『 自分は“どうしようもない”と思っている?

メシアの食卓にいらっしゃい! 』

  ルカによる福音書12:6~7

ルカによる福音書15:1~10

2023年2月26日(日)

 

子どもメッセージ

 今日は「99匹と1匹の羊のお話」・・イエスさまがお話しになったたとえ話です。

ある人が100匹の羊をもっていました。でもその100匹の内の1匹が見当たりません。おそらく、迷子になっちゃったのです。イエスさまはここで私たちに問いかけます。「残りの99匹を野原に残して、その見失った1匹を探しに行くよね?見つかるまで、探すよね?見つかったら、めちゃくちゃ喜んで、羊さんを担いで一緒に家に帰るよね?家に戻ったら、友達や近所にも『一緒に喜ぼう』と言うよね?」・・これが、イエスさまがお話になったたとえ話です。

 イエスさまはこのたとえ話をして、神さまのことをお話になりました。つまり、100匹の羊をもっている人が、神さまです。そして、羊さんたちは私たちのことです。特に、この迷子になっちゃった1匹が僕のことだったら?・・あなたのことだったら?・・そのようにこのお話を聴くとどんなことが聴こえてくるだろうか?

神さまは、迷子になっちゃった1匹が絶対見つかるまで、諦めずに探し出す!そして、見つかったら、いろんな人を巻き込んで喜んじゃう!「やったー!見つかったぞう!」と。

 一人になることは、必ずしも怖いわけではありません。でも迷子になって一人になることって、とても怖いんじゃないかなぁ?「どうしよう・・どうしよう」となるんじゃないかなぁ?でも、神さまは、絶対見つかるまで探してくださる。迷子のままにしとかない・・絶対に。そんなお話をイエスさまがなさったのです。

 

「99匹と1匹の羊のお話」を羊飼いと一緒に読んで、染み出てくる喜び

 この「99匹と1匹の羊のお話」を、実際、羊を飼っている友人と一緒に読んだことがあります。その人が教えてくれたことも紹介しながら、もう一度、じっくりこのお話を見ていきたいと思います。

 イエスさまはあえて100匹という数字を選んだと言えるでしょう。たとえば、5匹の内の1匹を見失ったお話であったら、どう聴こえるでしょうか?1匹を失うことで、群れから取れるミルクや毛糸などが、量としても、割合としてもグンと減っちゃいます。羊飼いは家族を養わなくてはいけません。よっぽどなことがない限り、何としてでも1匹を探しに行くと思います。でもイエスさまはあえて、100匹とお話になりました。なかなかの群れの大きさです。100匹の内の1匹を見失うとなると、リアルな羊飼いは、探しに行くかどうか少し迷うだろうと僕の友人は言っていました。100匹もいれば、その群れの中には赤ちゃんをお腹に抱えている羊もいるだろうし、1か月、2か月が経てば、もう何匹かの羊が生まれてくることを、羊飼いは知っています。1匹、1匹が単にミルクや毛糸などを習得できる“財産”や“家畜”ではなく・・この世界でたった1匹のかけがえのない羊であるから・・かけがえのない私たち一人ひとりであるから、見つかるまで、諦めずに探してくださるのです。何かげできる/出来ないという生産性が基準でもなく・・性格がいい/悪いでもなく・・年齢でもないのです。ただただ、一方的に神さまの眼には高価で尊いから、見つかるまで探し出すのです。

 そもそも羊はどういう動物なのでしょう。私たち人間と同じように、羊もそれぞれ性格が違うと聞いていますが、一貫して、群れることを好む動物だそうです。何か特別な理由がない限り・・例えば、病気やケガをしていることがない限り、自分の意思で群れから離れることはめったにないと聞いています。羊は群れと一緒にいることで安心を保てます。ですので、1匹の見失われた羊は、自分の意思で離れたのではなく、何かしらの問題が起きたからいないことを神さまは知っています。ただでさえ、羊は群れから離れるとストレスを感じる動物ですので、病気やケガをするとなると、極度の不安に陥ってしまうのです。1匹の羊が抱えているであろう不安や痛み・・これらのことを、羊飼いである神さまは、内臓がえぐられるような思いで想像したに違いありません。

 羊飼いは、見失われていない99匹を野原に残して、1匹を探しに行きます。私たちは、この99匹のことが気になるのではないでしょうか。「残された羊たちは可哀想じゃないか」と思うかもしれません。けれども、羊たちは群れることで強さを得ます。小羊たちなどを守るように囲み、オオカミなどの肉食動物が襲ってくることがあろうとも、群れとして防御できるのです。もちろん、羊飼いの守りがあったほうがいいのですが、無防備ではありません。けれども、見失われた1匹の羊はどうでしょう。弱り果てて完全に無防備なのです。

助けを最も必要としている羊を追い求めて、神さまは出かけて行きます。「羊の命が危ない・・一刻も早く探せねば」という切羽詰まった焦りを抱きながら出かけて行きます。日中ならまだしも、夜であったらどうなるでしょう。懐中電灯があるわけでもなく、暗闇の中、茂みにあちこちをひっかけ、かすり傷を負いながら、足を踏みはずす覚悟で、1匹の羊・・見失われたあなたと私を追い求めていくのです。

