお祈りくださっていること、また、雪かき隊を派遣してくださったことを感謝申し上げます。この度、交換講壇ということで、石橋先生が小樽の礼拝で今朝はメッセージをしてくださっています。そして今朝は小樽の信徒の方がこちらで証をしてくださり、ほかにも2名の教会員の方々が一緒に礼拝に出席してくださっています。交換講壇と言うと牧師たち同士だけが交換ということが多いのですが、雪かき隊に小樽に来ていただいた際に、教会員同士も証や礼拝出席で少し交換できたら素敵だねという話になりました。今月の第5日曜には、更に小樽教会の皆さんは直接その姿をまだ見たことがないけれども祈っているという、札幌教会の西本牧師に小樽でメッセージをしていただき、教会員の方に証をしていただく予定にしています。今朝このような機会が与えられたことを神さまに感謝致します。せっかく今日ここに来ることができましたので祈りにおぼえていただきたいことを2つ、わかちあいたいと思います。1つ目は来月小樽教会で予定しています、ある方の信仰告白とバプテスマ式のことです。「恐れるな小さな群れよ。この町にはわたしの民が大勢いる」との御言葉の通りに小樽のわたしたちの教会にも毎年、一人、また一人と共に礼拝する神の家族が加えられていることを神さまに感謝します。もう1つの祈りのリクエストは、ミャンマーのことです。わたしたちの教会にはミャンマー人の方がおられます。その方とお会いして、ご家族の様子や近所のこと、学校、病院などの話を聴く度に胸が締め付けられ、日々おぼえて祈り、一日も早く平和に暮らすことができるようにと更に祈らねばと思います。どうぞ、皆さんも祈りを合わせていてください。

 

 さて、わたしが小学生の時に、街の仕組みを学ぶテレビ番組の歌に「知らないことが、おいでおいでしてる」という歌詞がありました。わたしたちには知らないことが沢山あります。小樽教会で仕えて7年目になりますが、まだ慣れない言葉が時々あり、「ジョッパル」とは、どういう意味ですか。と意味を尋ねては手帳に書き、「だら銭」って、こういう意味ですか。と、あまり聞くと恥ずかしいので少人数の時に言葉の意味を聞いてメモをして、まるで留学生のように知らない言葉を未だに教えていただいています。わたしは18才の時にアメリカに行きましたが、知らない言葉ばかりでした。語学学校の生徒も、その大学の食堂も寮も図書館も1年目から使えましたので恵まれていました。わたしはいつも分厚いメモ帳とペンを持ち歩き、食堂でも学生会館のロビーでも、誰かと話していて分からない単語があると、すぐに「その言葉、ここに書いていただけますか?そして意味を教えてください。使い方も例文を教えてください」と、まるで記者のように情報を集めました。そこで分かったことは、英語の教科書に載っている単語の意味とは違う意味で、若者たちは同じ言葉を使う時がある。ということです。例えば日本語でも若者が今使う言葉で「しんどい」という表現があるそうですが、それは、疲れた、とか、きつい、悲しい、というネガティブな意味ではなくポジティブな意味で使う時があるそうです。今度周りにいる若者に聞いてみてください。前置きが長くなっていますが、知らないということは、また間違えるということは恥ずかしい。と思うかもしれませんが、知らないということを通して、わたしたちは、人と繋がるというきっかけをいただく時があり、また何かを間違えることで新たな発見が与えられることがある。また、知らない、という中においても、神さまが共にいてくださり、イエスさまの十字架と復活により、わが魂は救われている。という確信を与えられている者は、すべてを知らなくても、把握していなくても、神さまにお委ねして安らいでいる、生かされてある、を生きることができる。ということを今日は聖書の御言葉から分かち合いたいと思います。

 

 すべてのものを造り終えられた神さまは人をエデンの園に置かれました。昼も夜も、月も星も太陽も、植物、動物、人間と神さまは造られ、その中にあったエデンという場所の園でのことです。エデンにある園は、すべてが整えられている最高の場所でした。しかし神さまは何故か、その園の中央に「命の木」と共に「善悪を知る木」をはえさせました。早いもので2023年も半年が過ぎましたが、今年聞いた言葉の中で一番衝撃的だった言葉を紹介します。それは、「そもそも神さま、なんであの『食べたらアウト』みたいな木を植えた?」という言葉でした。言葉が衝撃的というよりかは、そのような考え方をわたしは、したことがなかったのでビックリしました。そして、その問いへの答えはわかりません。神さまは、どうして「それを食べたら死んでしまうかもしれない」という実のなる木を、一番目立つ園の中央に生えさせたのか。明確な答えは分かりませんが、今日の聖書の御言葉を黙想する中で、少しずつその意図が見え隠れしてきました。

