『 決め台詞は「ぼくのために祈って」 』   

マタイによる福音書26:36~38 

ローマ人への手紙15:30~33

2023年6月25日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 『恵みのとき~病気になったら』(作:晴佐久昌英)

①病気になったら どんどん泣こう

②痛くて眠れないといって泣き 手術がこわいといって涙ぐみ 死にたくないよといって めそめそしよう

③恥も外聞もいらない いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て かっこわるく涙をこぼそう

④またとないチャンスをもらったのだ じぶんの弱さをそのまま受け入れるチャンスを

⑤病気になったら すてきな友達をつくろう

⑥同じ病を背負った仲間 日夜看病してくれる人 すぐに駆けつけてくれる友人たち

⑦義理のことばも 儀礼の品もいらない 黙って手を握るだけですべてを分かち合える あたたかい友達をつくろう

⑧またとないチャンスをもらったのだ 試練がみんなを結ぶチャンスを

 この詩は、晴佐久昌英さんという神父さんが、自分が病気になった時に書いた詩だそうです。神父さんっていうのは、カトリック教会の牧師さんみたいな人で、晴佐久神父も、それまでにたくさんの病気の人のために祈って、励ましてきました。でも、自分が病気になって入院してみると、「そうはいかない・・・、ひとりぼっちだ」と感じたそうです。この詩を書こうとして、最初に思いついたのが「病気になったら どんどん泣こう」という言葉だったそうです。ぼくも、今から10年くらい前に、肺に血が溜まって、救急車で病院に運ばれて緊急手術を受けた時、「え?このまま死んじゃうのかな・・・?いやだ!まだ死にたくない!」って泣けてきたのを思い出します。その後、入院していたところに、当時一緒に働いていた奥村牧師夫妻がお見舞いに来てくれて、この詩をプレゼントされました。手術を受けたぼくのために、たくさんの人たちが祈ってくれていることに、感謝することができました。同じ病室に入院していたおじさんたちも、みんな似たような病気で、自分がどんなにひどいかを自慢し合っていたんだけど、その病室で一番若いぼくが、肺から出てくる血の入った袋をぶら下げているのを見て、みんな黙っちゃったのもよく覚えています。その後、みんな優しくしてくれて、病室の人たちといい仲間になれました。それまで、ぼくは「自分は牧師なんだから、みんなのために祈ってあげることが仕事だ」って思っていました。でも、自分のために祈ってもらうことも、牧師にとって、同じように大切なことだって教えられました。

 さて、今日読まれた聖書の箇所は、ローマの教会に宛ててパウロが書いた手紙です。パウロは、世界中にイエスさまのことを伝える働きをした、世界的な宣教者です。時には、つかまって鞭で打たれたこともあったし、牢屋に閉じ込められたこともありました。それでも、ひるむことなく、イエスさまのことを語り続け、各地に教会を建てた、とってもたくましい人でした。そんなパウロの決め台詞は、「ぼくのために祈って」でした。

 ちょっと想像してみてください。正義のヒーローが登場して・・・、かっこよく一言。「さあみんな、おれのために全力で祈ってくれ!」って言ったとしたら、どうですか?あんまりかっこよくないよね。そう、困っている人びとを一方的に助けて、何事もなかったかのように去っていくようなヒーローの言葉には、パウロの言葉は似つかわしくはないんです。でも、パウロはそんな一方的なヒーローになりたかったんじゃなく、イエスさまに仕える仲間として・・・、共に祈り合う家族として・・・、みんなと一緒に生きていきたいって願っていたんです。そして、「ぼくのために祈って」というのは、そのための大切な決め台詞で、合言葉だったんです。

 

◆ 牧師は祈ってもらうことを必要としている

 大学時代に通った東広島の緑の牧場教会で、当時牧師であった酒井敬仁牧師は、教会のホームページの自己紹介文にこんな文章を書かれていました。牧師をしている方々とお話をすることがありますが、今まで「自分は牧師として充分に務めている」と言われた方にお会いしたことがありません。牧師たちはそれぞれに自分が至らない不完全な者であると悩んでいると思います。ですから時には牧師という人々に出会ったら「祈っています」と言ってあげていただけませんか?きっとその言葉は牧師たちを生かします。牧師という人たちが、何かぎこちなく陽気でいる時、何か辛そうにしている時、きっといくつもの相談を受けて重荷をしょっているのだと思います。その時にも祈ってあげてください。きっと天国であなたの受ける報いは大きいと思います。他の教派もそうでしょうが、特にバプテスト教会には、牧師vs信徒というような図式はありません。牧師も信徒の一人であり、信徒一人一人がそれぞれの違いを受け入れ合いながら、唯一の共通点である“主”をいっしょに見て信頼して歩むのです。お互いに祈り合い、信頼し合い、愛し合いましょう。その雰囲気がお互いを生かし、教会を生かします。

 

◆ パウロにも不安があった?!

