『 運命ではなく摂理 』    

創世記50:15~21

2024年9月29日(日)

 

キリスト教との出会い

 私がキリスト教の信仰を持つようになったのは、両親がクリスチャンで毎週日曜日には当たり前のように教会に通う家庭で育ったことが影響しています。小学4年生の時、洗礼を受けました。特に大きな回心や悔い改めがあった訳でもなかったのですが、転機が大学生の時にやってきました。 

 大学に入学した私は朝起きられず家に引きこもり、大学を留年していました。父は私に「学校に行け!」、「何のために高い授業料を払っているのか!」と叱責していたのですが、私には効果がありませんでした。途方に暮れた父は、その当時、非行や不登校といった心に宿題を抱える若者と生活を共にして回復に導いている、山形県にある米沢興譲教会の田中信生牧師の存在を誰かから聞きつけ、その牧師が運営しているトータルカウンセリングスクール(以下「TCS」と言う。)で聖書の価値観を土台とするカウンセリングを学ぶようになりました。すると、父は何かを悟ったかのように私に対する態度が変わっていきました。程なくして父は胆石が悪化して入院し、病室で私にこう言いました。「学校行けと言って悪かった。お前のありのままを愛しているよ。」と。その一か月後、父は57歳で天に召されました。 

 本来私が謝らなければならないのに、父が私に謝ってくれた。私は申し訳なく思いながらも、父親の愛を、そしてその背後にあるキリストの十字架の愛を感じ、私もTCSのカウンセリングを学ぶようになりました。

 

自分が嫌い

 大学卒業後、私は東京の警備会社に11年勤めさせていただいたのですが、周囲と人間関係がうまくいかないことや自分自身の仕事の遅さに悩み、いつも生きづらさを抱えておりました。友達を作ることが苦手であったり、人と会話をしていて話の流れに自分の思考がついていけなかったり、人が1時間で終わらせる仕事を私は2時間かかってしまって上司に怒られるということがよくありました。 

 東京にはTCS東京道場という場所があり、週に1回受講生が集まってカウンセリングで学んだことを実践に移す訓練の時間がありました。TCS ではありのままの自分を受け入れるという自己受容の大切さを教えられました。どんなにコミュニケーション能力や事務処理能力が低かろうが、人間は神様によって作られた作品であって、かけがえのない存在なのだから、人からどう言われようが、自分は自分の味方になって自分自身をいつくしむことが大切で、自己受容した分だけ他者を受容できるようになるということを学びました。 

 自己受容というのはとても奥が深く、私には大変やりがいのあることでした。私は元来自分が嫌いで「こんな自分を変えよう。」 と思っていたからです。自己受容を深めて自分の生きづらさを解消したいとの想いで私は仕事を辞めTCSの本部がある山形県の米沢興譲教会で1年間、教会の寮に住み込みで修業させていただきました。しかし結局、私の生きづらさは解消されませんでした。 

 

発達障害という診断

 12年ぶりに札幌に戻ってしばらくすると、私はメンタルが不調になり精神科を受診しました。1年以上通院した結果、大人の発達障害であるとの診断が下りました。今から3年程前のことです。知能検査で処理速度という分野のIQが平均より著しく低いことが分かりました。診断を受けた時はショックでしたが、同時に今まで経験してきた生きづらさの原因がやっと分かってホッとする想いもありました。 

 転職活動は40代半ばという年齢の壁もあり、難しいものでしたが、20社ほど受けて、やっと現在勤めている会社に採用され、2023年1月より医療系人材派遣会社の内勤事務職として働かせていただいております。 確定診断を受けてから、私は生き方のスタンスが変わりました。短所を直そうとするのではなく長所を生かそうという姿勢になりました。例えば、会社では私は人より仕事が遅いのですが、それはもう頑張っても改善しないことが分かりました。しかし仕事の遅さという短所は、ミスなく丁寧に仕事をしようという慎重さという長所の裏返しであって、それはちょうどコインの表と裏のような関係なのだと認識するようになりました。他人から仕事が遅いことを指摘されたら謝りながらも心の中で「ミスなく丁寧に仕上げようとするのが自分の持ち味だ。」と自分自身を励ますようにしようという心構えになりました。すると、不思議なことに慎重さ、丁寧さが求められるような仕事を周囲から振られるようになりました。まだ入社して2年弱ですが、順調に昇給しており、インセンティブのボーナスまで支給されました。 

 1 年前、米沢興譲教会の礼拝で説教の前に証ししてくれないかとお誘いを受け、私は発達障害のことを思い切ってカミングアウトしました。礼拝後、沢山の方から反響をいただきました。ある女性は「私の息子は自閉症です。あなたの証しに励まされました。」とおっしゃいました。私の体験談を聞いて励まされる人がいることをその時初めて知りました。 

 現在、私は札幌市市民活動サポートセンターの登録団体の代表として、カウンセリング勉強会を月1回開いております。まだ少人数の団体ですが、将来的には TCS 札幌道場を作りたいと思っております。 

 

神の摂理に生きる

 さて、教会カレンダーの本日の聖書箇所でもある創世記50章19~21節は、イスラエルの族長となった人物であるヨセフが自分たちへの復讐を恐れる兄弟たちに対して語ったセリフです。ヨセフは父親から溺愛されていることで兄弟たちからうとまれて、17歳でエジプトに奴隷として売り渡されます。エジプトでは、濡れ衣を着せられて牢屋に入れられるという目にも遭いますが、最終的にはエジプトの総理大臣にまで登りつめます。そして、飢饉によってエジプトに食糧を手に入れるためにやってきた兄弟と22年ぶりに再会し一旦は和解します。しかしその17年後、ヨセフとその兄弟の父親であるヤコブが亡くなった途端、兄弟たちは今度こそヨセフが自分たちに復讐してくるのではないかと恐れるのです。そのような背景があって、ヨセフが兄弟たちに言った言葉です。『あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』 埼玉県にあるミッション系の聖学院大学チャプレンである柳田洋夫という方が学内礼拝の中でこの聖書箇所について次のように説き明かしています。「ヨセフの言葉は摂理信仰をよく言い表しているものです。キリスト教では運命ということは信じません。信じるのは「摂理」ということです。英語ではprovidence と言いますが、これは前もって準備するという意味合いの言葉でもあります。奴隷として売り渡され、投獄までされたヨセフの姿は、どうにもならない運命というものを私たちに思わせるものです。しかし、そこでは終わらなかった。その先があったわけです。悪を善に変えることもできる、神の摂理によるものです。その摂理によってヨセフには思いもかけなかった人生が開けました。聖書が示す神様は、私たちを、どうにもならない運命に閉じ込めてほっといておくようなお方ではありません。摂理信仰とは私たちの人生を愛によって導かれるお方を信じることであって、神の摂理は運命を超えるのです。」 

 大人の発達障害と診断された私は過去に人からバカにされたり、なめられたりしたこともありました。仮に他人から「あなたは発達障害者として生きる運命です。」と言われたら、私をバカにした人に復讐したくなったり、絶望して死にたくなったりする衝動にかられます。しかし創造者である愛の神様が、私に対して人の悪意をも善へと変えて下さる摂理というものをお持ちであるならば、それに賭けてみようと希望が湧いてきます。 

 ヨセフの兄弟たちは22年ぶりにヨセフと再会した時、ヨセフが泣いて赦してくれたにもかかわらず、ヨセフの愛を疑っていました。ヨセフの赦しというのはキリストの十字架による赦しを象徴しています。創世記は今日私たちに問うていると思います。あなたを愛する神の存在を忘れて自分の人生を運命として生きるのか、キリストの和解を受け入れて神の摂理に生きるのか。神の摂理に生きる一週間として参りましょう。

 

(教会員

『 私につながっていなさい 』    

ヨハネによる福音書15:4~5

2024年9月29日(日)

 

わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたがたにつながっていよう。

 

