『 うめきの中に 』

  ローマ人への手紙8:11

ローマ人への手紙8:12~30

2023年5月28日(日)

 

子どもメッセージ

 みんなはワンちゃん(犬)と暮らしたことはありますか?僕は、20代の時、ヨサクくんという13歳のワンちゃんを友人から引き受けることになりました。結局、それから2年間ヨサクくんと一緒に暮らしました。ヨサクくんは普段から暴れるワンちゃんではありませんでしたが、時折“いたずら”をすることがありました。ワンちゃんですので、家をちらかすことはある程度当然なのでしょうが・・他の人の物までに手(足?)を出してしまうこともあったので・・さすがにそういう時は悩みました。ヨサクくんの“いたずら”で何度謝ったことか・・。そのような“いたずら”を知った時には、ヨサクくんを叱りました。そして必ず、ヨサクくんは「あぁ・・やばい!ばれてしまった」というあせりの表情と同時に「やってしまった!」という反省している表情を見せました。その時の動画を撮影していれば、みんなにお見せできるんですが、残念ながら撮影しませんでした。でも、インターネットを探していたら、僕と同じように、ワンちゃんの“いたずら”を叱っている動画がありましたので、それを観たいと思います。

 

【お父さんのベッドには寝ないことの約束を破って、それを叱られて、目を泳がしつつも、しっぽをフリフリするワンちゃんの動画】

 

ワンちゃんの“いたずら”は叱らなくてはいけないものの、どこか憎めないんですよね。

 ここまではワンちゃんのお話をしましたが、僕らも「やってしまった」という時があるんじゃないかなぁ。さっきの動画では、お父さんとの約束を破ってしまったために、ワンちゃんは叱られていました。私たちも約束を破ったり・・それを果たせないことがあると思います。本当は相手を大事にしたいのに・・ついつい相手をがっかりさせてしまうことがあるなぁと僕は思うのです。そういう意味では、僕はヨサクくんや、先ほどの動画のワンちゃんとさほど変わりない・・同じだなぁと思うのです。皆さんはどうでしょう。

 動画のお父さんとワンちゃんとのやり取りでは、お父さんはクスクス笑いながら叱っていましたが・・時には、私たちがしてしまう事は、笑い事ではなく、相手が本当にいやだと思う事・・繰り返さないでほしい悲しくなる事があると思います。自分がしてしまったことのために、相手との関係が今までのような良い関係にはなかなか戻れないことがあるんです。そういう時・・もしそのことを真剣に受け止めるのであれば、自分のことを嘆いて・・「こんなはずじゃないのに」と思うのかもしれません。そういう事をしてしまう自分の姿から卒業したい・・抜け出したいと思うこと・・ないでしょうか?動画のワンちゃんや僕と一緒に暮らしてくれたヨサクくんも、「またしてしまったぁ・・どうにかならないだろうか」という葛藤を抱いていたようにも思います。

このように、自分のこと・・自分がしてしまったことを嘆いている時、神さまはどうなさっているんでしょうか?「ああぁ、またやらかしてるなぁ・・放っておけ、放っておけ」とつぶやきながら、半分あきらめて、遠くから見つめているのでしょうか?または、僕がヨサクくんにしたように、ただ叱ってがっかりしているのでしょうか?あるいは怒りまくって、雷を落とす準備をしているのでしょうか?そうではないんです。自分がやってしまったことで、悩んで嘆く私たちと神さまは共におられるんです。私たちを放っておけないんです。とことん付き合ってくださり、一緒に嘆いてくださる・・それだけ、神さまは私たちを大事に思って、愛してくださっているんです。叱るのでもなく、一緒にその悩みを背負ってくださるんです(22、26節)。そう思うと、僕も、ヨサクくんをただ叱るだけでなく、葛藤するヨサクくんと付き合えばよかったなぁと思わされるのです。「ヨサク・・またやってしまったなぁ・・僕もそういうのばっかりだよ・・悩むよなぁ・・どうすればいいんだろう」とヨサクくんと一緒に居ればよかったなぁ・・今さらながら後悔します。

神さまがなさることは共に悩んで嘆くことですが、それだけではありません。「こんなはずではない・・こんな私はどうしようもない」と悩んでいる私たちを新しい姿へと導いてくださっているのです。その新しい姿とはどんな姿なのでしょう?今日の聖書でこのようなことが言われています「私たちをイエスさまに似たようにする」と(29節)。イエスさまに似るとはどういうことでしょう?外見のことではないはずです。イエスさまのように、神さまに頼って、神さまに祈って、人々と共に喜び、共に悲しむ・・今日いただいた命を隣の人・・隣のワンちゃんと喜び合う・・助け合って神さまの愛をどっぷり受けながら生きていく・・そんな姿なんじゃないかなぁ。飽きることがない日々なんだろうと思うのです。魅力的だと思うのは僕だけでしょうか?