 この数か月読み進めてきた『ローマ人への手紙』の最終盤に当たる15章には、あの偉大なパウロ先生の言葉とは思えない弱気な言葉が綴られています。「兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい」。この壮大な『ローマ人への手紙』をまとめあげたあのパウロ先生が、まさか不安を抱えていたかのように感じる言葉です。彼は、まだ訪れたことのなかったローマの教会に行きたいと、長年願ってきました。ただ、彼にはそのローマに行く前に、しておかなければならない仕事があったんです。それは、たくさんの貧しい人々を抱えて立ち行かなくなりかけていたエルサレム教会のためにと、各地の異邦人クリスチャンたちが集めた献金を、エルサレムに届けるという仕事でした。そして、このエルサレムへの旅こそが、パウロに不安を抱かせる要因に他ならなりませんでした。

 

◆ パウロが不安になった理由①

 エルサレムに行くに当たり、彼が抱いた一つ目の不安はユダヤ教徒たちとの関係から生じる不安でした。かつてユダヤ教徒の代表格として、クリスチャンたちを迫害し続けたパウロは、ある日突然、「わたしは復活のキリストと出会った」と言って、それまで迫害していたはずのクリスチャンたちと一緒になって、「イエスこそが救い主だ」と宣教し始めたのです。当然、ユダヤ教徒たちは、「裏切り者め!」と憤りを感じ、彼を敵視したわけです。ですから、パウロにとって、エルサレムに向かうことは、自分を敵視するユダヤ教徒たちの中に、自ら飛び込んで行くという事を意味しており、命の保証もなかったのです。

 

◆ パウロが不安になった理由②

 もう一つの彼の不安は、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンとの関係から生じていました。パウロは、主にユダヤ人ではない異邦人に福音を宣べ伝えました。しかし、もともとユダヤ人たちは、異邦人のことを良くは思っていませんでした。いくら「イエスこそ救い主だ」と信じていたと言っても、ユダヤ人クリスチャンたちが、全面的に異邦人のクリスチャンたちのことを、仲間だと認めていたわけではなかったのです。そういう意味で、残念ながら、ユダヤ人を中心としたエルサレム教会と、その他の異邦人教会との間には深い溝があり、その関係は極めて複雑な関係でした。そのような状態であることは重々承知の上で、パウロは、各地の異邦人クリスチャンたちに呼びかけて、困窮したエルサレム教会のために献金を集めて回ったのです。ただ、当然、受け取る側のエルサレム教会が、それに対してどんな反応をするかは、わかりませんでした。もしかしたら、「そんな金は受け取れない!」と、突き返されてしまうかもしれなかったのです。

 

◆ 不安の中での祈りの要請

 神さまから受けた重たい使命の中で、孤独に闘うパウロの姿がそこにはありました。そして、そんな不安に押しつぶされそうになりながら、パウロはこの言葉を綴ったのでしょう。「兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい」と。

 

◆ 新米牧師のために祈ってくれた三上さん

 18年前、神学部を卒業したばかりの25才の新米牧師として札幌にやって来た頃、すべてのことが新しく、戸惑うことばかりの日々でした。当時、よりたくさんの時間をかけてかかわっていた青年たちとの関係も、思うように構築することができず、こちらの伝えたいこともなかなか伝わらなければ、相手の言うことを理解することもできませんでした。歯がゆい思いをしながら、日々を送っていたある日のことでした。悶々としながら、副牧師のイスに座り、物思いにふけっていたぼくのところに、「お!先生!また、こんな遅くまで、残ってるのか?」と口ヒゲを生やしたある紳士がやってきました。その前年まで、教会の主事として働いておられた、三上渡さんでした。その後、西南神学部に行かれ、現在は北九州の高須キリスト教会の牧師として働いておられます。当時、我々牧師たちは、彼のことを“エンジェル三上”と呼んでいました。幾度となく、三上さんに助けてもらったからです。当時、札幌教会に来たばかりだった我々より、ずっとずっと教会のことに精通しておられた三上さんの出してくださる助け舟は、いつも本当に絶妙でした。でも、ぼくは、この日ほど三上さんに助けられたことはありませんでした。悶々としていたぼくの表情を見ただけで、何かを感じ取った三上さんは、ぼくが何も言わないうちから、「青年たちとのことで何か悩みでもあるのかい?」と声をかけてくれました。そして、黙ってぼくの話に耳を傾け続けてくれた三上さんは、静かに言いました。「先生、祈ろうか」。そして、ぼくのために祈ってくれました。どれほど嬉しかったでしょうか。「ああ、牧師は、こうやって祈られる必要があるんだ」ということを、痛感したひと時でした。

 

◆ 互いのために祈り合うことで建て上げられていく教会

 パウロは、危険を伴う重大な働きを前に、まだ見ぬローマ教会の人々に、自分のための祈りの要請の言葉を綴りました。ただ、パウロは単に泣き言を言った・・・というわけではなかったのです。口語訳聖書では「わたしのために神に祈ってほしい」と訳されていますが、新共同訳聖書では「わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」と訳されています。パウロは、自分のために祈ることによって、自分の担おうとしているこの重たすぎる使命を、彼らにも共に負ってほしいと願ったのでした。そして彼は、その祈りの要請について、決して遠慮しようとはしませんでした。それは、彼が一方的にローマ教会の人々を支えたり、助けたりするヒーローになるつもりはなく、主にある家族として共に生きることを願ったからです。“祈り合う”という双方向の関係性によって一致することを、心から願ったからです。「兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい」。いつも牧師たちのために祈ってくださり、ありがとうございます。これからも、ますますお願いします。そして、互いに「祈ってね」と声を掛け合い、具体的に祈り合うことで、主によってひとつとされていきたいと願うのです。

 