 私がバプテスマを受けたのは今から58年前の1966年5月29日のペンテコステの日です。

 函館に住んでいましたので、中高一貫のミッションスクールに通っていました。教会へ行く事は学校から義務づけられておりましたので、函館バプテスト教会に毎週出席していました。高校3年生の時、山崎勝利牧師よりバプテスマを受ける事となりました。58年前というとずいぶん長い教会生活を送っていたんだろうと思われるでしょうが、私は45年間教会から遠ざかっていました。

 私が高校1年になる時、父の仕事の関係で両親や姉たちは札幌に住み、私だけが函館にとどまり、寮生活を送っていました。中学1年生から高校3年生までの数十名の女の子だけの生活は楽しくてアッという間に卒業時期がやってきました。進路をどうするか悩んでいたところ、寮の舎監が、「夜間だけれどもとっても素晴らしい保育専門学校がある」と言っているのを聞きつけ、そこに行こうと決心しました。それが北星保育専門学校だったのです。

札幌へ移り教会も転会して、この札幌教会の一員となりました。学校は夜間ですので、殆どの人は昼間働いて、夜、学校に通っていました。学校の仲間たちは毎日生きていく事に必死でしたが、私は全く働く気もなく、半年ぶらぶらしながら学校へ通っていました。疲れた身体にムチ打ちながら、何としても幼稚園教諭、保母の資格を取るのだという真摯な姿を目の当たりにして、私は、これじゃダメだと思い、Aさんのお父様が勤めていた北大の学生課に、半年アルバイトに行く事になりました。お父様の計らいで、他の職員より早く仕事を切り上げて学校に行く事も許されていました。

 2年目は、特別養護老人ホームを設立するための期成会を発足させるとの事で、1年間お手伝いをする事となりました。クリスチャンセンターの一室を借りて事務所を立ち上げ、そこで仕事をしていました。それがこの教会で月に一度ボランティアに行っている神愛園です。その間教会では、聖歌隊や小学科を受け持ち、毎月の教会カレンダー手書きで作成する等、充実した教会生活を送っていました。

 2年の後半になると、就職活動をしなければなりません。教会員で山の手療育センターに勤めていた、今はフランスに在住しているOさんが、函館の児童養護施設「くるみ学園」を紹介して下さり、無事就職先が決まりました。Oさんは1年間勤めていたそうですが、なんということでしょう、「くるみ学園」は私が保母になろうと決心させてくれた施設なのです。私が中高生の時は、この学園のすぐ近くに住んでおり、クラスにはその学園の関係者が必ず数人いました。私の家に遊びに来たり、私が学園のグランドに遊びに行ったりしました。そこに就職できるなんて、これは神様のおかげだと思いました。そして、私はいつも神様に守られ、教会の人たちに支えられているのだと実感しました。 

 児童養護施設では親のいない子、虐待されている子、親が病気で家で育ててもらえない子等々、様々な事情をかかえた2歳から15歳子供たちが100人程度、集団生活を送っていました。保母は住み込みで、24時間勤務と言っても過言ではありません。週一回のお休みは交替で取ることはできますが、夏休み、冬休みは一カ月休み無しで働く事もありました。子供がいる日曜日は休む事ができませんでした。この時から教会生活が途絶えてしまいました。

私の心のより所は、遺愛女学校で1年先輩で教会も同じ、クラブ活動のバスケットでも一緒だった方がいたのです。私の休みの日には、夕方、先輩の勤め先の銀行まで迎えに行き、一緒に過ごしていました。しかし、この先輩は東京のバプテスト教会で音楽を担当していたIさんの奥様となって、東京へ行く事になってしまいました。この時ばかりは、神様は私に何でこんな意地悪をするのだろうと心底思いました。

 くるみ学園では、3歳から5歳までの幼児8名を2年間、6歳から12歳までの女子13名程を2年間持ちました。学園は6時起床で、子供たち自身が使用している居室、食堂、トイレ、廊下等を掃除し、ラジオ体操をして朝食となります。自分たちで配膳し、食器を洗ってから学校へ行きます。何から何まで自分たちでしなければならない子供たちでした。16畳程の部屋に12、3人の子供が寝起きを共にしているのです。こんな日々が毎日続くのです。いま思うと、子供たちはどんな心境でいたのかと心が痛みます。食事は厨房で専門の方が作って下さいますが、洗濯、下着や洋服の買物、学校の参観、保護者会、病院への付き添い、また入院した時には泊まり込みの看病等、全て担当の保母に仕事でした。6歳の子供が、入院している母親に会いたくてタクシーを呼びとめ、出かけてしまったり、昼寝中にてんかん発作を起こし危機一髪で助かったり、通院先から戻って来なかったり、同室の子とけんかして学園を飛び出し、街の中をさまよっている子供を探し歩いたりと、色々な出来事がありましたが、皆、命だけは無事だったことが感謝です。現在は18歳、高校3年終了時まで施設に居ることができるようですが、当時は余程成績のいい子でなければ15歳までしか学園に居る事はできませんでした。中学を卒業すると同時に住み込みで、誰も頼る人もいない所で一人で生きていかなければならないのです。現実は厳しく、数年で行方がわからなくなる子が沢山いました。そんな中でも私は、受け持っていた子供数名とは今でも交流があるのが唯一の救いです。

 私は4年間勤めた後、札幌へ戻ってきました。まだ教会生活に戻る事はありませんでした。1975年に友人のお兄さんだったHと結婚することとなりました。主人の家はクリスチャンホームでしたが、彼だけはかたくなにクリスチャンになることを拒んでおりました。T家は日本キリスト教団の所属でしたが、私は自分の教会で式を挙げる事を強く望んでおりました。加藤享先生の了解を得て、司式は主人の実家が伝道所をやっていた時、そこから牧師になった教団の方に執り行ってもらいました。いま思うと、教会生活も送らずに自分勝手な我が身だと恥ずかしく思います。

 主人は伊達市で花卉園芸を営んでおりましたので、伊達に住む事になりました。この仕事もまた、日曜日に休む事のできない状況でした。結婚した次の年の夏に有珠山の噴火があり、出荷前のお花は全滅状態となりました。朝からしんしんと灰が降り積もり、まるで雪が降っているかのようでした。イエス様が十字架にかけられた時、昼間なのに真っ暗になったと聖書に書かれていますが、まさにその通りの状態になりました。引き戸は余震で一晩中カタカタと鳴り通しでした。お米や野菜は国からの見舞金や補助金が出たようですが、お花はぜいたく品との事で一切ありませんでした。

 子供の面倒、仕事、主婦をこなさなければならない毎日に、私は精神的、肉体的にいつも疲れていました。お風呂に入ると何故かしら、520番の「人生の海のあらしに」と、子供讃美歌の「イエスさまがいちばん」が口から出てくるのです。この2曲は、若い頃、聖歌隊で歌い、小学科で歌っていたのです。毎日毎日この2曲を歌っていました。特に520番は、私の人生そのものを表している歌だと思いました。歌う事によって私は神様に守られているんだと強く感じることができました。農閑期には室蘭バプテスト教会に主人が連れて行ってくれる事もありましたし、柴田牧師が我が家まで訪ねて来て下さる事もありました。

 ヨハネによる福音書第15章4~5節にこう記されています。「わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この聖句によって、私は何とか神様につながっていなければと思いました。

 その後、主人の父親が亡くなり、一人息子である主人は園芸の仕事をやめ、家族で札幌へ帰って来る事になりました。2007年、60歳のとき主人はパーキンソン病を発症しました。その中でも多系統萎縮症といって重い症状でした。入退院を繰り返し、その4年後脳梗塞で倒れ、脳血管手術を受けました。パーキンソン病の症状はどんどん進み、とうとう「要介護5」の寝たきり状態となってしまいました。私は、自分のできる限り自宅で介護すると決めていました。