やっとの思いで羊は見つかります。こういう場合、よっぽどなケガや病気をしていない限り、羊は立ったままでいるはずだと聞いています。なぜなら・・茂みから何かが出てこないか、ビクビクしながら、些細な音に反応しながら、いつでも逃げられるようにしているからです。ガチガチに力んだ羊に向かって、羊飼いは優しく呼びかけたのでしょう。名前を呼び「もう大丈夫だよ・・辛かったなぁ・・しんどかったろう・・でも、私がいるからもう大丈夫・・見失ってごめんなぁ・・」と。

羊はもう力を使いつくして、自分の足ではもう歩けません。羊飼いは羊を肩に乗せ、担ぎます。羊の身体と接触することで、羊の状態が直で伝わってきます。「息があらく、まばらだ・・ひどく痛んでるなぁ・・間に合ってよかった」・・「熱を出している・・家に戻ったらちゃんと見てあげるから、もうちょっとの辛抱だ」・・そんな思いを抱きながら、また逆に、羊飼いの愛情と、見つかった事の深い喜びが羊の全身に伝わったのでしょう。嬉しい、喜びの話だと思いませんか?そりぁ、近所の人にも「一緒に喜ぼう」と声をかけたくなると思います。

 

涙を流し、笑い、喜ぶ「罪人」の食卓と、全く話が刺さらないファリサイ派

 ここまでは、「100匹の羊のたとえ話」に注目してきましたが、この次に、同じような内容のたとえ話として10枚の銀貨の内の1枚がなくされ、必死に探し出されるたとえ話に移っていきます。失われた大事なもの・・失われた大事な一人ひとりが、神さまによって探し出されるというお話です。

そして、これらのたとえ話が語られたのはどういう時と場所だったのでしょうか。イエスさまは「罪人」と呼ばれていた人たちを迎えて、食卓を囲んでいた時のことです。食卓を囲むということは「あなたと私は仲間ですよ」ということを意味しました。当時の宗教的権威を持っていたファリサイ派に、「どうしようもない罪人たち」・・「やっかいな罪人たち」とみなされていた人たちと、あえてイエスさまは仲間になっていたのです。その食卓では普段から「100匹の羊のたとえ話」のようなお話が分かち合われ、聴く人は涙を流すと同時に、笑い、喜んでいたのでしょう。なぜなら、そこに集った一人ひとりは、自分は見失われている存在であることを思わされる状況に置かれていたからです。「罪人」と呼ばれ、まともな人として接せられることはなく、それぞれ癒えない傷を負っていたのでしょう。でも、イエスさまは暖かく、大事な人格を持った一人ひとりとして迎えてくださったのです。

あまりにも楽しい様子なので、ファリサイ派の人たちは気になってしょうがなかったのかもしれません。嫉妬もあったかもしれません。わざわざその食卓のところに行き、みんなのマチガイを指摘しようとしたのです。ファリサイ人からの指摘の反論として、イエスさまは、今日読んでいるたとえ話を語りました。残念ながら、イエスさまのお話は、ファリサイ派には全く刺さらない、理解されない話でありました。自分たちはまっとうで、正しいと思い込んでしまっていたからだと言えるでしょう。

 

証し:私は見失われた羊であり、ファリサイ派である

 僕は今日のみ言葉を受けながら、他人事ではないなぁぁと深く思わされました。私自身が、見失われた羊であり、同時に、自分はまっとうだと思い込んでしまうファリサイ派であることに気づかされるのです。そのことを思わされる証しを紹介したいと思います。

私はこのように牧師になろうと献身した前はサラリーマンでした。社会人四年目の時に、実績もついてきた時のことですが、リーマンショックが起きました。そして、その直後に私がいた部署がほぼ閉ざされることになり、失業をしてしまいました。“きれい”な形の失業というものはそもそもないのかもしれませんが、私の場合はわかだまりが残る形での失業でした。会社の同僚たちとの関係が歪んだままで去ることになったのです。私も傷をつきましたが、同僚たちにも傷をつけてしまいました。世の中にもまれ、ボロボロになった私は、気づいたら教会に通っていました。失業をした私は“どうしようもない”んだと思い込んでいました・・生産性を第一にする価値観にそう思わされていたと言ったほうが正しいかもしれません。そして、同僚たちとの歪んだ関係を思えば、文字通りどうしようもないない私でした。でもその“どうしようもない”私を見つけ出し、そのままで受け入れてくださる神さまの愛と赦しに気づかされたのです。神さまと一緒に生きようとする、悔い改めの道筋をこの出来事を通して知らされたのです。そういう意味で、私は今日の見失われた羊の物語に心を打たれるのです。

それから、何年か経ち、元気を取り戻した時のことです。私は失業したことをきっかけに、ほぼ毎週教会に通っていました。その時に通っていた教会には、苦手な人がいました。一か月に一回位の頻度で教会に来られるある先輩青年でした。年齢的にも信仰的にも先輩でした。彼は酔っぱらって教会に来ることもあり、集会にはほぼ間に合わず、人の改善点ばっかりを指摘する人でした。私から見れば彼は“どうしようもない”人でした。ある日、彼はこのように問いかけてきました、「他の教会に通おうと考えているんだけど・・どう思う?」と。その時、私がどう返したかははっきりとは覚えていませんが、結果的にもめ合いになってしまいました。私が彼を教会から追い出そうとしていると彼は感じたのです。そして、その時に彼は目をウルウルしながらこう訴えてきました「教会は病んでいる人のためにあるんだ!お前はそれを知らないのか?」と。彼の目を見つめると、深い求めと飢えが見えてきました。明らかに、イエスさまの救いを求めていたのです。後々知ったことですが、彼は休職を繰り返し、辛い所を通らされていたのです。

この出来事を通して、私は頭が殴られたような気がしました。“どうしようもない”私を受け入れてくださる神さまの愛を知り、私ははじめて自分の意思で教会に通うようになりました。でも、私は、“どうしようもない”と写る彼を・・彼の救いの願いを遮ろうしたのです。自分はまっとうだと思っていたのでしょう・・自分はこんなに忠実に神さまに仕えているのにと思い込んでいたのです。今日の聖書で言うファリサイ派そのものです。私こそ“どうしようもない”のでは?・・そんなことを問われた場面でした。

 

自分は“どうしようもない”と思っている?メシアの食卓にいらっしゃい!