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 失敗にとことんつきあう神さまに

ありのままの自分を差し出す 』

  ローマ人への手紙7:25

ローマ人への手紙12:1~2

2023年6月18日(日)

 

子どもメッセージ

 僕は小学生1年生から、放課後、水泳教室に通っていました。ある日、水泳練習を終えて家に帰る途中、背負っていたカバンに違和感を覚え、よくよく見てみると、私のカバンと色も大きさも同じで、カバンを作っている会社も全く同じでしたが、ちょっとした傷や汚れの具合がなんとなく違うことに気づいたのです。「まさか・・(汗)」と思いながら、カバンのジップを開けてみると・・うすうす気づいていたことが本当だと分かってしまったのです。自分のカバンではないことが分かったのです。違う学校の全く知らない人の名前がカバンに入っていた物に書いてあり、間違えてその人のカバンを取ってしまったのです。猛ダッシュで水泳教室に戻ったものの、どうやら、僕が間違って取ってしまったカバンの持ち主も、同じように間違えて僕のカバンを持って帰っていたのです。お互いカバンを取り違えてしまったということです。どうしていいか分からず、冷や汗がダァーっと出てきてその場で立ちすくんでしまいました。恐らく顔色も真っ青になっていたと思います。「カバンの中の宿題ができない・・どうしよう・・先生に怒られる(汗)・・母ちゃんにばれてしまったら、こないだ怒られたばっかりなのにまた雷をくらう・・どうすればいいんだ?大ピンチだぁ―」という心配事をグルグル頭の中で巡らしていました。でも、いくら心配しても、いくら考えこんでも抜け道が見えてきませんでした。勇気を振り絞って、怒られることを覚悟して恐る恐る母に電話をしました。でも、僕の母ちゃんは怒るどころか、優しく接してくれたのです。とことん叱られると思い込んでいましたので、いざ優しくされたからか、気づいたら僕はめそめそ泣いていました。そんな僕を、電話越しで母ちゃんは励ましてくれました。結局、このことに関しては、責められることなく、最後まで僕の失敗と付き合ってくれました。一緒に責任を背負ってくれたのです。二日ほどかかりましたが、僕のカバンは僕のところに戻り、僕が間違えて取ってしまったカバンは、その持ち主のところに戻ることになりました。この一連の出来事を通して、僕は、自分だけで悩むのではなくて、頼ることについて大事なことを学んだように思うのです。

 今週の聖書では、神さまが、私たちを「あわれんで」くださると言っています。「あわれむ」・・普段から使う言葉ではないと思います。「あわれむ」・・普通だと「かわいそうに思う」という意味で捉えがちだと思います。たとえば、僕がカバンを取り違えたとき、そのことを知った人が「あー、詩生くんはかわいそうだ」と思うかもしれません・・その人は私をあわれんでいるということになります。でも、聖書が「神さまが私たちをあわれむ」という時、ただ神さまが私たちのことを「かわいそうに思っている」と言うことではないと思います。と言うのも、「かわいそうに思う」ということだけであったら、どこか他人事と言うか・・暖かみや優しさではなく冷たささえ感じられることだと思うのです。僕がカバンを取り違えて、うちの母ちゃんに電話をした時、もしも、母ちゃんが「あらー・・かわいそう」と言って、そのまま電話を切っていたら、僕はさらに絶望していたと思います。聖書が「あわれむ」と言う時に、それは「かわいそうに思う」ことをはるかに超えて、失敗にとことん付き合うこと・・一緒に悩んで苦闘して・・本当は責められてもいいところばっかりなのでしょうが、責めず、責任まで肩代わりすることです。幸い僕の母ちゃんは、カバンを取り違えた僕のその失敗にとことんつきあってくれました。ただ「かわいそうに思う」ことで終わらせなかったのです。今思えば、母ちゃんは、僕に対して突っ込みたいところはいっぱいあったんだと思いますが、頭が真っ白になっていた僕に対して責める一言も言わず、僕と一緒に悩んで、カバンを取り違えた責任まで肩代わりしてくれたのです。その時の僕の母ちゃんは・・僕をあわれんでくれたのです。

 神さまは私たちをあわれむ・・つまり、神さまは私たちの失敗にとことんつきあってくださるのです。「どうしたらいいんだぁ」と頭を抱えながら悩む私たちと一緒に悩み(聖霊がうめく→ローマ8:26)、本来関係が無いはずの失敗の責任まで代わりに背負ってくださるのです。

イエスさまは十字架にかけられて、そこで命を終えました。それはなぜだったのでしょう?うちらの失敗・・目の前の人でさえ大切にしきれない失敗・・愛せない失敗・・それを一緒に悩み・苦闘する中で、十字架にかけられ、うちらが負うはずの責任まで背負いながら十字架で亡くなった・・そのことだと思うんです。イエスさまは、失敗し続ける私たちと、いつまでも、どこまでもとことんつきあうのです・・十字架の死に至るまでつきあうのです。神さまのあわれみは、うちらができるようなあわれみとは次元が違うのです。