 主人の病状が安定している時にはお医者様の了解を得て、看護師さんに付き添ってもらい、道内にいる2家族の子供と共に洞爺湖まで一泊旅行に出かけ、皆で花火を楽しみ、帰りには以前住んでいた伊達の家へ寄りました。居間においてある古いオルガンで娘が「うるわしのしらゆり」を弾いてくれたので、大きな声で歌いました。後日先生が往診にいらして、「無事に行って来たね。楽しかったかい?」と主人に聞くと、満面の笑みを見せて「うん」とうなずいてくれたのです。今でもその笑顔は忘れられません。

 私は何としても主人に神様の僕となってもらわなければ、と思いました。これは私が神様から与えられた使命なのだと思いました。主人に私の思いを伝えた所、「うん」とうなずいてくれたのです。娘と二人で奥村敏夫先生を訪ね、その旨を伝えました。後日、先生は家に来て下さり、主人に話しかけ祈って下さいました。2014年11月23日に車椅子に座ったままでバプテスマを受けることができました。私は、日曜日は主人がいるので聖日礼拝に出席はできませんでしたが、水曜日には通所へ行くので、祈祷会に出席することができました。この時からまた教会生活を送る事ができたのです。

 教会の皆様が、入院している時には病院へ、自宅にいる時は自宅へ訪ねて下さり、主人を囲んで讃美歌を歌い祈って下さいました。病院では看護師さんに、「他の病室の方たちも聞いていましたよ。」と言っていただき、これは主人の“証”なのだと思いました。14年間の闘病生活でしたが、2021年8月28日、天国へ召されました。何本ものカテーテルにつながれ、食べる事も話す事も身体を動かす事もできずにいた主人。これで、天国で大好きなサッカーをいっぱい楽しむ事ができるね。ボールにさわれなくても追っているだけで楽しいと言っていた主人。

 45年間教会生活から離れていた私ですが、ヨハネの福音書の15章の通り、私は何とか神様につながっている事ができたので、神様は私を見捨てる事なく守っていて下さったのだと思います。神様は私が生まれた時に私の人生のシナリオを描いて下さり、私が横道にそれようとも、間違った道を歩もうとも、常に見ていて下さったのだと思います。現在75歳になり、私の人生のシナリオはどうなっているのですか? と祈りの中で毎日問いかけています。

私の家族は、子供、孫、私を合わせると総勢17人です。各々が地方で暮らしているので私は一人暮らしです。でも、ちっとも寂しくありません。教会の仲間たちがいるからです。色々な会合に出席させて頂き、どんどん仲間が増えてきました。主人はきっと天国から私の様子を見てホッとしている事でしょう。

 神様、牧師先生、教会の皆様に助けられ、守られ、導かれて、いまこうしてこの場に立ち、証の場を与えられた事に感謝します。そして、これからはずっと神様につながっていようと思っています。

 

 

(教会員


『 まさかこうなるとは 』

イザヤ書55:8~9

創世記45:1~8

2024年9月22日(日)

 

子どもメッセージ

 僕は野球ファンではありませんが、今年のファイターズは、割と成績がいいと聞いています。今年こそ、日本一を決めるクライマックスシリーズに進める・・・いやいや日本一も視野に入ってきたのではないかと、ここ最近のラジオなどで耳にすることがあります。ファイターズファンにとってはワクワクドキドキの時期ですね。

 それと似たような感じで、ここ数か月読み進めてきた聖書の物語がいよいよ今週・来週でクライマックスを迎えます。12人の兄弟のお話・・・一つの家族の物語がいよいよクライマックスに差し掛かっているのです。どうなるんだろうと、ワクワクドキドキです。

 このお話の主人公はヨセフという人です。ヨセフには10人のお兄さんがいました。そして17歳の時に、面倒をみてくれるはずのお兄さんたち10人に殺されかけたのです。命は助かるものの、遠い国エジプトに奴隷として売り飛ばされたのでした。ヨセフから見れば、この出来事は悲劇であり事件でした。そしてこの事件が起きた直後、ヨセフは心の中で小さな希望・・・灯のような小さな希望をもっていたかもしれません。「もしかしたらお父さんが助けに来るかも」・「10人のお兄さんの誰かが考えを変えて、僕を助けるために追いかけてくるかも」・・・というかすかな希望です。でもその希望はすぐに消えることになるのです。言葉も分からない、右も左も分からない、友だちも味方もいない、もちろん家族はいない・・・異国エジプトで奴隷として過ごす現実が突きつけられたのでした。この時のヨセフの心の中には、さまざまな感情が渦巻いていたと思います。これからどうなるのだろうという深い不安だけではありません。もう二度とお父さんに会えないという寂しさ・悔しさ。家族として一緒に育ったお兄さんたちにひどい仕打ちを受け、あたかもモノのように捨てられたという痛みや怒り。「お兄さんたちは、これほどまで心冷たい人だったのか」・「僕は何かしてまったんだろうか・・・僕のせいでこんなことになったのだろうか」、そんな思いをグルグル頭で浮かばせながら、お兄さんたちでだけでなく、自分をも疑ったことでしょう。答えがない複雑な思いや考えが、心の中でねじれ、こんがらがっていたのです。そしてこの複雑な思いは癒されることなく、整えられることなく、ずっと抱えることになりました。

 ヨセフのお兄さんたちがこの事件の後に何をしたかというと、お父さんに作り話を伝えたのでした。ヨセフの服を激しくちぎって、それに動物の血をかけ、「ライオンにやられたのではないか?」という前提で、涙の演技をしながら、作り話で事をごまかしたのでした。お父さん・ヤコブはそれが作り話だと知るすべがありませんでした。お父さんは、愛する息子ヨセフがライオンにやられたと思いこみ、その場で泣き崩れたのでした。息子を亡くしたと思い、心に大きな穴が空いてしまったのです。絶対埋めることができない心の穴です。

 お兄さんたちも、この事件をきっかけに、とても重い荷を背負うようになりました。弟ヨセフにひどい事をしたという重たい記憶。過去を取り戻すことも、変えることもできないという現実の重さ。お父さんは作り話でだませても、いくらがんばっても自分たちはだませなかったのです。

 5年、10年、20年という月日が過ぎ去り、ヨセフ、お父さんヤコブ、そして10人のお兄さんたち・・・あの事件の事を思い出したり、意識したり、お父さんがいないところでお兄さんたちの間で話すことは段々減っていったと思います。一年ごと、月日が過ぎる度に、それぞれの引きずっていたものは、心の深いところに沈んでいったのでしょう。でも消えたわけではありません。何も解決もされず、抱え続けることになったのです。

 その出来事から20年が経ち、世界中で雨が降らず、どこへ行っても食べる物が十分でありませんでした。そんな中、唯一エジプトには食べ物がありました。ヨセフの10人のお兄さんたちはそれを聞きつけ、食料を買うためにエジプトを訪れました。そして、なんと、この時ヨセフはエジプトの総理大臣になっていました。食料を買うとなると、ヨセフと面会することが必要でした。このなんとも不思議なかたちで、20年ぶりに、エジプトの総理大臣であるヨセフと、10人のお兄さんたちは再会することになったのです。ヨセフはもう20年もエジプトに住んでいました。見た目100%エジプト人でした。話す言葉も流暢なエジプト語。名前もヨセフではなく、ザフナテ・パネアというエジプトの名前でした。髪型も服装もエジプト流。ですので、お兄さんたちは、目の前にいる総理大臣が弟のヨセフだとは全く気づきませんでした。でもヨセフは一目で10人のお兄さんたちが訪ねてきたことに気づきました。お兄さんたちは目元のしわが増え、白髪になっていた兄もいて、毛薄になっていた兄もいましたが、みんな、それなりに元気そうな様子でした。

