『 「試みにあわせないでください」  

               と祈りなさい 』   

マルコによる福音書14:36 

マタイによる福音書6:9~13

2025年1月26日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

天にまします我らの父よ、

願わくはみ名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。

アーメン。

 いつも礼拝の中でお祈りしている『主の祈り』です。昨日、教会の人と話していたら、「なんで礼拝では、聖書の言葉通りではなくて、もっと古い言葉で『主の祈り』を祈るんですか?」と訊かれたけど、ちゃんと答えられませんでした。それで、その後「なんでだろう?」って考えながら、「たしかに、小学生の時に教会学校で『主の祈り』を覚えさせられて祈っていたけど、意味はまったくわからなかったなあ」と思い出していました。「天にまします」の「まします」って、なんだかラーメン屋で聞く「マシマシ」みたいだし、「たまえ」「たまえ」「たまえ」って、やたら「たまえ」さんが出てくるし・・・。教会学校の先生たちからは、「これは、神さまのことを『お父さん』って、親しく呼びかけたお祈りですよ」って教えてもらったけど、親しいお父さんに「ねえねえ、われらの父よ」なんてぜったい呼びかけません。「みなをあがめさせたまえ」とか、「なんじのもなればなり」なんて、意味のわからない早口ことばみたいです。「にちようのかてをきょうもあたえたまえ」って、一週間毎日、日曜日のご飯にしてくださいってことかと思って「それは勘弁してほしい」って思ってました。ぼくの教会のお昼は、毎週かならずうどんって決まっていたから、日曜日のうどんが、月曜も火曜も水曜も木曜も金曜も土曜も・・・って、しんどいです。「そのくらい意味もわからずに毎週『主の祈り』を言い続けてたんだな」と思って、「『主の祈り』を子どもの時のぼくにでもわかる言葉にできるかな」って、やってみました。ところが、それが思ったよりずっと難しくて、そうとう時間がかかってしまいました。で、結局全然わかりやすくはできなかったけど、「今のところこんな感じかな?」っていうのが、これです。

天にいるぼくらみんなのお父さんへ

みんなで、お父さんの名前だけを、特別な聖なるものとして大事にできますように。

お父さんの国が来ますように。

天でなされているお父さんの思いが、ぼくらの生きているこの地上でもなりますように。

ぼくらがお腹をすかせてすごさなくていいように、みんなに今日のご飯をください。

ぼくらの借りをゆるしてください。

ぼくらも、ぼくらに借りのある人みんなをゆるします。

ぼくらのことを試みにあわせないでください。

悪い力からも助けてください。

国も力も栄えもぜんぶ、お父さん、あなたのものだからです。

アーメン

 少しはわかりやすくなったかな?まだまだ全然だよね。なんで、わかりやすい言葉にできないかっていうと、ぼくがまだちゃんとこの言葉を、自分の言葉にできてないからです。みんなと一緒に、イエスさまが教えてくれたこの『主の祈り』を、心を込めて祈りながら、もっともっとぼくらの祈りになっていったらいいなと思っています。そのために、長く教会に来ている人たちにお願いです。『主の祈り』を祈る時には、初めて来た人でも一緒に祈れるように、できるだけゆっくり、みんなで言葉を噛みしめながら祈れたらいいなと思っています。さて、今日はそんな『主の祈り』の中で、イエスさまがぼくらに「試み(苦しいことや辛いこと)にあわせないでください」って祈りなさいって教えてくれたことについてお話ししようと思います。

 