もうすでにそれなりにお話をしていますが、実は、今日のお話の本題はここからですと言っても大げさではありません。僕は、カバンを取り違えたことに気づいた時、すぐに母ちゃんに電話をしたわけではありません。電話をすることに躊躇した理由の一つは、母ちゃんに失敗がばれたら怒られると思っていたことだと思いますが、それだけではないと思います。もう一つの大きな理由は、単純に、失敗を認めてたくなかったことです。隠し通せるのであれば、とことん隠したかったのです。当然と言えば当然です。失敗は恥ずかしいんですから。あのときの僕は、自分だけで何とかその失敗を乗り超えたかったのです。でも、残念ながら、その失敗を一人では解決できませんでした。そこに大切な学びがあったのです。頼ってもいいんだということを知ったのです。母ちゃんが僕をあわれんで、僕の失敗と一緒につきあってくれたから「頼っていいんだ」と思えたのです。

私たちの失敗ととことんつきあう神さまは、私たちにこう言います・・「わたし(神さま)に頼りなさい」と。「全て頼りなさい」と。「一部分だけ頼るんではなくて・・いい時も、悪いときも、普通のときも、頼ってほしい・・ありのままの自分すべてで頼ってほしい」と言うのです。全てを頼っていく、それが、私たちが成すべき生き方だと言うのです。

今日、このことは特別に神さまに頼りたいと思うことはありますか?それも含めて、「全てを頼ってみないか?」と、僕にも、あなたにも、神さまは語りかけてくださっているのです。

 

 神さまは徹頭徹尾あわれみ深いお方であるから、"からだ"をささげなさい

 パウロは1節でこう言います「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。 それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」と。神さまに私たちのからだをささげる・・神さまに自分の人生をまるごと委ねていくこと・・全てにおいて神さまに頼っていくこと・・それが、私たちがなすべき礼拝だと言うのです。礼拝と聞くと、どうしてもこの主日礼拝のことが思い浮かぶかもしれませんが、一週間のたった一時間のことではないはずです。私たちがどう生きるかということです。

「からだをささげる」こと・・これをは言い換えれば「献身」のことです。「献身」と聞くと、神学校に行って、教会の働きに専念していく牧師や主事・・あるいはキリスト教福祉・教育・医療の現場の最前線で働いている人・・そんなイメージが沸くかもしれませんが、パウロさんにこのことを尋ねたとしたら、キリスト者全員が献身者であると断言するでしょう。年齢とか、資格とか、何か特別なことができるとか、全く関係ないのです。キリスト者みんなが献身者であり、礼拝をささげる主体なのです。

けれどもパウロは「神に喜ばれる・・聖なる供え物をささげなさい」と言いますので、ありのままの自分ではいけないのではないかと思うかもしれません。パウロはここで、「からだ(・・・)をささげなさい」と言っています。この「からだ」という単語は、他の箇所では「肉」と訳されることもあります。パウロの言葉を借りれば「罪の律法に仕えている肉」です(ローマ7:25)。ですので、パウロは、「何とか頑張って清く正しくなってから・・罪を乗り越えてから自分をささげなさい」と言っているのではありません。罪人であり続ける自分、失敗が無かったことにしようとする自分・・自分でさえどうしようもないと思う自分・・ありのままの自分を神さまにささげなさいと言うのです。

そもそも、この献身の勧めを語る根拠は何でしょう?1節の前半部分でこうあります「神のあわれみによってあなたがたに勧める」。神さまがとことん私たちの罪とつきあうお方であるから・・十字架に至るまで私たちの罪の結果を肩代わりされたから・・神さまが私たちをあきらめずにあわれむから・・ありのままの自分をまるごとささげ続けなさいと言うのです。十字架に至るイエスさまが私たちと一緒にいなければ、自分たちだけでは、聖になることはあり得ませんし、そういう意味で、神さまに喜ばれることもなく、滅ぶべき罪人なのです。ただただ、神さまが一方的に、私たちを「よし!」とし、宝と呼んでくださり、愛してくださり、あわれんでくださるから、「神に喜ばれる・・聖なる」者となるのです。

 

 

 本当の生きがい

 2節でパウロはこう言います「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」と。新共同訳では、この前半のところをこのように言います、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と。「この世と妥協し・・この世に倣っていく」ことは、明らかに、神さまに自分の人生を委ねていくことの正反対のこととして語られています。そうだとすると、パウロが言う「この世と妥協する」姿はどういう姿なのでしょうか?神さまに自分の人生を委ねていくことの反対ですから、自分一人で、自分の頑張りで生き抜いていく姿ではないでしょうか?「自分一人で生き抜く」こと・・独自で考えて、独自で成果を積み上げていくことは必要な人間力なのでしょう。けれども、自分一人で物事をこなしていき、自分で人生を決めていく姿勢には、一つの思いが見え隠れしているように思うのです。それは「自分一人で生きられる」というプライドです。プライドは必ずしも悪いものではないのでしょうが、プライドは傲慢さにつながりかねないのです。「自分だけがよければいい・・他人の事どころではない」という傲慢さと無関心さです。「愛の反対は無関心である」とよく言われますが、そうであるとしたら、「自分一人で生き抜く」ことは愛とは真逆の方向に行ってしまうということなのでしょう。ですから、パウロは熱く訴えるのです。「自分一人で生きなくていい。あわれみ深い神さまに委ねて・・神さまに頼って生きればいい・・ここに、誰もが必要とする愛があり、ここに本当の生きがいがあるのだから」と。