イエスさまに似るようになる・・そのきっかけは、事をやらかしてしまう自分を悩み、嘆き、葛藤することなのです。不思議だと思いませんか?普通で言えば、悩んで、嘆いて、葛藤することは避けたいことです。けれども、そのことを通して得られる本当の輝き・・イエスさまのような姿があると聖書は言うのです。そうだとすれば、自分のことをしっかり悩んで、葛藤して、嘆くことはなくてはならない、とても大事なことなのです。そして、それは独りですることではありません。神さまが私たち以上に悩んで、嘆いて、共に苦しんでいるのです。

 

罪のゆえにうめく

 先日の祈祷会では、8章の前半部分からみ言葉を分かち合いましたが、何人かが罪との葛藤について語っていました。まさにその葛藤が、18節以降で出てくる「苦しみ」や「うめき」という表現に表されていることです。子どもメッセージでは「悩むこと、葛藤すること、嘆くこと」という言葉を使いましたが、ここで言われている苦しみとは、一般的な苦しみというよりは、罪のゆえの悩み・・罪のゆえの苦しみなのです。罪に悩まされることから生まれる「こんなはずではない」といううめきなのです。

 

聖霊はうめき、とりなし、助け、導く

 僕自身のことで言いますが、あまり躊躇せずに「罪」という言葉を使っていると思います。けれども、一般的には、「罪」という言葉は犯罪行為との結びつきが強く、説明が必要な考えだと思います。聖書が言わんとしている「罪」はどういう事なのでしょう?「罪」という言葉を文字通り訳せば「的外れ」という意味です。弓を放つ時の「的外れ」です。神さまと私たちとの関係において、本来狙うべきところに届いていない事。人と人との関係・・自然世界と私たちとの関係・・一つ一つの関係において、神さまが意図している的から外れてしまっていること・・通じ合っていないこと・・それは聖書に言わせれば「罪」の状態なのです。私たちはいろんなことに悩まされることがあると思いますが、人との関係がうまくいかないから悩まされることが多いのではないでしょうか。聖書に言わせれば、それも「罪」が絡んでいるのです。それだけではありません・・加速する環境破壊のことで言えば、これからの世代が生きづらくなる地を残していくことは、「的外れ」なことであると言わざるを得ないのでしょうか?そして、全ての「罪」の根っこにあるのは、神さまとの関係が崩れてしまっていること・・私たちが神さまから離れてしまうことだと聖書は言うのです。環境破壊までが視野に入る罪の問題ですので、この問題は想像を絶するほどの膨大なものであると言わざるを得ません。そうなのですが、その膨大な罪の問題を、神さまが放置しているのではなく、その真っただ中に臨み、うめいておられると言うのです。子どもメッセージでも言いましたが、神さまは、罪に陥ってしまっている私たちをあきらめているのではありません。うめきつつ、イエスさまに似た姿に導いてくださっているのです。

26節ではこのようにあります「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいか分からないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださる・・」と。悲惨なことに直面する時、あたかも息が突然できなくなるように、言葉を失うことがあると思います。そういう時に、このみ言葉に励ましを受け、慰められた方は少なくないのではないでしょうか。祈りの言葉すら出てこない私たちを、聖霊が助けて下さるのです。ここで使われている「助け」という単語も味わい深いみ言葉です。ギリシャ語では、三つの言葉が合成された言葉なのです・・「共に」「代わって」「引き取る」・・イエスさまの霊が共にうめき、イエスさまが私たちに代わって罪を引き取り・・それゆえに、イエスさまの姿に似ていく・・そんなメッセージが「助け」という単語に凝縮されているのです。

 

「慣れたくないんです」

 先日の祈祷会である方が、罪を悩まなくなってしまうことはないだろうか・・という問いかけを投げかけてくださいました。これは、まさに今日のみ言葉が私たちに問いかけていることではないでしょうか?イエスさまに似るようになるきっかけは、罪を悩み、嘆き、それゆえにうめくことなのです。

 罪に対して鈍くなってしまうこと・・そのことをハッとさせられた忘れられない出来事がありました。子どもメッセージで犬のヨサクくんのことを取り上げましたが、それは、私が、青年海外協力隊員として、アフリカのマラウイと言う国に住んでいた時のことです。私が住んでいた町の病院で栄養士として働いていた、同じ青年海外協力隊員・・Jさんという友人がいました。ある日、Jさんとバスを乗っていた時、私たちの近くに座っていたお母さんが心配な表情をしながら赤ちゃんを抱えていました。明らかにその赤ちゃんはぐったりしていました。Jさんはそのことにすぐに気づき、そのお母さんにたずねると、病院に向かっていることが分かり、Jさんは、そのお二人と病院に付き添うことになりました。それから一週間が経ち、Jさんと食事をすることになり、あのバスの中で出会ったお母さんと赤ちゃんのことを尋ねました。私が住んでいた国の病院は、病院と言っても十分な医療を受けられるところではありません。病院に連れてかられても、命が助かることはまれだと、現地の同僚たちから教えられていました。Jさんは・・少しためらいながら、あのバスで出会った赤ちゃんは翌朝亡くなったことを小さな声で言っていました。私は、そのことを聞いて、本当に無神経なことを彼女に問いかけました。「病院で患者さんが亡くなっていくことは慣れることなんですか」と。Jさんの答えは、一生忘れられない答えです・・「慣れるかどうか・・ぅぅん・・慣れたくないんです。あの赤ちゃん・・Mちゃんが亡くなってから、毎晩泣いています」と答えてきたのです。

 「慣れたくない」というJさんの答えを受けて、私は頭が殴られたような気がしました。十分な医療を受けられない状況・・その不条理な状況は、罪にまみれたこの世界ではしょうがないこととして私は受け入れてしまっていたのです。あのバスで出会った赤ちゃん・・Mちゃんは他の国で生まれていたら、おそらく助かったことでしょう。国や地域によっては、十分な医療を受けられないことは、誰かの罪であると断言はできないのかもしれませんが・・少なくとも、聖書が言わんとする罪とは無関係ではないと思わされるのです。的外れなことです。Jさんはクリスチャンではありませんが、彼女の生きざまから、信仰の根本を教えられました。慣れてはいけないものがあるんだということです。罪は悲しんで痛んでうめかなくてはいけないことだと。神さまの霊は、罪になれることはなく、うめき続けるのです。