 

 神さまがこの世界を創られた時のことを、わたしたちの小樽教会でも聖書教育から続けて学んできています。その中で、改めて最近気づかされたことは、神さまは、光を造られた時に、闇を完全に追い払われなかった。ということです。先週の聖書日課の中に、ヨハネによる福音書1章1節~5節がありました。その最後の5節のところに「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と口語訳聖書では書かれています。他の日本語訳をいろいろ調べてみますと、「光は闇の中に輝いている。そして闇は光を受けなかった」という訳がありました。ちなみに小樽で使っている新共同訳聖書では「暗闇は光を理解しなかった」。つまり、天地創造の場面では、光も闇もあったけれども、暗闇は光を理解しようとしなかった。そして光を受けなかった。認識して尊重して受け入れるということをしなかった。ということです。創世記の言葉や世界観が壮大すぎて、「お~。すごい。神さまは、やはりすごい」と思うのですが、同時にヨハネによる福音書の1章1節~5節を横に置いて見比べながら読んでみると、イエスさまが光であり、闇は、そのイエスさまを認めないわたしたちであった、ということが少しずつ浮かび上がって参ります

 

 神さまは不思議とエデンの園の中央に「命の木」と「善悪を知る木」を生えさせました。それは何故でしょうか。正確なことは、いつかわたしたちが天国に行って、神さまにお尋ねするしか、わかりませんけれども、祈りつつこの聖書の箇所を何度も読む中で示されたことは、神さまはわたしたちに「自分の方が知っている」という思いを優先させるのか、それとも、「神さまが与えてくださっている目の前にある命を輝かせる」ことを1番とするのか。ということを、この物語を通して、わたしたちに今朝問いかけようとしておられるのではないでしょうか。

 

 学生時代、日曜の礼拝が終わると必ず、ご自身の住んでおられる高齢者ホームの素敵なダイニングルームでのランチに誘ってくださる元宣教師の先生がおられました。その先生は日本の初期のバプテストの歴史にも詳しく、また当時、70代でしたが、その時にも神学校で授業を聴講をして常に様々なところにアンテナを張り巡らせ、新聞も毎朝よく読んでおられた方だったので、いつもわたしはその週に一度のランチを楽しみにしていました。どんな話題のボールを投げても、また学校での出来事を話しても、よく聴いてくださる方でした。ある時、よく祈り黙想をする中で「徐行しなさい」ということが示されました。スピードを落としなさい。自分よりほかの人が先を行くようにしなさい。人が話せるように、あなたは一旦黙りなさい。ということが示されたのでした。そして、その不思議な「徐行する。人が話すことを積極的に聴く」という取り組みを少しずつ始めると、その日曜のランチを一緒にしていた引退宣教師の先生は、「愛さん、あちらに座っている、あのおばあさんいるでしょう?あの方はタイタニック号に乗ってた人です」という様な驚く事実を教えてくださったり、「わたしが50年代に日本に最初に来た時は、熱海に日本の青少年の救いのためにと修養会施設を建設する話しがあって、でも当時熱海は大人気だったので良い物件が見つからず、静岡の湯ヶ島にあった三本松というところに敷地を購入するかどうか、検討のための下見に東京から鈍行に乗って行ったんですよ。」と、何と天城山荘の土地を購入する時の下見の話しなど、貴重な話しを沢山伺うことができたのでした。

 