 この20年間、ヨセフの心の中で、徐々に徐々に沈んで行き・・・ある意味では蓋をしていたあの複雑な感情・・・怒り、寂しさ、悲しさ、痛み・・・渦巻いていたあの感情が湧き上がってきたのです。ちょっと前までは、もう自分がどこから来たのかなど、もう忘れるしかないと思っていたヨセフでしたが、いざ兄たちを目の前にすると、感情が一気に湧き上がってきたのです。皆さんがヨセフであったら、この場面でどうしたでしょうか。

 ヨセフの頭の中で、いろんな疑問が浮かんできたのでしょう。「あの事件のことを兄たちはどう思っているのだろうか」・「兄たちは変わったのだろうか」・「兄たちは心冷たい悪者なのだろうか」・「優しい心もあるのだろうか」・「お父さんは元気なんだろうか」・・・これらの事を探るように、兄たちと接しました。ヨセフの複雑な心情を現わすように、兄たちに厳しく接することもあれば、優しく接することもありました。

 兄たちとやり取りを繰り返すなかで、兄たちは、決してあの出来事を忘れていないことが分かりました。むしろ、ずっと後悔してきたことが分かりました(創42:21~22)。後悔しているだけでなく、もう二度と同じようなことが起きてはならないという固い決意を兄たちがもっていたことが分かったのです(17歳のヨセフを奴隷として売り飛ばした兄ユダ(創37:26)が、自分の生涯と引き換えに、一番末っ子のベニヤミンを救おうとしました(創44:30~34))。ヨセフ自身も、ずっと抱えていた痛みがありましたが、実は、お兄さんたちもとても重い荷を引きずってきたことをヨセフは知ることになりました。

 もうヨセフは我慢できませんでした。兄たちを前にして、泣き崩れたのでした。あまりにも大声で喚くので、隣の家まで聞こえるほどでした。溜まりに溜まった感情を20年以上押し殺していたのでしょう。今まで蓋をしてきた事が一期に湧き上がってきて、ヨセフ自身も自分にびっくりしたのかもしれません。そして、ついに兄たちに明かしたのです。「私はヨセフだ」と。

 エジプトの総理大臣が、我を忘れるほど泣きわめくことだけでも、兄たちは動揺し、立ちすくんだことでしょう。でもその総理大臣が「私はあなたたちの兄弟のヨセフだ、お父さんは元気ですか?」と言ってきたのです。エジプト語ではなく、自分たちの言葉で語りかけてきたのです。兄たちは驚くと同時に、体が震えてしまうほど恐れにさいなまれてしまいました。20年以上も前に自分たちの手で、弟を殺しかけ、捨てたのです。その弟が、目の前のエジプトの総理大臣だったのです。ヨセフがその気になれば、兄たちの命は無いに等しいものでした。脅えて立ちすくむ兄たちを見て、ヨセフは「近寄るように」と語りかけました。そして、兄弟たちは近寄って、ここではじめて、本当の意味で再会をすることになったのです。ヨセフはさらに語りました、「お兄さんたちは、引きずってきたことをもう引きずらなくていい。自分を責めないでいい。神さまがここまで導いてくださったんだ。」。ヨセフはお兄さんたちをゆるすことを告げたのでした。ヨセフも兄たちも、それぞれ20年以上引きずってきたものがありました。でも、この再会をきっかけに、ヨセフも、お兄さんたちも、その引きずってきたものから解かれ始めたのでした。

 もしかしたら、私たちも、大なり小なり何かを引きずりながら歩んでいるのかもしれません。神さまでさえ扱えないと思えてしまう“どうしようもない”ものです。けれども、神さまはそんな“どうしようもない”と思えてしまうものにも、働きかけ続けている・・・そんな励ましが聞こえてくると思うのです。神さまは私たちに言うのです「わたしに近づいてきなさい」・・・兄たちに伝えたヨセフの言葉が、神さまの言葉として聞こえてくるのです。

 

神さまという発想

 ヨセフは、世界大国エジプトの総理大臣でした。家来たちに「右」と命じれば、誰一人欠けることなくみんなそろって右に進み、「門よ開け」と言えば、即座にそうなったはずです。そうでなければ、7年間の豊作の間、エジプト全土で穀物が適切に保管され、在庫されるという国家プロジェクトは成功しなかったと思います。想像を超えるほどの権力と実行力をヨセフは握っていたのです。そう思うと、ヨセフが望んだのであれば、兄たちや父を探し求めることはできたと思います。エジプトの領土でなくても、安否を確認することぐらいは簡単にできたはずです。でもそうはしなかったのです。ですので、兄たちが目の前に現れることは、ほぼほぼ望んでいないことでした。ヨセフの心情を現わすかのように、当初、兄たちをこのように厳しく呼んだのです「お前たちは国外から来た回し者だ」と(創42:9)。その瞬間は、真っ先に罰するつもりだったのでしょう。すぐさま、10人の兄たちを、三日間牢屋に入れたのでした。でもその三日間が終り、ヨセフはこう告げるのです、「わたしは神を恐れている」と(創42:18)。兄たちが牢屋に入れられている三日の間に、「神さまという発想」がヨセフのなかで意識されるようになったのです。全く望んでいない再会でしたが、でも不思議にもこのように再会するようになった・・・もしかしたら神さまが何かを意図しているかもしれない・・・そのような発想がヨセフの心の中で動き始めたと言えると思います。偶然ではないと思いますが、ヨセフが「わたしは神を恐れている」と告げたその直後に、今度は一番年上のルベンお兄さんが「神さまに対する背き」の意味を持つ言葉を口にするのです(創42:22の「罪」という単語)。つまり、兄たちの心の中でも、神さまという発想が動き始めるのです。

 最終的には、ヨセフは兄たちをゆるすことを選びました。20年以上も前にしたことを、兄たちは後悔し、責任を感じ、自分の命と生涯を投げ捨ててでも、二度と同じような事が起きてはいけないという決意が兄たちから伺えたのです。この物語を読んで、ゆるすことを、誰かに強いることはできません。無条件のゆるしを目指すこと自体、時に有害でさえあります。被害者が常に加害者をゆるさなくてはいけないとなれば、そのような言葉は被害者をさらに苦しめるでしょう。二次被害が生じます。ヨセフは兄たちの変化を感じ取りながら、一つの気づきに至りました。20年以上も前に、兄たちの悪事で地獄を見たヨセフでしたが、それでも真実である神さまは不思議にも、救いに導いて下さるという気づきでした。自分がずっと蓋をしてきた痛み。兄たちが背負ってきた重荷。父ヨセフの心の痛手。全ては神さまの御手にあり、計らいの中にあった・・・という気づきです。世界帝国エジプトの大統領であったヨセフは、ゆるしを選んだのでした。と同時に、導かれたと言ってもいいと思います。そして事の発端は、兄たちが三日の間牢屋に入れられていた間に至った発想です。神さまが何かを意図しているのでは、という発想です。私たちもこの発想を抱きたいと思わされるのです。ついつい、忙しさのせいなのか、その発想が抜け落ちるのが私たちなのかもしれません。神さまはここで、わたしに・・・札幌バプテスト教会に何かを意図している、それは何であろうかという祈りです。もしも、この祈りが抜け落ちるとしたら、教会は、教会でなくなってしまいます。でもその逆はどのような姿でしょう。ヨセフと兄弟たちは、到達不可能であろうとしか思えないクライマックスを経験するようになったのです。「まさかこうなるとは」という感動と驚き、神さまの救いに与る体験です。

 今日の礼拝の最初にイザヤ書のみ言葉を聴きましたたが、もう一度味わいたいと思います。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、/わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。天が地よりも高いように、/わが道は、あなたがたの道よりも高く、/わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」。私たちの想像や思いを超える、真実である神さまに期待する私たちでありたいのです。

(牧師・西本詩生)

 


『 忘れ そして、実り 』

コリント人への第二の手紙4:16

創世記41:50~57

2024年9月15日(日)

 