 

教会の本質

 今日は聖霊降臨・・教会の誕生日と言われる、ペンテコステを覚えての礼拝です。教会はキリストの教会となるのは、聖霊が働いてくださるからそうなるのです。聖霊がその息吹を吹き込んでくださらなければ、教会はただの人の集まりになってしまいます。

今日のみ言葉を読む限り、私たちが罪を嘆き、うめくところで、聖霊が働いてくださるのです。もっと言えば、教会の本質は、罪と葛藤し、悩み、苦しみ続けることだと言えるのではないでしょうか。そこから、イエスさまに御姿に導かれていくのです。私たちは独りでうめくのではありません。神さまが私たち以上に悩んで、嘆いて、共に苦しんでおられるのです。

 

(牧師・西本詩生) 


『 なんでやねん、神様 』   

コヘレトの言葉11:6 

マルコによる福音書15:33~41

2023年5月21日(日)

 

 おはようございます。

2021年7月の終わり、外を歩いているときに、わたしは目の前が真っ暗になり、息ができなくなりました。

救急車で搬送され、近くの病院で検査を受けましたが、異常は何にも見つかりません。それもそのはずです。息ができなくなった理由は、いわゆるパニック発作だったからです。

 

心療内科を受診し、抗不安薬、安定剤、睡眠導入剤などの薬を処方され、治療が始まりました。診断名は不安障害でした。

わけのわからないしんどさ、重たさが体にまとわりつき、何もする気が起きない毎日が続きました。

 

マスクをつけて外を歩いている時に発作を起こしたせいで、マスクをつけるのが怖くなり、外に出かけることができなくなりました。人と電話で話をしようとするだけで、息ができなくなるので、誰とも話したくも会いたくもなくなりました。ご飯もあまり食べることができなくなっていきます。気力も体力もどんどん落ちていきました。正直、恐怖でした。

 

そもそも不安障害って、どんな病気かご存じですか?

 

わたしたち人間は誰にでも「不安」があります。本来、自分自身に危ないですよ、気をつけなさいよという信号を出すための機能のひとつ、これが「不安」なんです。この信号が出ることで、わたしたちは危機に備えたり、危険を回避することができます。

だから、不安を感じることはとても大切です。不安は生きるために必要な機能なのです。

ところが、ストレスなどの原因から不安の信号が過剰に出過ぎることで、危険や危機でないものにまで不安や恐怖を感じて、日常生活に支障が出てしまうことがあります。正常に出ていれば問題ない信号が誤作動してしまう。それが不安障害です。

 

今思い返せば、パニックを発作を起こす数か月前から前兆があったのです。新型コロナウイルス感染症の影響からの仕事増え、体にも相当なストレスがかかっていました。集中力が下がり、イライラすることが増えました。急に胸が苦しくなることがありました。毎日のように、夜寝ようとすると動悸が起きました。あの頃、石橋大輔牧師が「小西さん、忙しすぎるやろ。本当に大丈夫?」とよく声をかけてくださっていました。

自分の体からのサインや他人の言葉を聞いていたようで聞いていなかったのです。

 

不安障害やその前兆について、今、わたしはこうやって冷静に説明することができます。

 

ところが、あの頃のわたしは頭や体のあちこちが痺れや痛み、発熱など様々な症状が体に出ていることに「それは不安障害の一つの症状ですよと」と医師から説明されても納得がいきませんでした。

だから、「いや、他に原因があるはずだ」「実は大きな病気や難病にかかっているのかもしれない」と考え、次々と色んな病院を受診し、あらゆる検査をしました。もちろん、体に異常は見つかりません。

脳神経外科は短期間に3回受診しました。3回目、お医者さんは笑いながらこう言いました。

「小西さん、次は倒れて動けなくなってからおいで。」

 

今だから、笑い話にすることができますが、この状況を何とかして抜け出したいと必死にもがいていました。そんな状態が一年近く続きました。

 

どんなにもがいても改善しない、というより、もがけばもがくほど深みにはまっていき、回復とは逆の方向に向かっているような感覚でした。

 

体重も落ちに落ちて、7 月末に 56 キロあった体重が 12 月には 41 キロ台まで減っていました。

精神科に4か月間入院し、半年ほどは車イスで生活をしました。最終的には、筋力の弱りから一歩も歩けなくなり、ほぼ寝たきり状態となってしまったのです。地獄へ行ったことはありませんが、体を思うように動かせない日々はわたしにとって地獄のような日々でした。

 

毎日、心の奥から次々に沸いてくる不安に押しつぶれそうになり、時には大声をあげ、壁や床をたたき、何時間も泣き続けました。

悔しくて、辛くて、泣きながら何度も何度も叫びました。

「なんでやねん、神様。なんでおれがこんな目に合わなあかんねん。神さま、いるなら、このしんどい状況から助けてくれよ。頼むから助けてくれ」

 

わたしが辛くてうずくまっている時に、わたしの傍でもっと辛い思いをしていたのは妻だと気づかされました。と言えれば、とても綺麗な話ですよね。現実はそんなに綺麗なものではありません。いつも隣にいてくれる妻にさえ、「この苦しみがわかるわけなやろ」と言葉を投げつけていたのです。