“自分はどうしようもない”と思っている・・思わされている人を、神さまはそのままで受け入れます。イエスさまの十字架という高価な代価のゆえにそのままで受け入れられるのです。そして、「一緒に生きてみないか」とイエスさまは招いてくださいます。この招きに応えていく悔い改めの道に、天使までが喜ぶ歩みがあるのです。そう考えると、自分が“どうしようもない”という自覚はいつも必要なのではないでしょうか。この自覚があれば、何度でもメシアの食卓に招かれます。涙を流し、笑いと喜びがあふれ出るメシアの食卓です。

 

(牧師・西本詩生)

 


『 天には宝を持って行けないなら、

そもそも天に宝を積んじゃいましょう 』   

ルカによる福音書12:33~34 

ルカによる福音書12:13~21

2023年2月19日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

『人にはどれだけの土地がいるのか』(原作・トルストイ)

 ある村に、パホームという名の農夫がいました。パホームもパホームの奥さんも働きもので、畑で麦や野菜を育てていました。ある日、町で暮らしている、奥さんのお姉さんが訪ねて来ました。そして、「よくもまあ、こんな暮らしをしていることねえ」と言うのです。「町では、お金を出せば、なんだって自分のものになるのよ」と・・・。でも二人は、お姉さんに、畑仕事がどんなに楽しいかを話しました。すると、お姉さんは「でも、いくらえらそうなことを言っても、その畑だって、自分の土地じゃないじゃない」と、パホームが一番気にしていることを言って帰っていきました。「そうなんだよなあ、自分の土地だったら、もっとやりがいがあるのに。自分の土地さえあれば、悪魔だって怖くない」とつぶやいたパホームのつぶやきを、悪魔が聞いていたなんて、パホームは知りませんでした。パホームの願いは、思いがけないほどすぐに叶いました。畑の地主が土地を売りに出したので、借りていた土地の倍の広さの土地を買うことにしたのです。苦労してお金を集めて、2年間で払うことができました。自分の土地を手に入れたパホームは、うれしくてたまりませんでした。寝る時間も惜しんで、働いて、働いて、また働きました。ところが、困ったことも起こりました。まわりの農夫たちが、「こんなに広くなったんだから、少しくらいいいだろう」と勝手に自分たちの牛や馬を入れてくるようになったのです。怒ったパホームは、土地の周りに囲いを作り、それでも牛や馬を入れてこようとする人たちのことは力づくで追い出しました。パホームは広い土地を持つようになりましたが、彼の心は前よりもずっとせまくなってしまいました。

 その後、パホームのもとには、たくさんの「うまい話」が舞い込んできて、パホームの土地はどんどん広くなっていきました。そして、彼の暮らしも、前よりずっとずっと豊かになりました。そして、またたく間に3年が過ぎました。不思議なことに、広い土地も、慣れてくると、なんだか物足りなくなってきました。「もっと広い土地があったら、今よりずっといい暮らしができるのになあ・・・」。そんなとき、遠くから来た商人が、耳寄りな話を教えてくれました。バシキールというところに行けば、もっと安い値段で10倍の土地が手に入るというのです。パホームは7日間馬車をとばして、バシキールに向かいました。すると、バシキールの人々は本当に「どうぞうどうぞ、お好きなだけ土地をお取りください」と言うのです。「後々もめごとになるといけないので、取り決めをしましょう」と提案すると、バシキールの村長は、「あんたが一日かけて歩き回った土地を、ひと月分の賃金で売るということで、どうじゃ」と返しました。パホームは、もちろん喜んで承諾しました。翌朝まだ暗い内に、パホームは村長たちをせかして、広い土地を見渡せる丘の上に来ました。見たことのないような美しい大地が、目の前に広がっていました。「では、ここから出かけて、ここに帰って来てくだされ。日が沈むまでに一回りしてきた土地が、あなたのものになるでのう。ただ、日が沈まないうちに戻ってこないと、すべてが無駄になるがね」。村長は目じるしとして、キツネの皮の帽子を置きました。パホームは元気に出発しました。「歩けば歩くほど、自分の土地が増えるなんて、こんな楽しみなことはないぞ」。途中で立ち止まっては、スコップで穴を掘り、そこに草を積み重ねてしるしにしました。それからまた歩いてしるしを作り、それを何度も繰り返しているうちに、日がのぼって、気温がどんどん高くなりました。「あつい、あつい、これはたまらん」と上着を脱ぎ、靴も脱ぎましたが、まだ横に曲がるには早いとばかりに、欲張ってどんどん歩きました。ふと振り返ると、スタートした丘がずいぶん遠くに見えたので、ようやく左に曲がりました。ただ、さすがに疲れたので、木陰を見つけて、大急ぎで水を飲み、パンを食べましたが、またすぐに歩き出しました。「ふう、だいぶ歩いたな・・・そろそろまた左に曲がるか」と思ったのですが、先の方によく作物が育ちそうな、いい土地が見えました。「あそこを取らない手はない!」と、曲がるのを止め、またまっすぐ進んで行きました。そのうち、気温がぐんぐん高くなり、疲れがずっしり肩にのしかかってきました。「このあたりでやめておこう」。パホームは、やっと左に曲がりましたが、もう汗びっしょりで、足は太い丸太のようでした。日もだいぶ傾いてきていました。「これはいかん・・・このままでは日が沈むまでに戻れなくなる・・・」。大きな四角を描くように歩こうと思っていましたが、そこからまっすぐ戻ることにしました。ところが、あせればあせるほど、足が思うようには動いてくれません。「ああ、ちょっと欲張りすぎたかもしれないぞ。間に合わなかったら、どうしよう・・・」。のどはカラカラ、息も荒くなり、足がもつれて、何度も転びました。でも、泥だらけで顔を上げると、丘の上で村長たちが「いそげ、いそげ!」と手を振っていました。「パホームは、残っている力を振り絞って、駆け出しました。心臓が飛び出すくらいに走って、ようやっと丘の上に帰ってきました。太陽がまだ少しだけ西の空に残っていました。「やった、やったぞ・・・!」でも、村長は腹を抱えて笑っています。実は、村長も、これまで土地の話をもちかけてきた商人や地主たちもみんな、パホームを誘惑するために姿を変えた悪魔だったのです。