子どもメッセージ

 僕は以前アフリカのマラウイという国で2年半過ごしました。マラウイでの生活は、別世界と思えるほど、いろんな面で「驚き」を感じ、今まで慣れていた生活との「違い」を感じる時でありました。例えば、毎日使う言葉は日本語ではなく、現地のチトゥンブカという言語でした。「明日」という言葉は、基本的には文字通りの「一晩明けた次の日」という意味の「明日」なのですが、「明日以降」の意味も含まれるのです。ですから、僕は、「明日」誰かとお会いすることを約束したと思っても、その相手にとっては、一週間後の感覚でいてもおかしくなかったのです。このような言葉の違い・・・時間の感覚の違いで悩まされることも多くありました。

 マラウイ人のお名前も、僕から見れば「ホホー!これはまた新しい発想だなぁ」と思わされることがしばしばありました。例えば、ある日「コンピューター」という名前をもつ青年とお会いすることがありました。名前が「コンピューター」なんです。ちょうどコンピューター・パソコンが普及し始めた時に(1990年代)生まれた彼だったと思いますが、名付けた人が「最先端・最前線に進み行く人であってほしい」という思いを込めて名付けたのでしょうか。また、このようなお名前の人と出会うこともありました。「マヴート」さん。そのお名前にどういう意味があるかというと、「マ」という言葉は「沢山」とか「いっぱい」という意味です。そして「ヴート」は、「問題」とか「困難」という意味を持ちます。「マヴート」という名前は、「いっぱい」「問題」・・・「沢山」「困難」・・・そういう意味の名前なんです。ミスター「問題だらけ」が直訳でしょうか。なかなか興味深い名前だと思いませんか?ちょっと失礼だったかもしれませんが、僕はそのマヴートさんに直接聞きました、「なぜ『問題だらけ』という意味を持つ名前をつけられたんですか?」。生まれた瞬間から、イタズラばっかりを仕掛けるスーパーベビーだったのか・・・密にそう思っていたところでしたが、こういう答えが返ってきたのです。「僕が生まれた年に、村をまるごと流してしまうような大洪水があったんだ。生まれた時、問題だらけでした。その頃に僕は生まれ、だからマヴートになったんだ。」と。村も畑も、みんなの仕事と生活も、何もかもひっちゃかめっちゃか状態だったけど、その只中からマヴートさんが誕生したんです。「新しい命」という喜びが村の新たな出発となったんです。僕は、その説明を聞いてホッとしました。これから数か月、マヴートさんと一緒に仕事をするところでしたので、マヴートさんご自身が問題だらけということではなく、問題から抜け出した・・・問題に区切りを打つような、新しい出発になった・・・そのシンボルとして立つマヴートさんと一緒に仕事をすることになったのです。

なぜマヴートさんのお名前についてお話をしているかというと、マヴートさんのお名前の意味と重なると思える、興味深い名前が今日の聖書に登場するからです。今日の聖書に登場する人の名前はマナセです。マナセというお名前には「忘れさせる」という意味が込められています。ミスター「忘れさせる」・・・催眠術でも使って、相手に、さっきまでやっていたことを「忘れさせる」のでしょうか。そういう意味でのマナセさんがいたら、どうなっちゃうんでしょう。人のことは言えませんが・・・何もされなくても、頻繁に物忘れをするんですから、さらに忘れ事をするとなるととても困っちゃいますよね(笑)。つまりこんなことが言えると思うんです。忘れたら困るものもあれば、本音を言えば忘れちゃいたい記憶もあります。恥ずかしい事とか、嫌なことをされた事、悲しい事とかは忘れたい記憶かもしれません。けれども、忘れちゃいたい記憶であればあるほど、忘れられないものなのでしょう。しぶとくずっと残るのが忘れたい記憶だと思うのです。

 今日のお話に登場するマナセさん・・・その名前をつけたのは、マナセのお父さんでした。マナセのお父さんは、ここ数週間注目しているヨセフさんです。ヨセフさんは、忘れたい記憶があったから、あえて、自分の子どもを「忘れさせる」という意味の名前をつけたのです。「忘れさせる」という意味だと、説明がないと「?」になると思います。先ほどの「問題だらけ」という意味を持つマヴートさんのお名前に似ています。そして、マヴートさんのお名前と同じように、マナセという名前は決して悪い・・・否定的な意味でつけられたわけではありません。むしろ、マナセは新たな出発のシンボルになったわけです。ヨセフさんは、忘れたい記憶・・・嫌な記憶が沢山あったものの、そのような嫌な思い出に押しつぶされることなく、「家族が与えられる」という喜びを見出すことになったのです。と言うのも、ヨセフさんの二人目の子どもは「実りに実り」という意味を持つ名前にしたのです。過去の忘れたい思い出に引きずられるのではなく、嬉しいことも感じ取れるヨセフさんになったのです。そして、それは偶然そうなったのではなく、神さまがそうしてくださったと、ヨセフは思わされていたのでした。あの、忘れたい出来事のただ中でも、ずっと一緒にいてくださった神さまがそうしてくださったとヨセフは確信したのでした。

 

落ちるところまで落ちたヨセフ、そこで見つけたのは

 2週間前のお話では、17歳のヨセフが10人のお兄さんたちに、深い穴に突き落とされた場面に注目しました。それからどうなったかというと、通りかかった商人たちによって、ヨセフは引き上げられ、命が助かりました。でもそれで状況が良くなったわけではなく、ヨセフは更なるどん底を見ることになったのです。生まれ育った国とは全く違う国・・・エジプトに、奴隷として売り飛ばされたのでした。

 今日のお話の最初で、私の、マラウイでの経験(協力隊時代)について触れましたが、言語も文化も生活習慣も全く違う環境に行くことだけでも困難が伴うものだと思います。でも、僕の場合は自分の意志でそのような変化を求めたのですが、ヨセフの場合はそうではなかったのです。自分の意志とは全く関係なく、変化が押し寄せてきたのです。

 ヨセフは、父ヤコブの偏愛の対象であった故に、極端に守られた環境の中で育ったと思います。兄たちは、野宿しつつ、獣からの危険にさらされながら、家畜のお世話をする務めがあったものの、ヨセフだけはその仕事から外されていたと言えるでしょう。父に甘やかされ、守られ、可愛がられながら17年間過ごしてきたヨセフでしたが、今度は、家畜同様に扱われてもおかしくない、主人の“所有物”である奴隷となったのです。「天と地」の差・・・「地と地獄」の差、その位の極端の落差であったと言えると思います。

 聖書だけに登場する考えではありませんが「地獄」という考えがあります。「黄泉の世界」と呼ばれることもあります。そして、聖書で初めて「地獄」という考えが紹介されるのが、ヨセフ物語なのです。兄たちに突き落とされたあの穴が・・・その単語が「地獄」と言う言葉の根っこにあるものです。人からも、神さまからも関係が絶たれてしまったとしか思えない、その状況が地獄を物語っているのです。全てからの断絶を意味します。でも不思議にも、ヨセフは、地獄としか思えない困難の只中で、神さまの不思議な守りと支えを経験することになったのです。神さままでもが自らを見捨てたと思っていたその状況の中で、実は神さまがずっと一緒におり、善き力に囲まれていたことを何回もヨセフは経験することになるのです。

 

「忘れさせられた」

 今日は41章の場面に注目していますが、兄たちにあの穴に突き落とされてから13年が経っています。30歳のヨセフです。そして、30歳のヨセフは、当時の世界で断トツの経済力と軍事力を誇るエジプトの事実上のナンバー2に任命されたのです。その直前までは、冤罪で牢獄に入れられていたのですが、エジプトの王の夢を説き明かすことができたゆえに、国の運営を任されたのでした。7年間、豊作が訪れ、そしてその後の7年間は大飢饉が訪れるという夢を説き明かし、その見通しに基づいて、国の政策を進めることを任されたのでした。どん底を見たヨセフでしたが、今度は大逆転を経験することになったのです。