苦しんで、泣き叫ぶわたしに神様は一言も答えてくれませんでした。

人が絶望のどん底にいて、助けてほしいと声をあげているのに、神様は黙ったままで、何も答えてくれない。神様って冷たいですね。何にもしてくれないのです。

 

イエスは十字架にかけられた時、大声でこう叫んだと言います。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」

 

イエスは十字架の上で、絶望と悔しさの中で「神よなぜだ、どうしてわたしがこんな目に合わなければならないのだ。なぜわたしを見捨てるのか」と叫んで死んでいきました。

救い主、神の子と呼ばれたイエスの最後にしては、あまりにも弱くて惨めな状況でした。イエスは、自分がおかれたその状況を受け入れることはできなかったのです。

 

わたし自身、命の危険を感じるほどに体力も気力も失われていったその時に、弱くて惨めな自分の状況を受け入れることはできませんでした。受け入れることができたのは、自分の体が回復し始めてからです。

 

自分の状況を最後まで受け止めることができなかったイエスを神は復活させ

 

た、甦らせたとのだと聖書には記されています。

復活、甦ると聞くと、わたしたちは何を想像しますか。

「病気から復活しました」と聞くと、元気になる、強くなるといったイメージを持ちませんか?

 

新約聖書にたくさんの文書を残したパウロは、直接イエスに会ったことはありませんが、まるで復活したイエスに出会ったかのような体験をしたと言います。その体験を通して、ユダヤ教徒からキリスト教徒になります。

ところが、パウロが出会ったイエスは、強さとはほど遠い、弱くて惨めな「十字架につけられたままのキリスト」だった言います。

言い換えれば、弱く惨めでしかない十字架のイエスを神は肯定したのです。

 

わたしたちは生きていれば痛みや悲しみや苦しみといった弱さに必ず出会う。というよりは、一人の人間は限りある命を与えられた弱く惨めな存在そのものなのです。だから、あの十字架のイエスが肯定されたことは、この世界を生かされているわたしたち一人一人も肯定されているとの証なのです。

 

だからこそ、十字架にかけられたイエスを見て、ローマの百人隊長はこう言ったのです。

「本当に、この人は神の子だった。」

弱くてみじめな姿で十字架にかけられたイエスの姿の中にこそ、神の姿を見たのです。

 

わたしは不安障害になって、あらためて気づかされたことがあります。

それは「わたしは誰かに祈られ、支えられている存在」だということです。たとえ、祈る言葉が実際に聞こえなくても、支えてくれている姿が見えなかったとしても、確かにわたしは誰かに祈られ、支えられているのです。

 

「あなたにどこまでも従います」と言い切っていたイエスの弟子たちは、イエスが十字架にかけられた時にほぼみんな逃げました。けれども、逃げずにイエスが十字架にかけられる姿を見守っていた人々がいました。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ、そしてイエスと共に来た多くの女性たちでした。この女性たちは実際には何もできないけれども、絶望するイエスのために祈り、支え続けたのです。

 

わたしは全く歩けなくなった時に、なんとか回復したいと願い、3ヶ月間、週 2回のリハビリを受けました。マンションの2階に住んでいるのですが、エレベーターはありません。自力で下まで降りることができないので、わたしの友人たちにお願いして、家から車まで僕を担いで行ってもらうことにしました。西本詩生牧師もわたしを担いでくださいました。石橋大輔牧師はわたしが一番絶望していた時期に、自宅まで来て、祈ってくださり、抱きしめてくださいました。いつも電話で話を聞いてくださいました。

他にも自宅を訪ねてくださる方々、手紙や電話をくださった方々、見えないところで静かに祈り続けてくださった方々がいました。

回復してきたわたしの姿を見て、涙を流してくれる方々、抱きしめてくれる方々がいました。

そして、わたしの隣で妻が歩み続けてくれました。

 

わたしが苦しみの中で「なんでやねん、神様!」と叫んでいた時、イエスが十字架の上で「神よ、なぜ、見捨てたのか?」と叫んでいた時、確かに神は黙ったままでした。けれども、ただ黙っていたわけではないのです。神はあの時、確かに、共に苦しみ、共に痛み、共に涙していたのです。

 

苦しみ、涙し、絶望しているただ中で「いつまで泣いているんだ、もっと頑張れ、強くなれ」と言われたらどうでしょうか。

苦しみ、涙し、絶望している時に、その苦しみと絶望にそっと寄り添い、弱さや惨めさを抱えたわたし自身の存在を肯定し、涙を流してくれたらどうでしょうか。

きっと、それでも生きていこうと思えるはずです。

 

「弱くても惨めでも、わたしたち一人一人の存在そのものが神によって肯定されているのだ。あなたは生きていてよいのだ」。その言葉をこの地域や社会に向けて語り、携えて出かけていくことこそがわたしたちの、そして教会の使命です。

共に出かけていきましょう。

 

(元日本キリスト教団北海教区幹事、牧師 小西陽祐)

 


『 集まって留まることからじゃなくて、

出かけて行くことから教会は始まった 』   

使徒行伝1:6~8 

使徒行伝2:1~4

2023年5月14日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

  今日は、誕生日をお祝いする礼拝です。誰の誕生日かというと、この札幌バプテスト教会の誕生日です。今週の水曜日、5月17日で、なんと70才になります!毎週、外の掲示板と、教会のホームページに、地域の人たちに向けたショートメッセージを書いて貼り出しているんだけど、今週はこんなことを書いてみました。