 力尽きたパホームは、キツネの皮の帽子をしっかりと握ったまま、その場に倒れ込みました。召使いの男が駆け寄って、パホームを抱き起しましたが、もう息はありませんでした。召使いの男は、主人のためにスコップできっかり2メートルの墓穴を掘り、そこに主人の死体を埋めました。そして、小さくこうつぶやいたのです。「人は、最後にこれだけの土地があればいいんだな・・・」。

 

◆ 何の脈絡もない話をぶっこんできたKYな男の発言を受け止めて

 今日の聖書箇所の直前で、イエスさまは、パリサイ人や律法学者たちのことをとても厳しい口調で糾弾し、彼らの偽善を批判していました。その批判があまりに激しいので、「確かにイエスさまは何か罪を犯したから処刑されたわけではなかったけど、権力者たちの怒りを買って殺されたのも、わからなくはないな」と感じてしまいます。それほどに、イエスさまは、権力に対しては、迎合することなく、激しく反発されたということです。さて、そのやり取りでざわついていたからでしょう、そこにたくさんの群衆が集まってきました。すると、その中の一人が、突然こんなことを言ったんです。「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」って。「なんのこっちゃ、なんでいきなりそんなプライベートな話題をぶっこんできた??」って、みんなポカーンとしちゃったんじゃないかと思います。でも、きっとこの人は、どうにかそのことをイエスさまに言いたくて・・・、お願いしたくて・・・、その群衆の中で、機会を待っていたんでしょうね。イエスさまは、彼に向かって、「お前さん、だれがこのわたしを、お前さんたちの裁き人や遺産の分配役にしたというのかね?」とツッコミを入れつつも、そんな何の脈絡もないような彼の発言をちゃんと受け止め、それまでのやり取りの中で、大事に語ろうとされてきたことを、改めて群衆に向かってお話になったのです。

 

◆ 目の前の問題が自分の思い通りに解決することに執着してしまう欲求

 その冒頭で、イエスさまが言われたのは「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」という言葉でした。この“貪欲”という言葉は、ギリシヤ語では“プレオネクシア”という言葉が使われており、「更に」という言葉と、「持つ」という言葉が組み合わされて作られた言葉なんだそうですが、この言葉には、もともとこんなニュアンスの意味が含まれているそうです。「心が一つの問題にとらわれ、その問題が自分のイメージ通りに解決するまでは満足できず、『自分ほど不幸な者はない・・・』と思い続ける執念のような欲求」と。つまり、ただの物欲というよりは、目の前の問題に執着し過ぎて、周りのことが見えなくなってしまっている状態だということです。そうなってしまうと、どんなに神さまが恵みを与えてくださっていようとも・・・、どんなに御業を表してくださっていようとも・・・、その恵みや御業に思いは向かず、ただただ自分が気になっているその問題が解決しないことを嘆き、ため息をつくしかないわけです。もしかしたら、その恵みや御業の中に、自分の抱えている問題の解決の糸口は既に示されているかもしれないのに、自分のイメージするたったひとつの解決法しか認めずに、ただそのように状況が変わることを待ち続けることで、自分自身がすり減ってしまうわけです。でも、それって、よくわかる気がします。「もっとたくさんお金があれば、これもできるのに・・・」とか、「もっとみんなが手伝ってくれれば、こんなこともできるのに・・・」とか、「せっかくこんないいことをやってるんだから、もっとみんなが認めてくれたらいいのに・・・」と求め続けながら、相手や状況が思うように変わらないことに、モヤモヤしたり、ため息をついたり過ごす・・・、そんなの、ぼくにとってはむしろ日常のようなことです。だから、そんなぼくには、イエスさまがその後、話されたたとえ話が、とても響いてきます。

 