神さまに人生を委ねていく日々は、「私・・私」という主語から解かれていくことを意味します。「神さまが導く・・神さまが支える・・神さまが喜ぶ・・」神さまが主語となってくださるのです。自分第一から解かれて、神さまが第一となってくださる。「自分だけ」という考えから自由になっていくわけですから、「隣の人」のことも必然的に目に入ってくるのです。神さまが第一となってくださる人生・・それは隣人と一緒に生きていく人生・・ここに本当の生きがいがあるとパウロは言わんとしているのです。それは、まさしく、イエスさまが辿られた人生です・・「世と妥協しない」人生です・・いと小さき人々と一緒に生きていく人生です。

 

世の悲しみ・痛み・悩みに対して目が開く

 昨日は、この会堂で、4年ぶりとなる「さっぽろ教会音楽祭」が開かれました。300人以上集われたと聞いています。私自身、讃美の力を改めて味わわせていただきました。明らかに帰られる多くはスキップしながらそれぞれの家に戻っていったように思うのです。深い喜びを感じ、生きがいを感じることはなんて素晴らしいことだと思わされました。ただし・・もしもその喜びと生きがいが自分だけ・・自分たちだけに留まってしまうとしたら、それは聖書が言う喜びと生きがいではないのだろうと思うのです。必ずそれは、世の悲しみ・痛み・悩みに目を開かされる出来事となるはずなのです。

 

 

(牧師・西本詩生)

 

 


『 不安の中の平安 』   

詩編145:18~19 

ピリピ人への手紙4:~7

2023年6月1日(日)

 

 

主の平安がありますように。おはようございます。私は台湾基督長老教会の牧師、原住民―ブヌン族のディヴァン・スクルマンと申します。私は2005年9月1日日本に派遣され、日本キリスト教団北海教区で活動しています。今日は皆さんと共に礼拝をささげることができて、心から感謝いたします。私たちの礼拝の上に、神さまの祝福と平安がありますように。

 

かつて台湾の社会では、人々が出会った最初の挨拶の言葉は、「ご飯を食べましたか?」別れるとき、「気をつけてね」とか「順調に帰りますように。」という言葉を使います。なぜ、「ご飯を食べましたか?」「気をつけて」「順調に帰りますように」などの言葉を言うのは、戦争の時期、物資の不足、盗賊の横行など、その当時の台湾は、社会が不安定でした。そのため、お腹が満たされているか、健康を維持できるか、外出後は無事に帰れるかが人々の「究極の関心事」となっています。その後、日本統治時代や国民党の教育の影響を受けてから、「おはよう、こんにちは、おやすみ」「さようなら」といった挨拶が徐々に変わりました。

 

クリスチャン同士が会う時に、「平安(ピーンアン)」という言葉で挨拶をしています。「神が平安を与えてくださるように、神と私たち一人ひとりの間に、平和な関係がもたらされますように」という意味です。台湾のクリスチャンの人口数は約6%です(カトリックを含む)。

 

台湾は日本列島の南、日本・中国・フィリピンに挟まれたところに位置し、面積は日本の九州と同じぐらいの島々です。国の正式名称は「中華民国」で、首都は「台北市」です。「台湾」の語源は原住民の言葉が語源とみられます。例えば、「来訪者」とか「海に近い土地」とか「牛皮の土地」などの意味に由来すると言われています。

 

また、もともと台湾島ではいくつもの原住民の言葉が飛び交っていて、そのうちのシラヤ族はシラヤ語を話し、台湾南部の台南地域のことを「タイオワン」と呼んでいました。当時、中国の福建省から多くの漢民族が台湾島に移住してきおり、それを聞いて漢民族が「台湾」を漢字で表現した。台南を示す「台湾」という言葉が島全体を表す言葉になったとされます。ちなみに、台湾島には「フォルモサ(Formosa)」 という別称がある。現代でも欧米諸国で使われることもあり、「麗しい」という意味のポルトガル語です。16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(イーリャ・フォルモーザ=麗しい島)」と呼んだことに由来するといわれています。

 

台湾の人口数は約2326万人です。現在の台湾は多民族国家で、漢民族の他、多くの原住民族が暮らしています。原住民族の大半は、もともと台湾に暮らしていた人たちでした。現在も独自の言語と文化を保持している16の政府認定の原住民族の人口は約57万人です。1990年代以後、多くの台湾人男性が他国の女性と結婚することを選びました。結婚により台湾に移住した主に東南アジア諸国出身の女性たちは、移民の間でもう一つ重要なグループを形成しています。統計によると、2020年の新住民(新しい移民)の数は約56万人です。

 

台湾の移民社会としての特徴はその言語にも反映されています。政府に認定された16の原住民族の言語、福建語(漢民族)、客家語、北京語(中国語)、また他の国々から新しい移民が話す母国語があり、台湾は本質的多言語社会です。

 

16 世紀から、台湾は外国の力によって植民地となることを強いられ、民族、文化、社会、政治の間で対立と統合を経験してきました。しかし、神の愛によって、この島の人々は平和に暮らしています。台湾の人々は進んで人をもてなし、互いに助けあい、喜びを与えあっています。

 