 この教会は、5月17日で創立70周年を迎えます。70年と言えば、人間では「古希」としてお祝いされる年月ですね。「古希」というのは唐の詩人・杜甫が詠んだ詩「人生七十古来稀なり」に由来していて、「古来より70才まで生きる人は希(まれ)だ」ということだそうです。現代では70才まで生きる方は決して希ではなくなったかもしれませんが、それでも決して短くはないその年月、この地で歩んでくることができたのは、地域の皆さんのご理解とお励ましがあってこそと、心から感謝申し上げます。

 70年って、長いよねえ。今日は、礼拝の後、久しぶりにみんなでお昼ご飯を食べる時をもつことになっています。コロナになってから3年間も、みんなでご飯を食べることができずに過ごしてきたので、とっても楽しみです。メニューは、有志の皆さんが心を込めて作ってくれたカレーです。18才以下のこどもたちは無料で食べさせてくれるそうなので、ぜひ一緒にご飯を食べましょう。そして、そのお昼ごはんの後には、教会員のSさんが、70年前のこの教会のことについて、たくさんの写真を見せながら教えてくれることになっています。70年前のこの教会ってどんなだったんだろうね。どんな風にこの教会はできていったんだろうね。ぜひ一緒に楽しみに聞けたらいいなと思っています。

 さて、掲示板に貼っているショートメッセージに、こんなことを続けて書きました。

 ちなみに、キリスト教会自体の誕生は、約2000年前にさかのぼります。十字架刑で殺され、その後復活させられたイエスさまこそが救い主であると信じた人たちを通して教会は形づくられていきました。でも、それはひとつの教会に集められた人たちがそこに留まり大きくされたというのではなく、そこから出かけていった人たち…いや、追い出された人たちによって、あちこちに教会が形づくられていったということだったのでした。

 みんな、知ってましたか?実は、イエスさまが生きていた時には、教会はありませんでした。イエスさまが殺されて、復活させられて、天に挙げられて、みんなに見えなくなったその後に、教会がスタートしていったんです。今まで一緒に過ごしてきたイエスさまの姿が見えなくなってしまったので、イエスさまの弟子たちはとっても不安な気持ちになりました。しかも、復活されたと言っても、その前にイエスさまは、みんなに十字架に磔にされて殺されたんです。みんなが「イエスを十字架にかけろ!」と叫んでいるところから、弟子たちは逃げ出してしまったんです。そして、そんな心配な気持ちは、今もまだなくなったわけではありませんでした。いつみんなが「あいつらはイエスの弟子だ!」と捕まえに来るかわかりません。それでも、復活されたイエスさまに「あなたたちはエルサレムに留まっていなさい」と言われたので、仕方なく、弟子たちはひとつの部屋にみんなで閉じこもって、必死に祈っていたそうです。何を祈っていたんだろうね。「どうかわたしたちを守ってください」。「イエスさまみたいに十字架で殺されることがありませんように」。そんな風に祈っていたのかもしれません。

 すると、ある日、いつものようにみんなで集まっているところに、突然、天からとんでもない音が轟いて、火のような舌が、弟子たちの頭の上にとどまったんだそうです。それは、聖霊って呼ばれる、イエスさまの霊でした。聖霊がくだると、不思議なことが起こりました。弟子たちが、それぞれ、色んな国の言葉で話し始めたんだそうです。大きな音を聞いて「なんだ?なんだ?」と集まってきた人たちが、その様子を見て驚きました。その人たちは、弟子たちと同じユダヤ人だったんだけど、自分たちの国で生まれ育ったのではなくて、色んな国で生まれ育ったユダヤ人たちでした。つまり、弟子たちにとっては、その時しゃべっていた言葉は、知りもしない言葉だったんだけど、その集まってきたユダヤ人たちにとっては、自分たちが生まれ育った国の慣れ親しんだ言葉だったんです。「この国で生まれ育ったはずのあの人たちが、なんでわたしの生まれた国の言葉で、神さまのことを話しているんだろう?」と、みんな不思議に思ったということです。でも、そのおかげで、それまでには仲間に加わらなかった多くの人たちに、神さまの言葉が伝わり、たくさんの人たちが仲間に加わったんです。ただ、それから間もなく、教会に迫害が起こった時、そのエルサレムの教会から逃げ出さなくちゃならくなったのは、この後から加わった多くの外国育ちのユダヤ人たちでした。せっかくたくさんの仲間が加わり、できたばかりの教会が大きくなったのに、そこに加わった人たちは、ある意味で追い出されるような形で、その教会から出て行くことになってしまったんです。でも、そうやってエルサレムから逃げていった人たちが、逃げて行きながら、色んなところでイエスさまのことを伝え、いろんなところに教会ができていきました。「良い!」と思えることがあったと思えば、「残念だ」と感じることがあり・・・、なんだか心が忙しい感じがするけど、でも、そんな風にして、最初の教会が生まれていったんです。たった一つの教会にたくさんの人が集められて、ただ大きな教会が生まれたというんじゃなくて・・・、そこから出かけていった人たちによって、いろんなところに、いろんな形の教会が生まれていった・・・、それが教会の始まりだったんです。だから、ぼくは外の掲示板に貼ったショートメッセージの最後に、こんな風に書きました。

 ですから、この教会も「留まる」のでなく「出かけていく」ことを大事にしていきたいと願うのです。

 