◆ 天には何も持って行けないけど、天に宝を積む方法はある

 ある金持ちの畑が、豊作でした。“ある農家”の畑ではなく、“ある金持ち”の畑です。もともとたくさん持っていた人の畑が、なお豊作で、またたくさんの収穫を得たわけです。ところが、その時、この金持ちは「どうしよう・・・」と悩んだそうです。何を悩んだかというと、「こんなにたくさんの作物を、しまっておける場所がない・・・」と。この金持ち、どんな顔していたと思いますか?そして、考えた挙句、「今の倉をこわしちゃって、もっと大きいのを建て、そこに穀物、食糧を全部しまい込もう」と言うんです。まあ、そうでしょうよ。そんなに考え込まずとも、そうするでしょうよ。まあ、とにかく、この男は、憎たらしいほどホクホクだったわけですよ。そして、言うんです。「さあ、これから先、何年も生きて行くための蓄えができたぞ!食べて、飲んで、楽しむぞ!」すると、神さまが言われました。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」と。神さまは、「だれのものになるのか?」と問われました。振り返ってみれば、確かにこの金持ち、「わたしの」、「わたしの」と言い続けているんです。「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの穀物」「わたしの食糧」、「わたしの魂」・・・と。つまり、彼にとっては、すべてが「わたしの物」だったということです。神さまから与えられた物などなく、すべてが「わたしの物」。先ほどの「貪欲」という言葉もそうですが、「わたしに不都合な問題」が「わたしの思い通りに解決する」のを待つという、どこまでも「わたし」中心で・・・、「わたし」のことしか考えていない状態です。でも、「もし命を失えば、その“わたしの物”だったすべての物の所有は、どうなってしまうのか?」、「どんなにすごい財産を得ても、命を失えば、無駄ではないか」と問われるのです。日本にも、「命あっての物種」という、ことわざがある通りです。ただ、イエスさまが本当に伝えようとされたのは、その先のことだったのだと思います。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」ということです。そして、今日の箇所より少し進んだ先では、こうも言っておられます。「自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」と。つまり、天国に持って行ける物は何もないけれど、生きている間にも、天に宝を積む方法はあるんだよってことです。それは、「自分の持ち物を売って、施しなさい」ということでした。自分のことだけを考え、自分の貯えを増やすことだけに生きる生き方とは、まったく違った生き方へと招かれたということです。

 

◆ 必要な物は神さまが備えてくださるから、与えられた恵みは分かち合って・・・

 コロナ禍になってから、日本キリスト教会の札幌豊平教会が行ってこられた“とよひら食堂”の活動に加わらせてもらうようになり、毎週金曜日に“お弁当分かち合い”の活動が行われています。この活動を始めた頃、教会前に出すための案内の看板を作りました。「無料でお弁当を配っています」と大きく書いて掲げたのですが、それを見た豊平教会の稲生牧師にこんな風に言われました。「石橋さん、ぼくは“お弁当を配る”という言い方をしないようにしているんだ。自分たちの持っている物を一方的に配るのではなくて、神さまから頂いている物を、人々と分かち合おうと思って、お弁当を一つひとつお渡ししているだんよね」と。それは、言葉の表現の問題を指摘しているだけのようで、活動の在り方そのものが問われる指摘でした。ぼくは、「天に宝を積む」というのは、何か自分の持っている物を、持っていない人に与える慈善活動を行ったから、それで天に宝が積まれていく・・・ということかとイメージしていました。でも、きっとそうではなく、そもそも神さまが一方的に与えてくださる恵みなんだから、それをみんなで分かち合って、喜び合って過ごす・・・、その場所にこそ、天にある喜びを見させられていくのだということなのでしょう。そして、そうであれば、この礼拝こそが、その分かち合いの喜びの現場そのものであるはずです。ここでは、与える者も、教える者も、賞賛される者も、ほめたたえられる者も、感謝される者もなく、すべてが神さまへと・・・天へと帰されていくからです。そして、ただただ神さまから一方的に与えられる御言葉の恵みを共に受け、分かち合い・・・そして、その受けた恵みをもって、それぞれの日々の恵みの分かち合いの現場へと、ここから一人ひとりがまた遣わされていくのです。そのようにして、日々、天にこそ宝が積まれていくのを、共に喜びたいと思うのです。わたしに必要な物は、神さまが必ず備えてくださることに、深く信頼して、与えられている恵みを分かち合う生き方、天にこそ宝を積み続ける生き方へと・・・、そんな教会へと・・・、導かれていきたいと願うのです。「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」

 

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 “かくれんぼ”      

というよりは

      “みつかるんぼ” 』

 

 イザヤ書45:15

ルカによる福音書8:16~18

2023年2月12日(日)

 

子どもメッセージ

 僕が20代の時のことです。東京の教会で、新一年生のお友達を前にしてお話しをしていました。「神さまはみんなのすぐそば・・すぐ近くにいるんだよ」というお話でした。それを聴いたあるお友達がびっくりした顔をしながら、このように問いかけてきました「えー?そうなの?僕、一度も神さま見たことないよ!?そばってどのぐらい近くなの?スーパーにいるの?コンビニなの?」と。みんなはこの質問をされたらどう答えるかなぁ?