 この直後に、ヨセフはエジプト人と結婚をし、二人の息子が生まれました。聖書はこのことについてこう語っています。「ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、『神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた』。また次の子の名をエフライムと名づけて言った、『神がわたしを悩みの地で豊かにせられた』。」と。

 ヨセフには忘れたい、心痛む記憶があったのです。神さまによって、それらの記憶が「忘れさせられた」と言っているのです。これは単純に、記憶が無くなる、あるいは、思い出すことはないという意味ではないのでしょう。そもそも、二人の息子の名前は、エジプト語で名付けたのではなく、ヘブライ語で名付けたのであり、自らのルーツを思い出させるような形であえてそうしたのです。又、42章に突入すると、兄たちとの再会の場面が繰り広げられるのですが、兄たちに見捨てられ、裏切られたという痛みは消えていないことが、そのやり取りから真っすぐに伝わってくるのです。ここでいう「忘れ」とは、記憶を消すという意味ではなく、苦難だけではなかったと言っているように思うのです。孤独のなかで、もうダメだと何度も思ったそのどん底でも、実は神さまがずっと一緒におられたという気づき・・・この確信をマナセという名前に込めたのだと思うのです。苦難と悩みだけに囚われるのではなく、神さまに期待する実りにも目が開かれた・・・そういう意味で次男をエフライムと名付けたのだと思うのです。エフライムは「実りに実り」という意味を持ちます。

 

神さまがくださる安心にホッとする

 今日の朝まで、小学生たちのお泊まり会が開かれました。みんなは何時まで起きていたのでしょう?付き添った皆さん・・・本当にお疲れさまです。このプログラムは当日関わったスタッフだけに支えられたのではなく、多くの方から覚えられたんだなぁと子どもたちも実感したことだと思います。お菓子の献品だけでなく、昨日の晩はホテル並みのバイキングだったのですが、そこに並べられたおかずや食材の多くは皆さんから寄せられたものでした。大先輩の皆さんから応援されていることを、感じる時間となりました。

 今日は幸齢者祝福礼拝としてこの時間を過ごしています。人性の先輩方にエールをお送りすると同時に、その歩みと経験から多くを得させていただいていることに感謝をする礼拝でありたい・・・そう願っています。

 時々耳にすることで、そして、私自身も幾度も思わされてきたことですが、人生の先輩方が安心して礼拝をささげるその姿にホッとさせられます。その安心とは、神さまがくださる安心だと言えるでしょう。山あり谷ありという人性の中で培われてきた安心・・・今日の聖書のお話のヨセフも見出した安心です。みんながヨセフのように、波乱万丈の人生を辿るのではないのですが、それでも、神さまがどんな時でも一緒にいてくださり、励ましてくださり、力づけてくださるという同じ安心・・・先輩方の姿からそれを教わり続けたいと思うのです。

 

十字架上で“忘れられた”イエス・キリストから生じた実り

 私たちはこの空間で、イエス・キリストの十字架を前にして礼拝をいつもささげています。ある角度から見れば、その十字架は苦難の象徴です。でもその同じ十字架は、苦難を意味するだけでなく、実り、豊かさ、救いの象徴でもあります。十字架上で“忘れられた”イエス・キリストから、みんなの実りが生じた・・・この信仰に私たちは招かれているのです。

 ヨセフほどに及ぶものでなくても「忘れたい記憶」というもの「引きずっている記憶」が皆それぞれにあるのかもしれません。それは悲しみであったり、痛みであったり、後悔であったり様々です。自分にも他人にも誠実であるために、しっかりと向き合わなくてはいけない記憶もあります。ヨセフの兄たちは、自分たちの過去に向き合わなくてはいけませんでした。でも独りでそれに向き合うのではなく、共におられる神さまと一緒に向き合うのです。その揺らがない安心の中で、神さまの支えと力添えを見出していきたいと思わせるのです。

 

(牧師・西本詩生)

 


『 誰ひとり欠かすことのできない命 』   

マタイによる福音書1:1~6前半 

創世記38:24~30

2024年9月8日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 みんなは「系図」って知っていますか?家族がどんな風につながっているかを表す図のことです。その人のお母さん・お父さん、おばあちゃん・おじいちゃん、ひいおばあちゃん・ひいおじいちゃん、ひいひいおばあちゃん・ひいひいおじいちゃん、ひいひいひいおばあちゃん・ひいひいひいおじいちゃん、ひいひいひいひいおばあちゃん・ひいひいひいひいおじいちゃん・・・・と、どんどんさかのぼっていきます。逆に、その人の、子ども、孫、ひ孫、ひひ孫、ひひひ孫、ひひひひ孫、ひひひひひ孫・・・と、どんどん降りてもいきます。そして、そうやって見てみると、実はとってもたくさんの人とつながりがあるんだってことがわかってきます。さて、聖書の中には、イエスさまの系図が書かれています。でも、図になっているわけではなく、名前がズラッと書いてあるだけなんで、とってもわかりにくいです。こんな感じです。「アブラハムはイサクのお父さん、イサクはヤコブのお父さん、ヤコブはユダとその兄弟たちとのお父さん、ユダとタマルはパレスとザラとのお父さんとお母さん・・・」。聴いているだけだと、よくわかんないでしょ?ただ、ちょっと最近聞いたような名前がいくつか出てきたと思います。それで、図にしてみました。そしたら、こんな感じになります。アブラハムはイサクのお父さん。イサクはヤコブのお父さん。ヤコブはユダとその兄弟たちとのお父さん。ちなみに、このユダの兄弟たちの中に、今ちょうど読んでいる聖書物語の主人公であるヨセフもいます。そして、ユダとタマルは、パレスとザラとのお父さんとお母さん・・・。さて、ここで問題です。この中で、一人だけ、他の人たちとちょっと違う人がいますが、誰でしょう?そう、タマルです。タマルだけ、女の人なんです。この系図、なんだか男の人の名前ばっかりなんだけど、タマルだけは、女の人なのに、この系図に名前が載っているんです。そして、この系図はまだまだこの後ず~っと続いて、イエスさままで続いていきます。つまり、タマルはイエスさまが生まれるまでの系図の中の、大切な一人だったということです。イエスさまが生まれるためには、この人を欠かすことはできなかったという、その一人だったということです。だから、どうしてもその名前を、この系図に残したい。本当だったら、男の人の名前しかないこの系図に名前が載るはずではないんだけど、そんなルールはひっくり返しても、ここに名前を挙げたい・・・そんな一人だったということです。じゃあ、そのタマルって、どんな人だったんだろう・・・。それが、今日のお話です。

 

◆ 二人の息子を失ったユダ

 タマルは、ユダの長男であるエルと結婚した、カナン人の女性です。ユダの父はヤコブ、ヤコブの父はイサク、イサクの父はアブラハムです。ところが、この夫エル・・・つまりアブラハムの息子である、イサクの息子である、ヤコブの息子である、ユダの息子であるエルは、神さまの目に悪を行う人物であったため、死ぬことになります。聖書的に、イエスさまに続く素晴らしい血統であるはずのエルでしたが、残念ながら、その行いは神さまの目には悪と映りました。こうして、エルはタマルとの間に子を残す前に、死ぬことになりましたので、父ユダは次男オナンに、この兄の妻タマルをめとるようにと命じます。これって、先に死んだとは言え、自分の兄弟の妻だった人と結婚するということですので、現代のぼくらが聞くとギョッとしますが、何も特別なことだったわけではなく、“レビラート婚(同族婚)”と呼ばれる、自分たちの部族を絶やさないための慣習に倣って命じられたことだったんです。ですから、むしろ、当時は、こうしなければならなかったということです。ところが、このユダの次男であるオナンは、タマルを妻として迎えて、子どもが生まれたところで、それは死んだ兄のために子孫を残すことになるだけで、自分のものにはならないことを知っていたため、それを拒みました。そのことが、神さまの前に悪とされ、彼もまた死ぬことになりました。