 神さまが「善悪を知る木」もそこに植えられた時、神さまはもちろん、わたしたち人間が「すべてを知っておきたい」という誘惑にかられることを、ご存知でした。何が善くて、何が悪いのか。を、もしその正解を完全にわたしたちが知っているならば、「それは正解」とか、「それは間違い」と、わたしたちがまるで裁判官にでもなって、裁きを下すことができるようになります。何が善くて、何が悪いのか。それは大人になればなるほど、世界を現実を知れば知るほど、わからなくなるのだと思います。北九州の東八幡教会で牧師をしながらホームレス自立支援の活動を長らく続けておられる奥田牧師は、僕たちがどれだけ「善い業」に見える活動をしたところで、これは「罪びとの運動なんだ」。10人のホームレス状態にあった家がなかった人たちが住めるアパートを確保できて喜んだけれども、次に突きつけられた現実は、それ以上の人たちが応募して、何人かに「ごめんなさい。あなたは入ることができません」と、応募前よりも絶望的なことを伝えなければならなかったことだ。と教えておられました。

 

 わたしたちが人間である限り、完全に「善い」ことをすることはできません。それでも神さまは、その「善悪を知る木」の、すぐそばに「命の木」をも備えてくださっていました。完全に「善い」行いができなくても、わたしたちにも「命を輝かせる」「目の前にいる人の命を輝かせ、励まし、慰め、応援し、笑顔にさせ、安心を与える行い」は、できるのです。今日わたしたちは上よりの慰めと励ましを全身に受けながら、周りにいる人たちにも、その上よりの慰めと励ましと喜びを分かち合ってゆく者とされたいと思います。神さまは今日も、小さき御声をもって導かれます。今、手に握りしめているものを手放しスピードを落とし、我に従えと。命が輝く方を選べと。知ったつもりではなく対話の中で、学び、生かされよ!と招いておられます。命が輝く方を選び、対話の中に身を置く中で、命の木がいつも、わたしたちの真ん中に立っていますように。そして、イエスさまが架けられた、あの十字架の木がいつも、わたしたちの心の中にあり、悔い改めと感謝をもって、わたしたちが謙遜に、そして喜びに満たされて前を向いて背筋を伸ばして、生きることができますようにと願います。

 

 

 

(小樽バプテスト教師、 エイカーズ愛 

 


『 神さまは手を止めて喜んだ 』

 詩編8:3~4

創世記1:26~2:4前半

2023年7月9日(日)

 

子どもメッセージ

今日も、地と宇宙・・・その内の全ての始まり・・・聖書の最初の物語です。これを「天地創造」と言います。

一日目・・・肝心な最初の日、何が起こったんでしたっけ?「混沌」と「深い穴」と「暗闇」・・・居心地が悪い世界・・・心がザワザワ、ソワソワする世界・・・そこに神さまの言葉がかけられたのです、「光あれ」と。そうすると「光があった」のです。光が誕生して、神さまはそれを見て「いいね!よし!」と思ったのです。2日目・・・海と空がつくられました。でも地球のどこへ行っても海と空だけです。まだ動物も植物も人もいません。どこを見ても海と空・空と海・・・それだけだと、寂しいですね。でもそのつくられた海と空を見て、神さまは「いいね!よし!」と思われました。3日目・・・今度は海の中から乾いた陸が出てきました。ここではじめて命が誕生します。木や植物が・・・ググググっと生えてきたのです。木の実・・フルーツもなってきました。面白くなってきましたね。神さまはこれらを見て「いいね!よし!」と思われました。4日目・・・夜空にキラキラする星、太陽と月が誕生しました・・・これも、神さまは「いいね!よし!」と思ったのです。5日目・・・水の生き物と空を飛ぶ生き物が出てきました。段々ごちゃごちゃしてきましたね・・・この日につくられたものを見て、神さまは「いいね!よし!」と思われました。6日目・・・今度は陸の動物たちの登場です・・・この動物たちをご覧になって、神さまは「いいね!よし!」と思われたのです。これで、聖書の創造物語は終わりました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・では、ないですよね。何かが欠けています。何でしょう?私たち人間です。神さまは最後の最後で、人間をつくられました。しかも、他とは違って、神さまに似せて私たちをつくられたと聖書は言います。神さまに似ているってどういうことなのでしょうね・・・もう少ししてからそれは考えてみたいと思います。ともかく、神さまは人間を特別に・・・最後に、神さまに似せてつくられたのです。