◆ 試みにはあいたくない

 神さまのなさることは、いつも、ぼくらの考えていることより、ずっとずっと良いことです。でも、残念ながら、ぼくらには、神さまがどんなことを考えておられるのか・・・ということが、はっきりとはわかりません。だから、ぼくらは、いつも目の前で起こることに一喜一憂してしまいます。「きっと神さまには、ちゃんと御計画があるんだろうけど、この苦しいことは、ぼくには耐えられない・・・」ということが、たくさんあります。イエスさまは、そんなぼくらに「どんなに苦しいことがあっても、それを喜びなさい」とか「『もっと苦しいことを与えてください』と祈りなさい」とか、そんなことは言いませんでした。イエスさまは、ぼくらに「試みにあわせないでください」「苦しいこと・辛いことにあわせないでください」と祈りなさいと教えてくれたんです。5月に受けた心臓手術の術後、これまで全身麻酔での手術を5回受けてきましたが、初めて“せん妄”を見ました。まだ麻酔が完全に切れない状態でICUに入っている時で、身体には9本ほどの管が入れられており、仰向けに寝たまま身動きも取れない状態でした。ようやく喉に入っていた管が抜け、喉がかわいていたので、ナースを呼ぼうとしたんですが、直前まで管が入っていたからか声が出ないんです。必死に手を振っていたら、ようやくナースに気づいてもらえて、「水をください」って伝えると、つれなく「まだ飲めませんよ」と言われてしまいました。ただ、いつになったら飲めるようになるのかもわからなければ、動くこともできないので時計も見えません。どうやらその後も、何度も何度もナースを呼んでは「水を飲みたい」って言い続けていたみたいなんです。そのうち、カーテンの向こうで「あの患者さんは“せん妄”見ているだけだから、ほっときなさい」というナースの声が聞こえました。それ以降、ナースたちがとっても意地悪な顔で「水は飲めません」って言ってきたり、カーテンの向こうでぼくの悪口を言ったりしている悪夢を見ながらうなされていました。ようやく水を飲ませてもらい、ちょっと落ち着いくと、周りのナースがそんな悪い人たちでないことがわかり、「ああ、さっき見ていた悪夢が“せん妄”ってやつか」と気づきました。ただ、まさにその“せん妄”を見ている苦しい間は、必死になって「神さま、早くこの時間を過ぎ去らせてください!」「この苦しみを終わらせてください!」と祈っていました。そして、それは、とても切実な祈りでした。「きかれなくても、神さまのご計画があるはず・・・」なんて、とても思えない切実な状態でした。ですから、もしイエスさまが「もっと試みにあわせてください」と祈るようにと教えたと聖書に書かれていたとしたら、ぼくはとても耐えられなかったと思います。ぼくらには、試み、苦しみ、辛さのただ中にある時に、それを喜ぶことなどできません。逆に、できるとしたら、それはそもそも、その人にとって、試みでも苦しみでもないのかもしれません。

 

◆ Nさんの祈りのことば

 「天にいます父なる神さま、あなたさまの深い愛のうちにおらせてくださいまして、感謝致します。主よ、どうぞ自分だけのことしか考えられない心の狭いこのしもべを、心の広い者としてください。すべてのことをご存じのあなたさまを信じているこのしもべは、人の犯した罪を赦すことができず、腹を立てて、その人にあたり散らしたり、特に子どもたち、主人に対してひどいのです。本当にささいなことに、腹を立ててしまいます。もっと寛大な心を与えてください。あなたさまは、すべての罪を赦してくださいます。また、裁いてくださるのも、あなたさまです。すべてをゆだねて、あなたさまの御子イエス・キリストの負われた十字架を見上げつつ、あなたさまを第一として歩む毎日でありますよう、せつにお願い申し上げます。私に主人と子どもたちを下さったことを、感謝いたします。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」

 先週日曜日に、教会員のNさんが危篤状態であることをみなさんにご報告し、一緒に祈りました。その翌日20日(月)、ご自分の誕生日にNさんは天に召されていかれました。今お読みしたお祈りは、今から46年前に発行された教会の創立25周年誌『めぐみ』に掲載された、Nさんの『祈りながら』と題した証しの中で紹介された祈りの言葉です。先週水曜日に執り行われた告別式の式辞の中でも触れましたが、Nさんはとても自然体の信仰者でした。聖書を読み、祈ることを欠かさない毎日であり、夫Wさんとのケンカの毎日でもありました。葬儀に来られた方々が次々に「きっと天国で、またWさんとケンカしてるね」と言いました。ぼくもそう思います。でも、先ほどの祈りにもあったように、Nさんは決してそれで良しとしておられたわけではなく、ゆるすことができるようにと、日々必死に祈ることを諦めなかったんです。そして、それは決して相矛盾する行為ではありませんでした。一貫した、Nさんの信仰による行為だったんです。

 