◆ ペンテコステはいくつもの教会の誕生日

 今年は5月の第四日曜日、再来週の日曜日がペンテコステ(聖霊降臨日)に当たります。先ほど、子どもメッセージでお話した、弟子たちが集まっていたところに、突然天から大きな音がして、火のような舌が弟子たちの頭の上に留まったという出来事が、ペンテコステです。そして、このペンテコステこそが「教会の誕生日」と呼ばれます。ただ、確かにペンテコステは「教会の誕生日」と呼ばれるにふさわしい日であるとは思いますが、そこで誕生した教会として、ひとつの教会だけをイメージするのは違っていると思うんです。確かに最初にできたのは、イエスさまの弟子たちをはじめ、イスラエル出身のユダヤ人たちを中心としたエルサレム教会でした。でも、ペンテコステからしばらくすると、この教会は大迫害を受けることになり、“ディアスポラ”と呼ばれた外国出身のユダヤ人たちは、そこから逃げざるを得なくなっていくのです。でも、彼らがそこから散らされていったおかげで、彼らを通して、エルサレムだけでなく、多くの場所で、多くの人たちがキリストの福音に触れ、教会が誕生していくことになっていきました。「教会の誕生日」という時に、最初にできたエルサレム教会だけを想定すると、そこに“多くの人が集められる”ということで教会が生まれたというイメージを受けます。でも、その集められたところから、間もなく散らされていった人々によって誕生していった数々の教会のことをも想定すれば、むしろ、教会の誕生とは、そこから“出かけていく”、“開かれていく”ということでなされていったのだというイメージに変わってくるわけです。実は、使徒行伝において、イエスさまはこのペンテコステの直前に、このように弟子たちに言い残されていました。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(1:18)。この言葉を直接聞いたのは、イエスさまの弟子たちでした。でも、実際にエルサレムから出かけていくことになったのは、その弟子たちではなく、ペンテコステによって後から加えられた人々でした。つまり、イエスさまは、この時すでに、後から加えられることになる彼らをも含めて、「あなたがたは・・・」と語りかけ、彼らに向けてもこの「地のはてまで、わたしの証人となるであろう」という言葉を語っておられたということです。いや、彼らの存在があったからこそ、このイエスさまの言葉は実現していくことになっていったのです。

 

◆ ここから遣わされ出かけていく

 教会の50周年誌『光のうちに』に、当時の執事会がまとめた文章が掲載されており、その文章はこんな言葉で閉じられています。

 私たち教会員にとって隣人とは誰か、イエスの示された愛に倣う教会とは、について今一度、深く祈り求めて行きたいと思います。この考え方の延長線上に、教会の組織のあり方、執事体制の新しい姿を模索し、その検討作業の上に、主の御霊の導きがありますように祈っています。主にあって神に仕え、み言葉に聞き従い、主の御業を担う新しい教会の姿が示されるように、共に祈っていきたいと思います。

 この言葉が記念誌に掲載されたから、20年の月日が経ちました。現在、教会の中期テーマとして「神われらと共にいます」というテーマを掲げています。そして、その中期テーマに、三期に亘ってサブテーマを付して掲げてきました。

 コロナ禍になってから一年半が経過した2021年12月からの第一期は「ほんと?見捨てられてない?」というサブテーマを付しました。コロナになって、教会に集まることができなくなったことで、わたしたちが抱えた痛みや苦しみを、まずはみんなで受け止めることで、それでも、そこにこそ神さまが伴ってくださるのだということを、みんなで覚えました。

 それから約半年後の2022年7月からの第二期は「神さまが共にいてくれる“われら”って誰?」というサブテーマでした。20年前に問われた問いと、まさに同じように、苦しみ、痛む“われら”に伴ってくださるという神さまは、いったいどんな“われら”に伴ってくださっておられるのかと問われつつ、さまざまな痛みや苦しみを抱えた人々との出会いに開かれて過ごそうとしてきました。

 そして、この4月から第三期として「神さまが共にいることを確認していこう」というサブテーマを掲げて歩んでいます。コロナ禍になってから、教会に集まることができるということが、決して“当たり前”のことではないことを知らされ、集まることのできる恵みを改めて覚えました。しかし同時に、神さまの起こされる御業は、決してこの教会の建物の中の限られた空間に留まっているのではないし、ここに集まることのできる限られた人間関係の中でしか確認できないようなことではない。世界の、社会の至るところで、神さまが働き、わたしたちに伴ってくださっているのだということを、わたしたちは大切に覚えようとしています。

 20年前に「私たち教会員にとって隣人とは誰か」と問われた問いを、私たちは今一度問われながら、その“隣人”と共なる“われら”として、神さまが共におられることを噛みしめながら過ごしていこうとしているのです。そのために、私たちは集められて、ここにただただ留まろうとするのではなく、集められたここから、また遣わされ、出かけて行くのです。今日もまた、この礼拝から、それぞれの生活の場へと、神さまによって遣わされてまいりましょう。

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 わたしたちのがんばりとは別に

        与えられた神さまの恵み・・

それを信じて生きる 』

  エペソ人への手紙2:8~10

ローマ人への手紙5:1~11

2023年5月7日(日)

 

子どもメッセージ

 みんなはこのようなボルトとナットで何かを作ったことはありますか?僕は、家具を組み立てるときに使います。ボルトとナットの役割は何でしょう?二つのものを固定して、くっつけるために使うものです。例えば、この二つの木の板をくっつけるとします。両方の板にボルトが通れるように穴をあけ、まずボルトを通して、そしてナットで固定します。ねじを回し切ってギュッと締めれば、二つの板は離れることはありません。