今日お読みましたピリピ人の手紙4章4―7節からお話を致します。

旧約聖書のヘブライ語でいう「平安」(シャローム)とは、自分との関係、人と人、国と国、神と人との関係における「完全、健康、調和、安全、平和」を指します。 しかし、そのような「平安」を得るには、個人の努力とは別に、神の救いと祝福が不可欠です。イスラエルと神の関係から、イスラエルの民と神の間の契約関係が親密で調和しているとき、彼らの間に平和が存在することがわかります。神に従わず契約を破れば、必然的に関係の破壊につながり、「平安」は失われます。神は民に繰り返し「平安」の機会を与えましたが、罪によって神との関係が損なわれ、神殿は破壊され、民は捕虜にされ、国は滅びました。

 

新約聖書で言及される「平安」(エイレーネ)は、ギリシャ語の原義によれば「休息」を意味し、紛争の終結と平和の出現を意味します。イエス・キリストが人類にもたらした「平安」とは、神と人間との関係が回復するという意味であり、この「平安」は、緊張がなくなるとか、戦争や紛争がなくなるということではありません。平安は誰にでも、特に心から信じる人には与えられます。受け入れて真に信頼し、イエス・キリストの血で新しい契約を結ぶ人は、聖霊の実を結ぶことができます。こうして彼らの心の中に平安のしるしが生まれました。この結果は、パウロが言ったとおりです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:4-7)

 

上で述べたように、「平安」は「調和のとれた関係」であり、「関係の調和」とは、神、人間、自然の調和を意味します。 世界情勢が変化し、環境汚染があり、戦争が起きている時代に、あなたがたの心には平安がありますか?政治や法秩序の腐敗を心配している人もいるでしょうし、他の社会的、環境的、人的要因によって不安を感じている人もいるかもしれません。しかし、困難な時代にあって、ピリピ人の手紙の4章6-7節に次のような教えが含まれていることを神に感謝しましょう。そうすれば、私たちに平安と希望を与えてくれるのです。「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

 

私の出身地は台湾の中部です。南投県信義郷Loloqu村です。(Loloquはブヌン語で、意味はある豆の種類の名称です。)周りは山に囲まれていて、台湾では唯一海がない地方です。村の住民はすべてブヌン族です、そして住民は皆キリスト教を信仰しています(100%)。

 

私が卒業した神学校は台湾東部の花蓮にある玉山神学院です。毎年の7月と9月に、玉山神学院と東京にある農村伝道神学校は学生の実習交流が行います。2001年私と二人の学生、三人で日本に来ました。その時は台湾基督長老教会と日本キリスト教団の二年一回宣教協議会が北海道で開催されました。私たちも参加しました。会議の中の一つ議題は、アイヌ民族の宣教の業と台湾原住民教会の宣教協力のことです。 以前、日本の牧師がよく私たちの教会を訪問しました。その時の牧師は日本語ができました、現在日本語ができる牧師は少ないので、日本の牧師があまり来ません。それで、私は一つの考えが涌いてきました。日本語をマスターしたい、日本の牧師が私の教会を訪問したら、通訳できるからです。この事を神様にお願いました。主よ、私の歩むべき道を開いて下さい。私は宣教師の仕事を引き受けます。そして 私は今北海道にいるのです。

 

私が北海道に来て感じたことは、私の生まれ育った台湾と全然違うことです。言葉が通じない所で生活していくことは、いつも心に不安があります。しかし北海教区の牧師たちはいつも私を助けて下さいます。また、私の日本語が速く上達できるようにと、私に日本語を学習できる機会を自ら作って下さった教会員の方もいました。多くの人の助けと配慮のおかげで、私はここでの生活に適応することができて、寂しさや孤独感を感じることも少なくなりました。私はいつも私のために助けて下さる方々に感謝いたします。

 

日本に来たばかりの時は、まだ日本語ができなかったのですが、今は様々な形で奉仕することが出来るようになりました。本当に神さまに感謝いたします。私は北海教区に着任当初に、教区から、アイヌ民族のいろいろな集会に積極的に出席することと、友だちになることをアドバイスいただきました。いろいろな人と繫がりたいという希望が湧いてきました。何よりもアイヌ民族情報センターの働きの中で、アイヌ民族の歴史や現状を学べたことはとっても有益でした。ひとつひとつの出会いを通して多くのことを学ばされています。

 

 

(台湾基督長老教会牧師・日本キリスト教団北海教区宣教師、 ディヴァン・スクルマン 

 


『 よし! 』

  ローマ人への手紙5:8~9

ローマ人への手紙10:5~13

2023年6月4日(日)

 

子どもメッセージ

 教会ではよく「信仰」という言葉を聞くと思います。聖書が言う「信じること」・「信仰」ってどういうことなんでしょうね・・。

「信じる」こと・・その言葉はこのように使うこともできます。一つの例えとして言いますが、私は宇宙人がいると信じるとします。今までの人生で、宇宙人を見たことはありませんが、私は宇宙人がいると信じるとします。どうでしょう・・聖書が言う信仰と重なるのでしょうか?神さまが宇宙のどっかにいることを信じることが信仰なのでしょうか?違うように思います。目で見えない神さまがただいることを信じることは、聖書でいう信仰ではなさそうです。もう一つ例えを見てみましょう。私はドラゴンボールの孫悟空のように空を飛べる、それを信じる。残念ながら、それをいくら信じたとしても、僕は自力で空を飛べません。一回位空を飛んでみたいですけどね。物理的に不可能なことを、可能と信じること・・これも、聖書がいう「信じる」こととは違うようです。