ということは・・・みんなは偶然につくられたのではなく、特別に神さまご自身につくられたのです。たまたま・・思いつきでつくられたのでもありません。みんなは、お一人お一人、神さまにとって特別なのです。自分なんか何もできないし、自分はダメなのだと思うことがあるかもしれない。自分はダメ人間だ・・・このまんますぅっと消えちゃいたいと思う時があるかもしれません。あの人はあんなに頭がよくて、面白いし、誰とでも仲良くできるし・・・それに比べると私は・・とため息をつく時があるかもしれません。でも、そんなの関係ないのです。神さまにとってあなたが特別なのです。だって、神さまがわざわざあなたをつくられたのですから。そんな特別な私たち一人一人に、神さまは祝福してくださるのです。「今日もいてくれてありがとう・・・あなたが必要なんだ」という祝福です(28節)。

自分はダメなんかじゃない、伸び伸びと自分らしく生きていいんだと思えることはとっても嬉しいことで、みんなが必要なことだと思います。でも、「自分は特別だ」はまだしも・・「自分だけが特別だ」と思いはじめるとどうなるでしょう。僕は調子ものなので、すぐハナタカになってしまいます。他を見下してしまいます。「あんたはそんなことも知らないのかよ・・・俺は知ってるんだぞ・・・俺は特別なんだから・・・俺はスゲーんだ」という錯覚にはまってしまうのです。そもそも、聖書に言わせれば、自分が自分を特別にしているのではありません。神さまが私たちを特別にしているのです。これをすぐに忘れちゃうお調子者なんです。

実は、「神さまに似せられて」つくられた私たちは、特権をいただきました。「この地球とその内の全ての生き物を自由に使いなさい」と神さまは言われました(28-29節)。もしもハナタカのままで・・・「俺がスゲーんだぞ」と思い込みながら、大自然の生き物たちと植物たちを使ってしまったらどうなるでしょう。大自然は段々なくなっていって、住みにくくなってしまいますよね。

人は、創造物語の最後の最後で、神さまに似せられてつくられたと聖書は言います。それだけ特別なのです。そして、神さまがつくられた世界・・・その内のすべてを自由に使っていいと神さまは私たちに言いました。でもここで考えなくてはいけないことがあるんじゃないかなぁと僕は思います。ある日、大自然の中から人がいなくなったら、世界はどうなるでしょう。今まで通りに木は茂って、秋になれば葉は枯れて、季節が繰り返され、動物たちは問題なく生き続けるでしょう。でも、その逆はどうでしょう。植物や動物たちがいなくなってしまったら、人は生きられるでしょうか?生きられないのです。私たちは植物や動物たちに生かされていると聖書は言っているんだと思います。だから、人は最後につくられたのです。人は自分で生きているのではなく、生かされているんです。

私たちは神さまに似せてつくられました。神さまのどういうところに似せられたのでしょうかね・・。ヒントはこの天地創造物語にあるはずです。神さまは何かをつくられる度にそれを見て「いいね!よし!」という思いでいっぱいになりました。人をつくられた時には、「あなたが必要なんだ・・いてくれてありがとう」という祝福を与えました。つくられたすべてを喜んだんです。そんな風に喜んで、良く思う世界に対して、軽々しく接するはずがありません。大事にするんです。愛をつぎ込むんです。ですから、私たちが神さまに似せられたのは、愛することにおいてじゃないかなぁ。目の前の人・・囲まれている自然を大事にしていくこと。それらに込められた「いいね!よし!」という神さまの思いを汲み取って、愛をなしていくこと。それが、私たちが神さまに似ているという事なんじゃないかなぁ。

私たちは神さまに似せられたぐらい、神さまに愛されていると言った人がいます。本当にそうだと思います。愛されている私として、今度は、愛するものになりたいですね。人も、自然も、物も大事にする、愛するものになりたいですね。

 