◆ 試みにあわせないでください

 イエスさまは、「試みにあわせないでください」と祈るようにと教えました。でも、ぼくは「『試みにあわせないでください』なんて、ちょっとダサい感じで嫌だなあ」と思っていました。「信仰をもったんだから、少々の苦しみや困難はもろともせずに、むしろ『どうかもっと試みにあわせてください』と祈れるくらいでありたいもんだ」と思っていたからです。実は、当時の敬虔なユダヤ人たちも、自分が神さまに従順であることを示すために、神さまに自分を試してほしいと祈っていたそうです。も、イエスさまはそうではなく、「試みにあわせないでください」と祈りなさいと言われました。苦しみの只中で、「これは神さまが、自分を成長させるために与えてくださっているのだから、この苦しみをこそ喜ばなければ・・・」と、変なガンバリズムを持つ必要はないのです。拭いても拭いても、涙が止まらないほど悲しい時に「このことにも、きっと意味があるんだ」って、その時に無理に喜ぼうとしなくていいんです。イエスさまは、そんなことは求めてないんです。「試みにあわせないでください」って祈りなさいと、ただそう言っておられるんです。

 

◆ 試みにあったら神さまに祈る

 「試み」とは、私たちにとって、どのようなものなのでしょうか?ある人たちは「それは自分を成長させるために必要なものだ」と答えるかもしれません。また、ある人たちは、「神さまが私たちに与えてくださるものだから、むしろそれを求めるべきだ」と言うかもしれません。この「試み」と訳されたギリシャ語の“ペイラスモス”という言葉は、「試練」と意味も「誘惑」という意味ももった言葉です。「試練」は神さまからくるもので、やがてはその人にとって大切な経験、益となるものと言えます。「誘惑」は、人間の弱さや罪、悪の力によってもたらされるものです。いずれにしても、ぼくら人間にとっては、苦しみや辛さを伴い訪れます。ただ、もしこれが神さまからくる「試練」であれば、たしかにそれを喜び、求めなければならないのかもしれません。ところが、イエスさまはそうであったとしても、「試みにあわせないでください」と祈るようにと、教えられたのです。たとえ、それが神さまからくる試練であったとしても、最初から待ち望むこともなければ、まして、こちらから望んで求める必要などないというのです。それは、その試練や誘惑に打ち勝つことができるのは、どこまでも無力なぼくら人間ではなく、神さまだけだからです。では、ぼくらは何をするのでしょうか。イエスさまは、ぼくらに対しては、神さまに祈りなさいと教えられたのです。「試みに打ち勝て」と求められたのではなく、「試みの前にあっては、神さまに助けを求めて祈りなさい」と求められたのです。

 

◆ 祈りを聞いてくださる神さまを信じ続けたNさん

 Nさんは証しの中で、先ほどの祈りの言葉に続けて、こんな風に記しています。

 イザヤ書43章24節・25節「あなたは金を出して、わたしのために菖蒲を買わず、犠牲の脂肪を供えて、わたしを飽かせず、かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、あなたの不義をもって、わたしを煩わせた。わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。この御言葉に接した時、神さまがこの世に御子イエスさまを下さったことに、感謝の気持ちで一杯になりました。また、日ごろの自分を反省させられました。一つの出来事をいつまでも心に留めているのだろうと思い、その時お祈りしたことを書きました。つたない、貧しい祈りですけれど、神さまは聞いてくださることを信じております。

 周りの人をゆるすことのできない自分に向き合いつつ、そんな自分のために、イエスさまをこの世に送ってくださった神さまに、すべてをゆだねて祈り続けたNさん。

 

◆ イエスさまも祈られた

 イエスさまは、ぼくらに祈ることを教えられました。そして、あのゲッセマネの園で、十字架の死を前にした、イエスさまご自身も、必死に神さまに祈られました。「どうかこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。イエスさまは、決して喜んで十字架に磔にされたわけではありませんでした。イエスさまは、どうしようもないほどの痛みを抱え、もがくほどの苦しみを覚えながら、絶叫しつつ死を迎えていかれたのです。だからこそ、イエスさまは十字架にかけられる前に、神さまに「この杯を取り除いてください!」と切に祈られたんです。十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか!」と、神さまに叫ばれたんです。そのようにして、イエスさまは、神さまがおられること、そしてその神さまが、ぼくらの叫びにしっかりと耳を傾け、共に苦しんでくださることを、身をもって教えてくださったんです。ぼくらがどんなに「試みにあわせないでください」と祈ったところで、本当に試みにあわずに過ごせる人などいません。それでも、その試みの中で、痛み、苦しむぼくらを決して捨て置くことなく、共に苦しみ、共に痛みを負ってくださる方として、その傍らにい続けてくださることを、イエスさまはその十字架によって示してくださったのです。

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


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