聖書が言わんとする「神さまを信じること」・「信仰」・・それが何を指しているかを考える時、ある知り合いの体験談を僕はいつも思い出します。その人は、聖書を、違う国の言葉に言い換える・・翻訳をするお仕事をしていました。私たちが使っている聖書は最初から最後まで日本語で書かれていますが・・聖書は元々日本語で書かれたものではありません。一つ一つの言葉を丁寧に日本語に言い換える、何万時間という作業があったから、今、私たちが手に取っている聖書は日本語なのです。

私の知り合いは、ある島国で、その現地の言葉に聖書を翻訳するお仕事をしていました。もうすでに10年以上その島でのお仕事をし、そろそろ完成が見えてきた時のことでした。作業の終わりが見えてきたものの、一つ大きな問題がありました。未だに言い換えることができていない・・訳せていない言葉があったのです。しかも、その訳せない言葉は、聖書を語るには欠かせない言葉・・「信じる」という言葉でした。10年以上考えて、探し続けたけど、ぴったり当てはまる言葉が見つからなかったのです。

そんな最中、その人は、島の長老さんの家に招待されました。その島では、普段は、背もたれがない椅子やベンチに座ることがほとんどでしたが、その長老さんの家には、背もたれがついている、存在感を醸し出す大きな椅子がありました。長老のために特別に作られた椅子であったそうです。そして、聖書の翻訳のお仕事をしていた彼はその椅子に座るように、長老から勧められたのです。ただし、その時に使われた「座る」という言葉が、背もたれがない椅子に「座る」時に使われる言葉とは違う「座る」が使われたのです。何で今回だけ、いつもとは違う「座る」という言葉を使ったのか・・それを聞いてみたら、同じ「座る」であっても意味が全然違うということが分かったのです。背もたれがついている長老の椅子に「座る」ということは、頭のてっぺんから、足の指先まで、身体の全部の体重をその椅子に預ける・・そういう意味の言葉だと分かったのです。背もたれが無い椅子に座る時の「座る」は、「お尻を置く」という意味が込められた言葉であったのです。全体重を椅子に預けるという「座る」・・この言葉の意味を知り、聖書を訳していた彼は、嬉しくてたまりませんでした。10年以上、「信じること」「信仰」をどう訳していいのかが分からず、悩んでいたところ「これだ!」と思ったのです。神さまに全体重を預けること・・身も心も委ねていくこと・・これが聖書で言う信じることだと確信したのです。ですので、今でも、その島で使われている聖書では、全体重を椅子に預けるという意味の「座る」という言葉を、神さまを信じることとして使われているのです。

神さまを信じることって、神さまに身も心も・・ぜーんぶ預けていくこと・・そうであるとしたら、信じるっていうのは歯を食いしばってがんばることではないんでしょうね。だって、椅子に座るのってそんながんばらないもんね。肩に力を入れずにいられるっていうこと・・素でいられるっていうこと・・それでもって、神さまの支えを感じ、押し出されて生かされていく・・それってとても良い知らせなんじゃないかなぁ。

最初のお話・・宇宙人と空を飛べる話に戻ると・・それらを信じることで、友情などの関係は生まれません。でも、神さまを信じるっていうことは、神さまに必要とされ、神さまを必要とする・・期待され、期待する・・神さまと一緒に生きる友情以上の関係・・愛情が築かれていくんです。そこに、一番ふさわしい人生があると聖書は言うのです。

 

義(健全な関係)も救いもただただ神さまの御業

なぜこのように「信じること」についてお話をしているかというと、パウロは「神さまを信じる」ことで「神さまによし(義)とされる」ことについて、ローマ書の最初から、一貫したテーマとしてずっと語ってきているからです。パウロは、イエスさまがキリストである・・あの十字架のイエスさまが救い主であると信じる前は、律法の一つも欠けることなく守りぬくことで、神さまによしとされると思い込んでいました。言い換えれば、神さまによしとされるために必死にがんばっていたのです。神さまからの「いいぞ!いいぞ!あなたとわたし・・いい関係にあるね!」という神さまからの喜びの言葉をいただくために、熱心にがんばっていたのです。でも、いくらがんばっても、いくら律法を守りぬいても「神さまによしとされる」ことを実感できなかったのか・・過去のパウロは行き詰まりを感じていたのです(ローマ3:20、ピリピ3:6~7参照)。でも、そのようなパウロはイエスさまと出会い、実は、神さまからの義はもうすでに与えられていて、それを信じて・・その真実に心も身も委ねて生きていけばいいんだと分かったのです。義を獲得するためにがんばるのではなく、神さまの「よし!」に押し出されていけばいいだけのことだと知ったのです。

今日のローマ書10章は、パウロから見れば、イスラエルの同胞たちが、イエスさまを拒み続けていることを嘆いている箇所の一部分です。今日は読み上げませんでしたが、1節でこのようにパウロは言います「(イスラエルの同胞)のために神(さま)にささげる祈りは、彼ら(彼女たち)が救われることである」。そして3節ではこのように言います、「(同胞たちは神さまからの義ではなく)自分の義を立てようとしている」と。パウロさんのため息が聞こえてこないでしょうか?「はあぁぁ・・なんてもったいないことをしているんだ」と、自分の過去を顧みながら嘆いているのです。