さて、ボルトの太さが大きすぎるとどうなるのでしょう?穴にも入りませんし、ナットにもはまりません。反対にボルトが細すぎるとどうなるのでしょう?穴とナットにはまりますが、ゆるゆるです・・固定はできません。言うまでもなく、二つの板はくっつくことはありません。ボルトとナット・・お互いにちょうど合わないと、くっつきません。

 わたしたちの教会の表玄関を出て、左上を見ると、大きな十字架がかかっています。鉄で出来た十字架ですので、おそらく人の体重よりも何倍も重いものです。もし、壁に完全にくっついていなく、外れて落ちてきたら、大惨事になり兼ねないことになります。でも、幸い、丈夫なボルトとナットが幾つも使われているために、重い十字架はがっしりと壁にくっついています。

 ちょっと余談になってしまいますが・・この教会建物が建ってから15年が経ち・・十字架を固定しているボルトとナットが錆びていたので、先日、その錆びがそれ以上広がらないように・・ボルトとナットがちゃんと機能するように、業者さんに錆止めのペンキを塗ってもらいました。この作業をしたことで、壁と十字架にピッタシ合ったボルトとナットが、何十年も機能し続けることができると思います。

 ここまでのお話は、「ボルトとナット」についてお話しました。でもそれは、一つのたとえとして紹介しています。というのも、聖書には、私たちが神さまと絆を築いていくこと・・あたかも、ボルトとナットのように・・神さまと一緒にくっついて生きていくことが物語の中で繰り返されます。神さまにくっついて生きていくところに、私たちに一番ふさわしい人生があると聖書は言います。けれども・・みんなそれぞれ、違う形や、大きさを持っていると思います・・だって皆それぞれ個性を持っていますから。人によっては、ネジネジしているところに亀裂が入っていたり、錆ついていたり、なかなか回らなくなっているかもしれません。けれども、神さまはすごいんです。どんな形であろうと・・どんな小ささ・大きさであろうと・・傷が入っていようとも、錆ついていようとも、全て神さまにピッタシはまるんです。ちょうど合うように、神さまが合わせてくださるんです。神さまは私たちをそのままで愛してくださると聖書は言います。今日の聖書はこう言います「神の愛がわたしたちの心に注がれている」と(5節)。背伸びしてあの形・・あの大きさ・・あの小ささになる必要がないのです。この私が、私のままで神さまに愛され、ピッタシはまっている・・このことを受け入れればいいだけのことです。

 今日の聖書でこのようなことも言われています、「わたしたちは神さまの恵みに既にたっている」(2節)。神さまが用意してくださっている人生・・それにピッタリはまる私たちなのです。その人生とは、自分が夢見てきた・・願うようなものではないかもしれない。行きつきたいところへの遠回りとしか思えないことも多いのでしょう。でも、神さまはちゃんと、一番ふさわしい人生を用意してくださっている・・神さまが一人ひとりとピッタリついているから。それを信じて生きてみないか?・・と聖書は繰り返し問いかけてくださるのです。

 

平和を得る

 宗教改革者として知られている、マルチン・ルターは、ローマ人への手紙を読み進める中で、当時の教会制度を指摘する確信をこのローマ書で得たと言われています。当時の教会は“荒廃(こうはい)”している姿であったと言わざるを得ません。財政難を抱えていたということもあり、罪の赦しのしるしとして、免罪符を金銭で販売していたのです。ざっくり言えば・・「教会が公認するこれ(免罪符)を買えば、あなたは救われますよ」とい制度が普及していました。この制度自体、「人の行いによる救い」の象徴だと言えるでしょう。けれども、マルチン・ルターは聖書を読む中で、「いやいやいや・・救いは信仰によってのみ神さまから与えられる」という確信に至ったのです。今日の聖書箇所の1節にある通りです「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」。

 今読み上げた後半部分では、神さまに対する平和・・それを既に獲得しているとパウロは断言しています。どうでしょう?皆さんは神さまに対する平和を得ているでしょうか。この2・3年を振り返れば、コロナもあり、忙しさとストレスが増し、紛争は絶えず・・悩み・不安・心の乱れ・・それらを起こす要素を数えようとすれば、いくらでもあり、今もそれは続いていると思います。「神さまに対する平和を得ている?」と聞かれても・・首をかしげる人の方が多いのかもしれません。実は、500年前のルターの時代も、「心は乱れに乱れ、不安が消えず・・平和が確信できない」と悩んでいたキリスト者が多かったようです。なぜなら、ルターがお客さんを交えた食卓で交わした会話の中で一番取り上げられた聖書箇所が今日の1節の後半部分であることが記録されているからです。つまり、平和を求めても、なかなか感じ取れない私たちにとって、「神に対して平和を得ている」と聞くと、つっかかってしまう・・そのような悩み事を、腹を割ってしゃべれる食卓の会話の中で取り上げていたのです。