 その時僕は「神さまはみんなの心の中にいるんだよ・・心ってどこかなぁ?」と答えました。すると、目の前にいた小さいお友達たちは、自分のシャツをのぞいたり、隣のお友達の髪の毛を探ったりして・・そばにいる神さまを探そうとしました。でも神さまは残念ながら見つかりませんでした。その日、僕が狙っていたようなお話にはならず、冷や汗をかいたことを思い出します。

「(聖書が言う)神さまはそもそもいるんだろうか?」と考えていたある人が、神さまを信じるようになったお話を紹介したいと思います。その人は、ちょっと昔・・ひかり幼稚園で先生をしていました。今日もこの礼拝にいますね・・どこでしょう・・聖歌隊あたりでしょうか。今日、ここではYさんと呼びたいと思います

 その時のYさんは、神さまのことが信じられなかったようです。育ちながら、お寺の教えを信じ、それを大事にしていたのです。「聖書がいう神さまを信じたくない・・むしろ、信じてたまるか」・・という自分への約束を密かに守っていたそうです。そんなYさんだったのですが、ひかり幼稚園の先生をしていると、お祈りもそうですが、子どもたちに聖書のお話をしなくてはいけませんでした。見たこともない・・信じたくない神さまのことを小さいお友達にお話ししながら・・いつも悩んでいたそうです・・「この私が聖書の話をしていいのだろうか・・どうして私なんだろうか」と。でも、ある日、そのような悩みを吹き飛ばすような出来事が起こりました。今でもそうですが、当時のひかり幼稚園で金魚をかっていました。昨日まで元気よく泳いでいた金魚さんが、具合悪そうにしていたのです。子どもたちがそのことに気づき、金魚さんのことをとても心配しました。金魚さんが住んでいたたらいを囲み、誰からも何も言われたわけでもなく、子どもたちが次々とお祈りをしはじめたのです。「神さま、具合悪い金魚さんを助けてください」と。子どもたちが金魚さんのためにお祈りをするその光景を見て、Yさんはびっくりしました。神さまのことを信じきれなかったYさんでしたが、Yさんの聖書のお話を繰り返し聴いていた子どもたちは、すぐに神さまにお祈りをしたのです。神さまなら何とかしてくれるはずだ!・・そんな期待が込められたお祈りでした。Yさんは、神さまを信じ切れてなかったかもしれませんが、Yさんが幼稚園でしていた聖書のお話を通して、神さまにお祈りをすることが子どもたちに身についていたのです。Yさんはこのことを通して思ったのでしょう「信じ切れてない私を通しででさえ、子どもたちにお祈りをする心を与えてくださる神さまがいるのかもしれない」と。当時のことを振り返ってYさんはこのように言っていました、「子どもたちの姿から(神さまのことを)教えられた」と。この出来事をきっかけに、Yさんは見えない神さまを信じるようになりました。見えないけど・・神さまはおられ、生きているんだと信じるようになったのです。

 最初の質問に戻ります。見えない神さまはどこにいるんでしょうか?Yさんの場合はこうでした・・具合悪い金魚さんのために、誰にも言われなくても、次々とお祈りをする小さいお友達の姿を通して、神さまが近くにいるということを知ったのです。そう考えると、神さまがおられることはいろんな場面で感じ取れたり、見えたりするんじゃないのかなぁ。そして、私たちの姿から、神さまがおられるということがそばにいる人たちに伝わるということをYさんのお話から僕は教えられるのです。

 

み言葉を見えるようにする

 今日のイエスさまの言葉はとても抽象的だと思いませんか?16節にはこうあります、「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台(ベッド)の下に置いたりはしない。(あかりは)燭(しょく)台(だい)(テーブル)の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。」ここで出てくる「あかり」や「光」をどう捉えるかで、見えてくる物語が大分異なってくるようです。今日の箇所の前後を見れば、この「あかり」、ないし「光」とは、神さまの言葉・・み言葉であることが伝わってきます。でも、「神さまの言葉をおおいかぶせること」や「神さまの言葉を見えるようにすること」、「神さまの言葉が周りを照らすようにする」ということは具体的にどういうことなのでしょう。

 子どもメッセージではYさんの証を紹介しました。そのお話に出てくる幼稚園の子どもたちは、神さまの言葉を見えるようにしたと言えるのではないでしょうか。少なくとも、Yさんには見えるようになりました。そして、ここで言う神さまの言葉とは、「神さまは祈りを聴いてくださる」こと、「神さまは今も生きて働いておられる」こと、「具合悪い金魚さんと神さまは共にいる」ということだと私は感じます。Yさんの証に出てくる子どもたちの姿から、いろんなみ言葉が見えてくるように思うのです。皆さんにはどういうみ言葉が見えてくるでしょうか?

 

み言葉を隠す愚か者

 17節も非常に興味深い聖句だと思います。こうあります、「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」16節の流れで読むと、隠されているもの・・秘密にされているものは神さまの言葉です・・神さまの出来事とも言えるでしょう。でも、誰が神さまの言葉を隠し・・誰が神さまの出来事を秘密にしているのでしょうか?文脈から言うと、ベッドの下に灯を隠そうとする愚かな者です。そんなことをしたら、ベッドが燃えるどころか、家も近所も燃えてしまうかもしれません。そしてその愚か者は、他でもなくこの私なのです。神さまが生きて働いておられることを見ようとしなく、それを見失う私です。人の弱さを受け入れられず、相手を軽んじてしまう私です。目の前の人の気持ちを汲み取らず、こっちの思いばっかりを押し付ける身勝手な私です。神さまの出来事を隠してしまうのは私たちである・・どこまで行ってもイエスさまの赦しが必要な罪人である私たちであること・たえず悔い改めへと招かれている私たちであること・これは大事なポイントだと思います。

 

神さまのかくれんぼ?