 「最終的には天にお願いするしかない」

日頃から大自然と接し・・そういう職業に努めている人とお話をすると、その人がある特定の信仰を持っていなくても、あたかも信仰のお話しをしているのではないかと思わされることがあります。私の親友で、栃木県で梨農家をしている人がいます。彼はクリスチャンではありませんが、自分の仕事のことで、こんなことを言っていました。「収穫の時期は、収穫のためにフル回転で走り回るのはもちろんのこと、梨の選定と出荷でほとんど寝られないぐらい忙しい。でも忙しいのは収穫の時期だけではない。おいしい梨をつくるために年中木の手入れをし、常に土の改善をしている。できることはとことんがむしゃらにするんだけど、自分では絶対に左右できないことがある。台風は来るし、雹は降るし、こないだは近くの川が氾濫した。最終的には天にお願いするしかない・・天に丸投げするしかないんだ。」彼が言う「天」とは、私の信仰から言えば神さまのことですが、神さまに委ねること・・神さまに委ねざるを得ないという姿勢を、彼の発言から教わるような気がするのです。できることは丁寧に、きっちり、コツコツとこなしていくんですけど、最終的には神さまに最善を祈るしかないという姿勢です。彼に直接聞いたことはありませんが、恐らく彼は、「自分は生かされている」という感覚を持っているんだろうと思うのです。木と土と水と空気・・そして天に生かされていると。そう考えると、「神さまに生かされている」という信仰の姿勢は、大自然と触れ合いながら身に着けることができるんじゃないのかなぁと思わされるのです。イエスさまは、「野の花を見よ」(マタイ6:25~34)と言いながら、大自然の中で、神さまに生かされている創造された世界を見られたのです。

 

 自然を「治める」?

私の友人のことに比べれば、大変小さいことになってしまいますが、教会の裏の宣教師館あたりに桑の木があります。今まさに、ベリーのような実がなっていて、その実をこの2~3週間、仕事の合間を見て収穫しています。収穫をしていると、スズメが・・チョンチョンチョンと実を突っつきながら、食べることがあります。今までの自分でしたら、シッシッと小鳥たちを追い払っていたと思いますが、欲をかいてもたかが知れていることだと気づかされるのです。桑の実で生計を立てているのではない僕は、分け合えばいいだけのことです。そもそも自然は人のものではなく、全ては創造主なる神さまのものなのです(申命記10:14)。それをすぐに忘れてしまう私なんです・・・自分の人生も命も私のものだと思い込んでしまうのです。でも、自然と触れていると、「あ、そもそも自分のものではなかった。生かされているんだ。」と教えられるのです。

今日の聖書では、「自然を治めよ」と、神さまは私たち人に命じ、大自然とその内の生き物の管理が人類に託されたのです(28~29節)。ただし、この「治める」という言葉は、近頃の環境汚染や、地球温暖化などを考えれば、その意味を考えなくてはいけないことだと思うのです。キリスト教会は、イエスさまが天と地を治めていると告白してきました(マタイ28:17など)。でも、イエスさまの生涯を見ると、私たちが通常思い描くような「統治」や「支配」ではありませんでした。イエスさまの生き方の特徴は仕える姿だったと言えるでしょう。私たちの足まで洗うのがイエスさまです。命を立ち上がらせ、命を大事にする姿・・それがイエスさまの示された「治める」姿だったのです。そうだとすると、私たちは自然を治めるというよりは、自然と一緒に生きる意思を持たなくてはいけないのです。大自然は人抜きで生きていけますが、私たちは大自然抜きには生きられないのです。創造のみ業の最後につくられた私たちは、それまでに創造された大自然に生かされているのです。生かされているのですから、自ずと感謝が沸いてくるのではないでしょうか。大自然に対する感謝はもちろんのこと・・それを育む神さまにも感謝が生まれてくるのです。

 

 神さまの喜びは止まない

 天地創造物語の六日目に人が創造された後、興味深いことに神さまが「休まれた」とあります(2節)。神さまが横になって、かゆいところをポリポリしながら疲れを癒されたということなのでしょうか。そうではないと思いたいです。3節ではこうあります、「神はそのすべての創造のわざを終わって休まれた」と。あえて、「創造のわざ」を休まれたと言うのですから、他のことは休まなかったということでしょう。他のこと・・それは、創造された天地を見て「いいぞ!よし!」という思いにいっぱいになること・・祝福を与えること・・このことは休んでいないということです。実際、この7日目を「祝福し、聖別された(特別にした)」と3節に明記してあります(3節)。もっと簡単に言えば、創造された天地とその内の全てに対する喜びを噛みしめるために、7日目が特別に設けられたのです。天地創造物語のフィナーレと冠は神さまの喜びなのです。