 この手紙を書かれたパウロはどうだったのでしょう?3節に進むと「艱難」について述べています。パウロが過ごしている日々の中で、悩みの種となるような大きな問題が生じていなければ、あえてそれらの出来事を、かなり強い言葉である「艱難」とは呼ばなかったでしょう。使徒行伝を読むと、パウロは数えきれないほどの境遇を通らされた人でした。パウロ自身も心の乱れと失望を幾度も経験した人でした(例:一コリント2:3)。それでは、パウロがここで言っている「既に獲得している神さまとの平和」・・それは何を指すのでしょう?そもそも、ここで言う平和とは、争いが無いことだけを意味するものではありません。ヘブライ語で言うシャロームです。神さまとの関係が健全な状態が保たれている事を指します。10節、11節では「神さまとの和解」という考えで言い表されています。それは、私たちの心の乱れ・・不安と恐れ・・それらよりももっともっと深いところにあるものです。神さまご自身が与えた平和です。そして、それは、2節、10節、11節で強調されているように・・「わたしたちの主イエス・キリストによって」なされたこと・・イエスさまの十字架でなされたことだと言うのです。

 イエスさまの十字架で何がなされたのでしょうか?私たちの主イエスは、十字架にかけられ、みじめな姿とされ、私たちの罪・あふれ出る涙・止まらない震え・心に埋められないような穴を感じる虚しさ・深い痛みをすべて自分のものとしたのです。罪にまみれた世界の只中に自ら臨み、皆のために十字架で亡くなられたのがイエスさまでした。イエスさまの十字架のゆえに、私たちは罪人のまま、神さまに受け入れられるようになったのです。子どもメッセージで語ったように、どんな傷を負っていても、自分でも悩んでいるどんな弱さをかかえていても、神さまご自身が、私たち一人ひとりを受け入れているのです。既に、私たちは神さまにとらえられているのです。これが、パウロが言わんとしている神さまに対する平和と和解なのです。

 ある牧師が、「神さまに受け入れられ、とらえられていること」をこのように言い表しました。「誤解されるかもしれませんが、これはある種の余裕だと思います。神さまにとらえられているから余裕をもって生きられるのです」と。これを語った牧師は、病を繰り返し、仕事面でも挫折を何度か経験し、波乱万丈な人生を送った人でしたので、決して軽い言葉ではないと思います。私たちが直面する不安と恐れよりも、もっともっと深いところに添えられている余裕のことを語ったのです。

 

「わたしたち」が指すもの

 ローマ人への手紙を最初から読み進めていくと、5章に入ると一つの変化に気づくと思います。「わたしたち」という言葉の頻度が一気に頻繁になるのです。今日は1~11節から読んでいますが、この短い箇所だけでも「わたしたち」という言葉が12回も出てくるのです(ギリシャ語の原文では17回)。1~4章では、異邦人やユダヤ人も皆罪に陥っていること、アブラハムの信仰のことなどに触れ、ここに来て、一機に自分たちのこととしてパウロは語り始めるのです。でもこの「わたしたち」という言葉には、秘められた意味合いがあると言えると思います。

 聖書に出てくる「わたしたち」という言葉の味わい深さを、私自身が気づかされた時がありました。以前の説教で、私が20代の時に、犯罪事件に巻き込まれたことを取り上げました。命は助かったものの、しばらく心の傷を引きずっていました。そして、毎週の礼拝で祈る主の祈りが祈れないでいたのです。この部分です「我らに罪を犯す者を/我らがゆるすごとく/我らの罪をもゆるしたまえ」。あの犯罪グループの人たちに関して、ゆるしなど考えることすらできなかったのです。けれども、数か月が経ったときに気づいたのは、主の祈りの主語が全て「我ら」であるということです。「私」一人がゆるすのではなく、「私たち」がゆるす・・そういう祈りなのです。

 どういうことに気づかされたかというと、同じような痛みを抱えている大勢の人もおられるだろうということです。自分だけが痛みを負っているのではないということです。同じように主の祈りのこの部分につっかかってしまう人もおられる。その人たちと一緒に祈ろうとしているんだ、という気づきでした。そして、それを祈ろうとしている我らと、十字架で赦しを祈られたイエスさまも、一緒に祈っているということです。これを知って、心の重荷が少し軽くされたような気がしたのです。

 3~4節にこのように語られています「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」もしも、このような箇所を「艱難を喜ばなくてはいけない・・希望を抱かなくてはいけない」と読むのであれば、それはとても苦しいことになり兼ねません。私自身、どこか心の中で、頑張ってゆるさなくてはいけないと思って葛藤していました。でも、私の場合、その苦しさを変化させたのは、一緒に葛藤している人たちがおられること・・そしてイエスさまがそこにおられるという気づきでした。そして、もう一つは、自分の弱さを受け入れることでした。自分の中にはゆるしがないんだと認めることです。もしもゆるしが生じるとしたら、それは上からのプレゼントだとしか言いようがないのです。がんばりようがないこと・・「わたしたち」の祈りとして祈り求めていくしかないものです。神さまが与えてくださると信じることです。今日の箇所で出てくる義・平和・恵み・希望・愛(アガペー)・和解・・これらはすべて神さまからのプレゼントです・・「わたしたち」が祈り求め、与えられることを信じるものなのです。

 

希望と恵みを祈り求める「わたしたち」でありたい

 私たちの教会にはいろんな苦難・悲しさ・しんどさを通らされてきた人たちが集まっています。そういう意味で、忍耐を知る人、練達を知る人、そしてそこから生じる希望を知っている人たちが集まっていると言えるでしょう。今日から聖書を学び合う会がはじまりました。その交わりでも、同じような苦難を知っている人同士で、神さまの希望と恵みを祈り求める「わたしたち」が生まれることでしょう。そのように用いられる教会・・「わたしたち」でありたいと思わされるのです。

 

(牧師・西本詩生)