6節・7節では、パウロはこのように言います、「『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」パウロがここで何を伝えようとしているか・・幾つもの層があると言えるでしょう。でもその根っこのところは、救いというものは、私たち人間が成しうることではなく、ただただ、神さまの御業であるということです。だから、「あの人(私)が天に行くんだ」とか、「あの人(私)は地獄行きだ」と私たちが言っても無駄だと言うのです。むしろ、そんなことをしたら、救いをもたらしたイエスさまの十字架と復活を無価値にしてしまう・・救いは神さまからのプレゼントであると言っているのです。

さらに8節でパウロはこう言います、「(神さまの)言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」と。ここでのパウロの説明は、旧約聖書の申命記(30章14節)を引用していますが、パウロは大事な言葉・・「あなた(人)は(神さまの言葉を)行うことができる」という申命記の言葉を意図的に取り除いています。神さまの救いの言葉は、私たちの行いで獲得するものではなく、ただただ、神さまが与えてくださることを強調しているのです。

ちなみに、ここで言われている、私たちの身近にある神さまの言葉とは何でしょう?9節を見ると、イエスさまが主であること、そして、十字架につけられた主イエスがよみがえらされたこととの関連であることが分かります。さらに11節に進めば「(万事は)失望に終わらない」ことの結びつきであると言えるでしょう。私たちの最も近くにある神さまの言葉・・それを一言に凝縮することはなかなかできないのでしょうが、ローマ書の全体の流れを観れば、それは、十字架と復活を通して与えられた義・・神さまからの「よし!」という最高の肯定の言葉であると言えるのではないでしょうか。「よし!」・・このみ言葉がもっとも近くにあり、私たちの口と心にあるとパウロは言うのです。

 

「よし!」に押し出されて

 神さまが与えてくださる絶対的な肯定・・「よし!」・・このことを考える時に、千葉ロッテマリーンズの指導官であったバレンタイン監督にまつわるエピソードをいつも思い浮かべます。バレンタイン監督は野球界で活躍する人として知られていますが、熱心なクリスチャンとしても知られています。ファイターズファンが多いここで、ライバルチームの監督のことを語るのを躊躇しますが、心温まるお話だと思いますので、しばし聞いてください。

バレンタインは、プロ野球チームの監督を本業としていましたが、あるテレビ番組の企画で、少年野球チームを任されることになりました。任されたチームは誰が見ても “強くないチーム”でした。しかも、たった一週間の準備の期間を経て、全国大会にも出たことがある強豪チームと、二回も、試合をすることとなっていました。バレンタインは、野球の技術面を、分かりやすく子どもたちに指導しました。しかし、彼の指導力の見せ場は、子どもたちが自分の可能性を強く信じることができるように引き出す能力であると・・そのテレビ番組は、そのような角度で彼の指導術に注目しました。バレンタインは少年たちと関わる中で、「失敗を恐れるな」と繰り返し語りました。三振しようが、捕球に失敗しようが、そこに向けられた努力とチャレンジ精神を大切にしたのです。バレンタインはこのように言いました。「人は経験を通して学んでいく。たとえ失敗をしてもその経験は宝物。その経験を誰かが教えることはできない。だから勇気を持った子どもたちのプレーには心からの拍手を送ろう。たとえそれが失敗であっても送ろう。」。また、少年たちの親にこのように問いかけました。「子どもたちはなぜ失敗を恐れると思いますか?・・それは、子どもがあなた(親)をがっかりさせたくないからです。・・お父さん。お母さん。子どもはあなたを愛しているんです。だから勇気ある失敗をほめてください。『がっかりしていないよ・・失望なんかしていないよ・・むしろたくさんの勇気をもらっている』・・そんなメッセージを送ってください。」。その後の強豪チームとの試合はどうなったのか・・最初の試合は、予想通り、ぼろ負け。相手が強すぎたのです。しかしバレンタインは子どもたちを集めて励ましました、「失敗を恐れるな。目に見えてうまくなっている。」。二試合目は、なんと最終回に相手チームに追いつき、七対七で引き分けました。泣きじゃくる子どもたちを抱きしめながらバレンタインは語りました、「君たちの勇気を忘れないよ。」。

バレンタイン監督は子どもたちと接するとき、子どもたちが何かをできたからよしとしたのではありません。すでに、愛され、よしとされている子どもたちとして指導したのです。私たちは、今日も、神さまの「よし!」を一方的に受けています。失敗と失望の中にあったとしても、神さまの絶対的な肯定の中にすでに置かれているのです。イエスさまの十字架と復活のゆえにです。これって救いではないでしょうか?神さまの「よし!」に身も心も委ねていこう・・信じていこうと思わされないでしょうか?こんなにいい知らせを口にせずにいられない・・伝えたくなることだと思うのです。

パウロが10節で「人は心に(神さまの言葉を)信じて義とされ、口で告白して救われる」と言っていますが、ただ救いの条件を語っているのでしょうか?神さまの一方的な「よし!」と出会ったときには、神さまを信じて、委ねていく志が絶対生まれる・・このことを伝えていくしかないでしょと言わんとしているんだと思わされるのです。

 この後すぐに、主の晩餐式が執り行われます。私の罪のゆえに、十字架で割かれた身体、流された血潮に思いを馳せつつ、それを通してあらわされる神さまからの「よし!」を味わって噛みしめましょう。救いがここにあるのですから!

(牧師・西本詩生)