 1日目から6日目までは、その一日の終わりに必ず「夕となり、また朝となった」という定型句が使われています。でもよく見ると7日目にはそれがありません。神さまが創造物に対する喜びを噛みしめている7日目には終止符が打たれていないのです・・夜がきていないのです。つまり、天と地、そしてそこにあるすべての命に対する喜びは今なお続いているということです。神さまの喜び・・・「いいね!よし!」という思い・・・祝福は永遠に止まないのです。

 先週の説教でも取り上げましたが、この創造物語は、バビロン捕囚時代のイスラエルの人々の間で語り継がれたものでした。生きる気力を失いつつある人々の間で確認されたのは・・・神さまの止まない喜びでした。目の前は悲惨であったかもしれない・・・それでも、誰にも止めることができない根源的な深い喜びが与えられていることを告白したのです。なおも、神さまに生かされているという喜びです。支えられているという喜びです。今度は、讃美と感謝でそれを神さまに帰していこうではありませんか。

(牧師・西本詩生)

 

 


『 光あれ 』

 イザヤ書55:11

創世記1:1~25

2023年7月2日(日)

 

子どもメッセージ

今日は、この分厚い聖書の一番初めのところです。聖書はこういうふうに始まります。「初めに神さまは天と地を創られた。」窓の外に見える青い空と地上を神さまが創られたお話・・全宇宙とそこにあるすべてが創られた物語です。

私たちが何かを作る時、材料が必要です。例えば・・1階におもちゃが置いてあるところがありますが、小さいお友達はそこで秘密基地を作りますよね。そこにある、青いマットや、黄色と茶色のブロックのようなクッションを材料にして作っています。何かを作るためには材料が必要です。神さまは宇宙とその中身を創られた時何を材料にしたのでしょうか?この質問の答えは後々触れることにします。答えのヒントは聖書にありますので、さっきの聖書の続きを読みましょう・・「地は混沌としていた」とあります。どうやらもうすでに、土はあったようです。でもそれは「混沌としていた」というのです。「混沌」ってなんでしょう?荒れている・・乱れているということです。でも、それでも分かりにくいですよね。大変恥ずかしいことですが、僕の牧師室を覗いてみたら、「あっ、これが『混沌』か」と分かると思います。物が溢れていて・・隅っこにはなぜか、大きな漬物樽まであり、引っ越してきたときの箱がまだ開けられずに積んでありますし、人によっては全く落ち着けない部屋です。でも、目で見える・・手で触れることができる部屋や物だけを「混沌」という言葉で描くのではありません。例えば、心が混沌としていると言ったらどういう気持ちでしょうか?心が乱れて落ち着けない・・何だかザワザワ・ソワソワする・・そんな状態が思いつきます。みんなは今日落ち着いていますか?何か心配ごとがあり、ソワソワしていませんか?「地は混沌としていた」と聖書は言いますが、ただ土のことを言っているのではなく、私たちの心の状態のことも言っているのです。

続いて聖書はこう言います、「闇が深淵の面にあった」。また難しい言葉ですね。「闇」って何ですか?真っ暗よりもさらに真っ暗なことです。肌で感じられるぐらいの分厚い真っ暗さと言ってもいいのでしょう。よけても、よけても、よけても、よけても・・あるのは真っ暗・・それが闇です。そして、次は「深淵」・・「深淵」って何でしょう?深―い穴のことです。どんなに頑張っても埋めることができない深―い穴です。浅い穴に、石ころを落としたら、すぐに底に着きます。ポトンという音がします。でも「深淵」という穴は深すぎて、大きな岩をそこに投げたとしても底にぶつかった音が聞こえることはありません。それぐらい深―い穴のことです。ですので「闇が深淵の面にあった」というと、とてつもなく深―い穴があって、その上はとてつもなく真っ暗闇であったということです。ちょっと想像してみると・・居心地がいい場所ではありませんよね。

神さまが天と地を創られた時、その材料となったのは「乱れて荒れ果てていた地」、そして、「真っ暗闇」と「どこまでも深―い穴」でありました・・あまりいい材料ではありませんよね。何かよいものを創りたいのであれば選ばない材料です。でもその「あまりよくない材料」からどういうふうに宇宙が創られたのでしょうか?