 

◆ 悲しい仕打ちを受けたタマル

 こうして、長男エルのみならず、次男オナンをも失ったユダは、深い悲しみに落ちます。そして、その悲しみの中で、段々と彼は、嫁タマルが、息子たちの死の要因となった“疫病神”のように思えてきてしまったようです。それで、“レビラート婚”に則れば、次は三男のシラが彼女をめとり、兄の子孫を残そうとしなければならないのですが、シラがまだ幼かったこともあり、ユダはそのままタマルを実家に帰らせることとしました。そう聞くと、ユダがタマルを自由に解放してあげたかのようにも聞こえますが、それはまったく違います。当時の社会においては、女性が子を産まないままに家に戻されることは、恥ずべきことだと考えられていたからです。ですから、これは「これ以上、タマルのせいで、自分の息子が死んではたまらない」というユダのエゴによる行いに他ならず、タマルにとっては、とても悲しく不条理な仕打ちだったのです。実家に戻されたタマルは、静かに機を待ちました。やがてシラが成長し成人を迎えれば、きっとまた呼び戻され、ユダの家に迎え入れられると信じて・・・。しかし、残念ながらその時は来ませんでした。

 

◆ 舅ユダによって子を宿したタマル

 そこで、このタマルはとうとう自ら行動に出たのです。どうにか先に死んだ夫エル、の名前を残すための行動だったと捉える人たちもいますが、ぼくはそうではなかったんじゃないかと思っています。むしろ、タマルはカナンの女ではありましたが、エルの妻として迎えられたことにより、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれた聖書の神さまの祝福に触れ、何とかその祝福の内に留まりたいと願ったのではないかと思うのです。ただ、舅であるユダは、もはや彼女を三男シラの妻として迎えるつもりはないことは、明白でした。そこで、彼女は非常手段に出たのです。彼女は、被衣(かずき)で顔を覆い、遊女のフリをして、舅ユダに近づきました。何も知らないユダは、彼女のことを遊女だと思い込み、彼女と関係を持ちます。そうして、彼女はユダの子をその腹に宿したのです。彼女の執念にゾッとしなくもありませんが、彼女の行動は、当時の規定ギリギリの行動であったと言うことができます。“レビラート婚”においては、名前を残すために結婚する義務は、「死んだ者に一番近い親戚」にあるとされています。夫エルが死に、そのすぐ下の弟である次男オナンが死に、「死んだ者は一番近い親戚」に当たるのは、当然、その下の三男シラということになるわけです。ただ、この三男シラについては、舅ユダが手放さなかったわけですから、タマルにしてみれば、彼はいないも同然とされてしまったということです。そうなると、残る「一番近い親戚」とは、エルの父ユダ自身となるわけですから、タマルがユダを通して子どもを産んだことは、規定に照らした行動であったということです。逆に、当然なすべき社会的責任を果たしていなかったのは、ユダの方でした。ユダ自身も、後に、そのことを素直に認め、告白しています。

 

◆ ユダよりも一枚も二枚も上手だったタマル

 でも、最初にユダの耳に、この嫁タマルが妊娠したという知らせが届いた時、彼は憤慨しました。彼は、まさかあの遊女が、嫁タマルだったとは知る由もなかったからです。夫である我が子が死んだとはいえ、一度は自分の家に嫁いだ嫁が、見ず知らずの他の男性との間に子をもうけたと知り、「裏切られた!」とカンカンに怒りました。そうして、彼はタマルを焼き殺してしまおうと、自分の許へと呼び出しました。そこで、呼び出されたタマルは、舅ユダに対し、お腹の子がユダ自身の子であることを告げ、いきり立つ彼を黙らせるのです。実はタマルはこの時のために、遊女のフリをしてユダに近づいた時に、彼が彼女と関係をもったことを示すことができる証拠を、周到に残していたのです。その証拠を突き付けられたユダは、もはや、そのお腹の子が自分の子であると認めざるを得ませんでした。そして、「彼女はわたしよりも正しい」と、彼は力なく宣言するのです。

 

◆ むしろ神様に祝福された女タマル

 こうして、タマルは、ペレヅとゼラという双子の赤ちゃんを産みました。そして、なんとこの二人も、あのアブラハムから続き、イエスさまの系図を構成する子孫として紹介されているのです。今日、招詞として読んでいただいた、マタイによる福音書1章にあるイエス・キリストの系図の中には、ユダとタマルの名と共に、「パレスとザラ」という表記で、この「ペレヅとゼラ」の名が記されています。つまり、アブラハムから始まり、ダビデ王へと続き、やがてはイエス・キリストまで続く系図は、このドロドロとした、ユダ一家とタマルとのストーリーによって、つながれているということです。しかも、ユダと彼のもともとの妻との間に生まれた子どもたちによってではなく、その後、自分の息子の嫁であったタマルに、半ばだまされるような形で、彼女のお腹に宿った子によって、この血統がつながれたのです。ですから、このマタイ福音書に記された系図は、イエス・キリストの血統の正統性を表すための系図というのではなく、キリストが罪深い人間の内に誕生されたことを表す系図であると説明されます。それは、確かにその通りです。そして、特に系図の中にたった四人だけ登場する、いわゆる“曰く付き”の女性たちについては、まさにその人間の罪を表す象徴として、そのことを記憶するために、名前が挙げられているようにすら感じられます。でも、それだけのために彼女たちの名前が挙げられているのではないと思うのです。むしろ、イエス・キリストが誕生するに至るその過程において、この女性たちの存在は、決して欠かすことのできない存在だったということだと思うのです。神さまは、彼女たちに大切に目を注がれたのです。そもそもタマルがあのような行動に出なければ、このユダの血統はあそこで途絶えていたんです。少なくとも、ユダからパレス、エスロン、アラム、アミナダブ、ナアソン、サルモン、ラハブ、ボアズ、オベデ、エッサイ、そしてダビデへと続く家系は生まれませんでした。人の目には「疫病神」としか映らなかったかもしれない、この一人のカナンの娘・タマルに、神さまはしっかりと目に注がれ、祝福され、イエスさま誕生に向けての大切な“キーパーソン”のひとりとされたのです。

 

◆ 誰ひとり欠かすことのできない命

 毎週、教会の外の掲示板に、説教題と一緒に、道行く方々に向けて、説教にちなんだショートメッセージを掲示させてもらっていますが、今週のショートメッセージには、このように書かせてもらいました。今日は「召天者記念礼拝」という名前で礼拝をもちます。「召天者」とは、「神さまによって天に召された人たち」のことで、先に天に召された158名の方々の名前を、礼拝の中で一人ひとり読み上げます。100才を超えておられた方もいれば、生まれて間もなくだった方もいます。家族で教会員だった方もいるし、クリスチャンではないけれど、独り身だったことで、教会で見送ることになった方もいます。痛ましい形、悲しい仕方で死を迎えることになった方もいますし、死別の悲しみを拭いきれぬままに過ごしておられる遺族も少なくありません。それぞれの命にそれぞれ様々なドラマがあるわけですが、神さまの目には、そのどの命も、決して欠かすことのできない命として映っていると、聖書は宣言します。ですから、ぼくら人間が、命と命の重さを比べたり、亡くなった人の人生を勝手に評価したりすることはできないのです。

ぼくらの目にどんな人生だと映ろうとも、神さまの前には欠かすことのできぬ命であるのだということを覚えつつ、今日の礼拝を過ごします。

 

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 わたしには夢がある 』

マタイによる福音書19:30

創世記37:3~11、18~36

2024年9月1日(日)

 