その反面、神さまの出来事が隠されていることは、私たちだけの事柄ではないと言えると思います。もしも、ここで言われている「隠す」という行為が私たちに限定されているのであれば、イエスさまはこう言ったはずです「あなたたちが隠しているもので、あらわにならないものはなく、あなたたちが秘密にしているもので、明るみに出されないものはない。」でもそうは言われなかったのです。それでは、誰が神さまの出来事を隠しているのでしょうか?

聖書には、「隠されたる神」という考えがあります。今日の礼拝への招きの言葉でイザヤ書の聖句が読まれました「イスラエルの神、救い主よ、/まことに、あなたは/ご自分を隠しておられる神である」。神さまはご自身を意図的に隠しているという信仰の言葉がここにあります。私たちは神さまの出来事を見ようとせず、それを隠すのでしょうが、その反面、神さまご自身が、自らの出来事を隠しているというのです。ある人はこれを「神さまのかくれんぼ」と呼びました。神さまがかくれんぼをしておられる・・面白い発想だと思いませんか?ぼくはちょっとワクワクします。神さまのかくれんぼに加わりたいと思いませんか?

17節をよく見ると、二つのことが紹介されています。隠されることと、それがあらわになることです。力点が置かれているのは、神さまの出来事があらわにされ、知られ、明るみに出されることなのです。子どもたちの遊びの“かくれんぼ”のたとえで言えば、隠れることも大事ですが、見つからなければ遊びは成り立たないのです。見つけて・・見つかることに楽しさが凝縮されていると言えるでしょう。同じように・・神さまの出来事は、隠されている・・けれどもそれが隠されたままでは意味がないのです。それらは見つかってほしくてしょうがなく、あきらめずに探してほしいのです。見つかって、明るみに出されてほしいのです。

 

ピンぼけのつくし

 しばらく前、ある教会員から相談を受けました。子どもメッセージの証もそうですが、許可を得てこのようなお話を紹介しています。その人は体調が優れず、仕事で追い詰められ、不本意でしたがその仕事を離れることになりました。その時に、数日ごとに写真とその写真に添えた一言を携帯に送ってくださいました。

 この青い空と松の木の写真には「青い空見てたら、悲しくなりました・・」というコメントでした。本当にしんどいところを通らされていることが伝わってくると思います。

青い空と白い雲の写真には、「青い空を見て、きれいとか、悲しいとか、今日は思わない」というコメントでした。地面から生え出る植物の写真には「これから『新しい芽』、できることが見つかるといいな」というコメントでした。そして、コンクリートの壁とアスファルトの地面の割れ目から生え出るつくしの写真には、「このつくしのパワーほしい」というコメントでした。

 改めてこれらの写真とコメントを観て、その人は、あきらめずに神さまの出来事を探し求めていたことに気づかされるのです。しんどさの中、なかなか神さまの励まし・・神さまの伴いを実感として得られない時だったことだと想像しますが、それらを追い求める祈りがこれらの写真とコメントから私は感じるのです。

つくしの写真をよく観ると、つくし自体はピンぼけしていて、はっきりと映っているのはコンクリートとアスファルトなのです。求めているつくしのパワー・・祈り求めている神さまの励ましはピンぼけして、まだ感じ取れない・・そんなことを物語っているのでしょうか。でもこれらの写真には一つの信仰が込められているように思います。「神さまは今も生きて働いているはずだ」・・その事実を何としてでも、探したい・・身近なこととして感じたいという信仰です。今は、その人は、全てが改善したわけではありませんが、朝起きるたびに「今日息ができることが嬉しい」と先日語っていました。神さまの嬉しい出来事を毎日見つけているのです。

隠されたみ言葉、隠された神さまの出来事を探し求めていくこと・・神さまのかくれんぼに加わること・・そういう信仰の姿勢のことを18節は語っているのでしょう。「どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。神さまの出来事探し・・み言葉を見つける日々、一緒に挑戦してみませんか?

 

(牧師・西本詩生)

 


『 試練を耐え忍ぶ人は幸いです 』

コリント信徒への手紙二1:4

ヤコブの手紙1:12【新共同訳】

2023年2月5日(日)

 

◆  イントロ

 皆様の姉妹教会でありますハワイのオリベットバプテスト教会からご挨拶いたします。 “Aloha!”このハワイ語には、「愛」「平安」「分かち合い」「はじめまして」「さようなら」などの広い意味が込められています。“Alo”とは「その場に存在する」「分かち合う」、「向き合う」、と言う意味があり、そして “ha”とは「息」「命の力」という意味がありますから「向き合って息(命)をかける」と訳せる言葉です。皆様と向き合って神さまのいのちの言葉、救いを分かち合える恵みに心から感謝致します。

賛美: “The Prayer”

 

◆ 『ヤコブの手紙』について

 ヤコブの手紙は、エルサレムで迫害が起こり、それによって散らされたユダヤ人信者たちに、牧会者としてヤコブが送った手紙です。 貧しい人も多く、さまざまな試練に遭っている人々が多くいました。神さまの訓練とそれに伴う成熟(せいじゅく)をヤコブの手紙から学ぶことができます。 キリスト者として成熟(せいじゅく)、成長するには、鍵(かぎ)となる教えが「みことばを行なう」ことであることを後の22節の「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」に見ることが出来ます。*(パウロは伝道者:<救いは行いのよるのではなく、恵みによる>、ヤコブは牧会者:<信仰の成長は、み言葉に従い、それを行う事により育まれる>)