もう一度今日の聖書を読みたいと思います。でも今度は目を閉じながら聴きたいと思います。どういうふうに宇宙が創られたか、頭の中で思い巡らしてみたいと思います。僕が「目を開けてください」と言うまでは、目を閉じたままにしてください。それでは、目を閉じてください。

いきますよ・・「初めに神さまは天と地を創られた。」でも最初にあったのは「荒れ果てた土地であった」。今日皆さんの心の中は落ち着いていますか?ザワザワ・ソワソワさせるような心配事がどこか頭の隅っこで悪さをしていませんか?聖書は、宇宙と世界の始まりの時、その最初にあったのは「荒れと乱れ」であったと言います。ザワザワ・ソワソワです。それだけではありません。あったのは「真っ暗闇」であり、「どこまでも続く深―い穴」でした。皆さんは最近何かに失敗して、気持ちが落ち込んでいませんか?あるいは大事な何か、大切な誰かを失って、心に穴がぽっかりと空いていないでしょうか?後悔をずっと引きずって、なかなか顔を上げることができない暗い時がないでしょうか?世界の始まりの最初にあったのは「ぽっかりと空いてしまった深―い穴」、そして「真っ暗闇」でした。心と体の芯まで冷え切ってしまう冷たい世界です。でもおやおや?何か音が聞こえてきます。肌の上を、空気がゆっくり流れていきます。風です(3節の「神の霊」は「神の風・神の息」とも訳される言葉です)。しかも少しずつ強くなってきています。「ビュー・・ビュー」と。耳をすませば、風に乗って、ある声が聞こえてきます。最初は小さな声ですが、だんだん大きくなってきます。なんて言っているのでしょう?「光あれ」という神さまの声です。「混沌」「暗闇」「深淵」に、神さまの「光あれ」という声が差し込んできたのです。すると何が起こったのでしょう?「光があった」と聖書は言います。皆さんは今何を思い描いているでしょうか。輝く光ではないでしょうか?安心できる暖かい光ではないでしょうか?目を開けてください。

私たちは時に乱れてソワソワする時があると思います。何か言葉にならないような迷い、悩みの中に置かれます。しかし今日の聖書を読むと、神さまが「光あれ」と言われると、「光があった」のです。私たちがソワソワする時に、神さまから「光あれ」という声が心に差し込んでくるのです。「もうだめだ」とあきらめてしまう私たちの心にも「大丈夫だ」という光が輝き始めるのです。

二千年前、神さまの愛を命がけで語られたイエスさま。私たちのために十字架にかかったイエスさま。ここに「大丈夫だ」という光があります。イエスさまがいつまでも、どこまでも一緒だから、光があるのです。これを今日も、明日も信じようと思いませんか?僕は信じたいと思わされました。

 

バビロン捕囚の中で語り継がれる天地創造物語

 今日から9月の終わりまで、創世記の1~11章を読み進めていきます。今日は「天地創造物語」の7日間の内の最初の5日間を読んでいますが、この物語はいつ、どのような状況の中で書き記されたのでしょうか?それは、イスラエルという国がバビロニアに粉々にされ、イスラエルの人々が異国の地に強制的に連れ去られた時にまとまれたと言われています。イスラエルの人々は、長い戦争を経て、敗北し、誰もが大事な家族や友人を失ったわけですから、言葉にはならない痛手と破れを皆負い続けていたのでした。そういう意味で、彼ら・彼女らの目の前にあった世界と未来は「混沌」であり、「闇」と絶望の「深淵」であったと言えるでしょう。異国で住み続ければ、住み続けるほど自分たちの文化が薄れていき、「自分たちはいったい何者なのか?・・私たちはどこから来たのか?」という問いかけが切実な課題となったのです。そのような問いかけと呼吸する形で、今日の天地創造物語が語られたのです。

 

神さまが初めとなってくださる

 「初めに神さまは天と地を創られた。」とイスラエルの人々は告白しました。「そうだ、この世界は、バビロニアのような帝国によってではなく、他の何ものによってでもなく、神さまによって創られたのだ。私たちの命は神さまから来たのだ」と宣言したのです。日頃の生活では、イスラエルの民は、支配者たちに自分たちの主張を訴えることはなかなかできなかったのでしょう。民族間の優越があり、いつも後回しにされていたのです。バビロニアの支配者たちが、何においても「初め」であったのです。その中で「初めに神さまは天と地を創られた。」と言うのですから、それは、「どんな時でも神さまが第一となってくださる」という告白でした。これが聖書の出発点なのです。

私たちの生活においても、仕事、家族、学び、趣味、進路、老後や介護のことなどなど・・数えきれない課題が押し寄せてきて、初めどころか、優先順位が分からなくなってしまい、いっぱいいっぱいになってしまうことがあるのではないでしょうか?でも、聖書ははっきりと言います。乱れてしまう私たちの営みにおいても・・混沌としか思えないような状況においても、神さまが初めとなってくださる、第一となってくださる。そういう形で、私たちの目の前にある乱れと混沌に神さまの秩序が・・神様のリズムが入り込んでくるのです。

 

混沌に埋め込まれている「良し、良し、良し」という神さまのリズム

今日聖書を聴きながら気づかれたと思いますが、創造物語には一定のリズムが埋め込められています。「何々あれ・・そのようになった」「夕べがあり、朝があった。第○○の日である。」という定型句が繰り返されています。そしてそのリズムをまとめるような形で、それぞれの創造物をご覧になって、神さまはそれらを「見て良しとされた」と繰り返されるのです。「良し、良し、良し」というリズムが聴こえてくるのです。興味深いことに、最初に光が創造されましたが、闇は消えませんでした。闇は夜と名付けられ、依然として残ることになりました(5節)。神さまが第一となるから、私たちを悩まし、迷わす課題が一気に無くなればいいのですが、そうとはいかないということを物語っているのでしょう。乱れを生み出すものは、以前としてあり続けるのです。でも闇と混沌があり続ける中で、神さまがその只中で生きて働いておられることを見ること・・感じることが許されているのではないでしょうか。神さまが、「良し、良し、良し」というリズムを埋め込んでくださっているのですから。

 

混沌・闇・深淵からの創造・・それが「良い」創造とされた

 私事になってしまいますが、今日の箇所・・特に創造物語の一日目の部分は私にとって特別な意味を持ちます。私が神学生の時に、札幌バプテスト教会にお招きをいただき、お互いのことをもっと知る数日間をいただきました。日曜日もはさみましたので、言わば「お見合い説教」をし、その時にこのみ言葉から語りました。僕にとって、札幌バプテスト教会との歩みの出発点が「光あれ」という神さまの言葉にあるのです。着任してから、2年と数か月経ちますが、もうすでに僕の落ち度で乱れと混沌を生み出し・・落胆させてしまうことも多々あったでしょう。皆さまからすれば「深い淵」のようなものを僕が作りだしていると思います。そうであるとしたら、皆さまにも、神さまにも謝りたいと思います。でも、今日改めて僕は思わされました。札幌バプテスト教会の一員として、神さまからの「光あれ」というみ言葉に支えられていきたいと。

 私がここで「お見合い説教」をしたのは、コロナが始まってから半年ほど経った時でした。その年、イースターの集会は全部中止になりました。緊急事態宣言で教会に集まることができなかったのです。用意していた何百枚のチラシが活用されずにありましたが、裏面は白紙であったため、そこに感謝の言葉を書いて、1階の窓を埋めつくすという試みがありました。宅配をしてくださる配達員の方・・スーパーやコンビニのレジをしてくださる方々への感謝の言葉が、みなさんの声として集められたのです。「今までは配達員のお仕事を当たり前にしていました。すみません!毎日毎日ありがとうございます!」というコメントを読んだことを思い出します。迎えのセブンイレブンさんにも張っていただいたと聞いて僕はびっくりしました。

 このような試みは、まさに今日の創造物語が語ること・・混沌と破れとしか思えないような状況の只中で、神さまの「光あれ」という言葉に背中を押され、よいものを創りだしていく姿です。ソワソワし、ギスギスしてしまう中で、感謝と喜びを確認していく、助け合う輝きを創っていくことです。あの時、僕は感動したことを思い出します。ここに創造物語が実現していると気づかされたのです。今はコロナの懸念はその当時に比べれば、大分おさまりましたが、他の面では依然として、混沌・深い闇としか思えないような出来事が起こり続けています。でもその只中から、神さまの創造物語が始まるのです。「良し、良し、良し」という神さまのリズムが埋め込まれているのです。これからも、神さまの「光あれ」というみ言葉に背中を押されていく私たちであり続けようではありませんか。

 

 

(牧師・西本詩生)