 

A)試練を耐え忍ぶ人は幸い

 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(ヤコブの手紙1:12)。『「試練(しれん)」とは、クリスチャンにとっての薬であって、あらゆる害虫、皮膚病、疫病、怪我、汚れや罪に対する解毒剤なのです』という言葉をマルティン・ルター(1483年-1546年 神学者、牧師、宗教改革の創始者、音楽家)が書いています。「試練」を悪い事としてとらえるのではなく、神さまが恵みへと導いて下さるツールとして与えられるものと受け止めることが出来るのです。「薬は苦ければにがいほど、効く」とも言いますね。また、苦い薬は決して嬉しくはありませんが、癒されるために効き目がある、ともいえるでしょう。

私たちの歩みには必ずと言っていいほど、何らかの試練、悩み、痛み、苦しみというのは、つきものですよね。今もまさにその試練の真っ只中にいるという方もおられるかもしれません。 また私たちの「痛み」は、からだを守るための防御システムの一つです。痛みが無ければ、逆にからだにとって、とても危険です。試練を通しても、神さまの愛に触れる事が出来るのです。

 

B)その人は適格者と認められる

 「・・・その人は適格者と認められ・・・」(ヤコブ1:12)。試練を耐え忍ぶ人は「適格者と認められる」というのです。それによって霊的に成長をして、人だけにではなく、神さまに認めて頂けるのです。人に認められる事はうれしいことですが、神さまに認められる事は何よりも光栄で感謝なことです。

私が、2013年に神学校の学びに戻ろうとして、博士課程のプログラムに入るための試験を受けました。カリフォルニアのGateway Seminaryという神学校(元Golden Gate Seminary)ですが、まず入試試験はハワイ大学の一室で受けました。私一人だけが、その日に試験を受けたのです。最初の試験の結果は、あと7点足りませんという事で、見事に落とされました。

数カ月準備をしてまた試験を受けなおしました。今度は大丈夫だろうと思ったら、「あと14点足りません。」と、もっと下がってしまった結果でした。何度受けてもいいので、またの機会に受けようと思ったのですが、その結果を神学校のオフィスが考慮して下さり、ほとんど合格に近いから、入学を許可しますという事で認めてくれたのです。はじめは仮入学で勉強を始めて、神学校側が学期末に評価して大丈夫と認めたら、適格者と認めて正式に生徒として受け入れますからという事でした。やはり(適格者と)認めてもらうために一生懸命頑張らなければなりませんでしたね。神学校の教授から言われたことは、「博士課程に入学しても47%(約半数)は途中で辞めるという統計が出ているので、とにかくあきらめずに続けて下さい。」という事でした。苦しくても試練に会っても続けて下さいという事でした。この博士課程のモットーの聖句は、箴言27章17節「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」です。「研磨」とは、「とぎみがく」という意味で、削られるという事で痛みを伴いますね。論文も何度も書き直し、やり直しがあります。普段牧師の仕事をしながらの学びですから時間のマネージメントも、アサインメントもすごい量でした。まさに試練でしたね。でも4年の学びの後にやっと論文が認められて、すべてのクラスを終えることが出来て、適格者と認められて卒業出来た時は本当に大きな感謝でした。私のような頭の働きが鈍くて、遅いようなものも認めて頂けたときにその喜びは大きかったですね。

 

C)いのちの冠をいただく

 「・・・神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(ヤコブ1:12b)。 さて、ここで使われている「愛」というギリシャ語の言語は「アガぺ」です。無条件の神の愛という言葉が用いられています。「・・・神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」とあります。神さまは私たちを無条件に愛して下さっているという事を知っている人々が、その同じ愛で神さまに応答して、神さまを愛そうとするときに永遠の命の冠を頂けるという事です。冠はただ単に頂けるというよりも、神さまの愛を受け取った人が、その愛で神さまを愛してゆくときに、神さまの愛をあらわして、行ってゆくときに命の冠を頂く、という事ですね。

そしてこの「冠(かんむり)」という言葉を原語のギリシャ語聖書で見ると「ステファノ(ステファノン)」という言葉が用いられているのです。英語の名前ではSteveとか、Stephenになりますね。そうです。イエスさまに見習って殉教の死を遂げたあの「ステファノ」というイエスさまの弟子の名前「ステファノ」の意味は「冠」だからです。私はステファノの死に方を見るときに、永遠の命の冠を神さまから受けているのだろうと確信します。それと同じように、ステファノだけでなく、イエスさまの十字架によって罪赦された事を信じ、従って歩んでいるあなたにも、命の冠(ステファノ)が与えられるのです。

イエスさまの支配する2023年は、もうすでに2月に入りましたが、この新しい年の歩みにも必ず試練、悩み、痛みは伴うでしょうが、それを耐え忍び、霊的に成長し、神さまから命の冠をいただけるようになりたいのです。聖書は現実逃避の書物ではありません。しっかりと現実と向き合い、その中に歩みながら神さまに栄光を帰す時に本当の平安、救い、喜びを味わう事が出来るというメッセージが語られているのです。

ヤコブの手紙 1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

 

(オリベット・バプテスト教会牧師・渡辺牧人)