子どもメッセージ

 今日のお話の主人公であるヨセフは、最低・最悪な一日を過ごしていました。ヨセフが17歳の時のことでした。17歳と言えば、「これから将来どうしようか・・・この学びに進もうか、あのお仕事に挑戦してみようか、この趣味はおもしろそうだなぁ」などなど、将来に目線を向け、夢を描き、ウキウキする時期だと言えるでしょう。その17歳のヨセフは突然 “どん底に”落ちてしまったのです。

 

 ヨセフにはお兄さんが10人いました。けれども、お兄さんたちと仲が良かったわけではありません。今流行っているヒット曲を一緒に聞いたり、野球の試合に連れてってもらったり、どのようにすれば、気になる相手に目を向けてもらえるかを教わることもありませんでした。お兄さんたちはヨセフの面倒をみるどころか、ヨセフを最大限に憎んでいました。自力では登り切ることができないとても深い穴を見つけ、お兄さんたちはヨセフをそこに投げ込んだのでした。ヨセフの命・・・ヨセフが思い描いていた将来の夢を無理やり終わらせようとしたのです。

 

 深い穴に落とされたヨセフでしたが、そこにはWiFiもスマホの電波もありません。〇天堂〇イッチでお友だちとゲームをすることもできなく、コンビニに行く事もできなく、〇INEで誰かに助けを求めることもできません。暗すぎて、聖書すら読めないのです。人生の底・・・文字通りの“どん底”に突き落とされたのでした。

 

 お兄さんたちから見れば、ヨセフを憎むきっかけは2つありました。①ヨセフがお父さんのとびっきりお気に入りの息子であったということです。「おとうちゃんは自分たちには厳しいのに、ヨセフに対してはあまやかすばっかりだ」と思っていたのです。そして②つ目のきっかけは、ヨセフは「夢を見る人」であったということでした。ヨセフは実現できそうもないことばかり考える、夢を見る人(夢想家)だったのです。

 

 ヨセフのように夢を見る人は、スーパーヒーローのような超人ではなく、ごく普通の人です。普通の人ですが、“普通”を超えた事を思い描き、夢見るのです。そして、どこにでもいるごく普通の人ですので、完璧な人ではなく、弱みもあります。ヨセフもしかりでした。ヨセフはどちらかというと、自分が言ったことで、相手がどう反応するかを想像することが苦手だったのでしょう。自分の夢が、お兄さんたちを怒らせてしまうだろうという発想がなく、ためらうことなく、夢の内容を全部言ってしまうのです。お父さんに特別可愛がってもらっていることが、お兄さんたちを怒らせて、自分に向けられた嫉妬になるという想像力が欠けていたのです。正直言うと、お兄さんたちに比べれば、ヨセフは楽をしながら生活していました。お兄さんたちは。羊やヤギのお世話をするという負担がかかるお仕事をしていました。でもどうやら、ヨセフはそのお仕事をしなくてよかったのです。そうはいっても、弱さがあったり、お父さんに特別に可愛がられていたりしたからと言って、穴に突き落とされることはあまりにもひどいことです。ヨセフが暗い穴の中に居続ける間、お兄さんたちは穴のすぐ外でバーベキューを楽しんでいました(25節)。お兄さんたちは、弟が、夢と一緒に消えてしまえばいいのにと思っていたのです。お兄さんたちにとって、ヨセフの見ていた夢は、“悪い夢”でしかなかったのです。そのため、ヨセフをなるべく避けたく、目線から遠ざけ、彼の事を思うことすらしたくなかったのです。ですので、最終的にはヨセフを穴に投げ込む事で終わらせず、遠い国の人たちに、奴隷として売り飛ばしたのです。実の弟をお金に変えたのでした。弟があまりにも大きな夢・・・理解し難い、受け入れ難い夢を見るからそうしたのです。彼の夢を、現実にならないように終わらせたく、その夢に秘められた“ちから”をなかったことにしようとしたのです。

 

 ところが、ヨセフの夢は神さまが与えたものでした。ヨセフはどのような夢を見たのでしょう?こんな夢でした。ヨセフは、お兄さんたちと一緒に畑で草を束ねていました。すると突然、ヨセフの束がまっすぐ立ち上がって、お兄さんたちの束がその周りに集まり、ヨセフの束に身をかがめたのでした(7節)。そして一つの夢だけでは十分ではなかったのか、もう一つの夢を見ました。「太陽と月と11の星が私に身をかがめた」とヨセフは自分の夢がどのような夢であったかをお兄さんやお父さんに伝えたのでした(9~10節)。どちらの夢も同じことを物語っていました。いずれ、ヨセフは王さまのように偉くなって、お兄さんたちも含めて、家族全員がヨセフに身をかがめて、ひれ伏すというものでした。ヨセフでさえこの夢の意味が分かりませんでしたが、弟であるヨセフが、あたかも王さまのようになり、家族全員がヨセフに頭を下げるなど、すんなり受け入れられるような夢ではなかったのです。

 

 今日のお話を読みながら、思うんです。神さまはみんなに夢を与えて下さっているということです。というのも、先ほどお話した二つの夢はヨセフの夢ですが、家族全員の夢でもありました。家族全員がその夢に含まれているのですから。ですので、誰ひとり欠けることなく、神さまは夢を与えてくださっているのです。「僕には夢はない」・・・聖書はそうは言わせないのです。年齢とか、健康であるかどうかとか、この特技があるかないかとか、しっぱいし続けてしまったとか・・・関係ないのです。神さまは、みんなに夢を与えてくださっているのです。

 

 ここで、五年前(2019年)に召されたN先生のあるエピソードについて聞いたことがあり、それを思い出すんです。S牧師とI牧師の就任按手式が開かれ、その礼拝の後の愛餐会で、お祈りをお願いされたのです。その時のN先生は入退院を繰り返し、体調がよいとは言い難い状況にありましたが、その場ですくっと立ち上がって、力強く祈ってくださったと聞いています。就任按手式の日でしたので、牧師たちのことはもちろんのこと、今の教会員に限られることなく、これから巡り合うお一人おひとりのこと、諸教会の協力伝道のことについて熱く祈られたのでした。そのお祈りの記録がありましたので、一部分だけ読み上げたいと思います。「あなた様を、私たちが見続けることができますように ・・・ 。 歩み続けることができますように・・・。時にはつまずいて倒れることもございましょう。でも、その時に助け起してくださいますあなた様の御手をまたしっかりと感じながら立ち上がることができますように・・・と、これからのお助けを切にお願いを致します。」

 

 この時のN先生は、それ以前に比べれば働きは限られていたと言えるのでしょう。でもこのように、その場でお願いされて、お祈りが溢れてきたという事は、夢を描き続けていたからだと思うのです。そうでなければ、自然と湧き出てこないと思うのです。「わたしには夢はない」・・・聖書はそうは言わせないのです。N先生のこのエピソードは、これを示しているのではないかと思うのです。

 

神さまが与える夢は逆風に直面し、でも実現へと向かう

 今日のところでもう一つ思わされることがあります。神さまが与える夢というものは目の前にある“常識”を超えて・・・その“常識”に捕らわれないということです。ヨセフは12番目の子ども・・・11番目の息子でありましたが、お父さん、お母さん(レアのこと(ラケルはこの時点で召されていました))、兄弟たちも含めて、家族全員が彼をひれ伏すという夢でした。その夢がその通りになるとしたら家族の在り方・・・家族の秩序がひっくり返されるのです。そして、この物語を読み進めていくと、ヨセフの夢・・・この家族に与えられた夢はその通りになるのです。

 

 神さまが与える夢は目の前の“常識”をひっくり返すという点は、聖書の他のお話にもつながっています。イエスさまのお話で言うと、「先が後になり、後が先になる」という言葉(マタイ19:30)、あるいは「悲しむ者は幸いである」(マタイ5:4)と言う言葉が思いつきます。パウロの言葉で言うと、「弱さが強さ」(コリント二12:9)、「愚かさにある賢さ」(コリント一1:25)、「命を得るためには、自分に死ななくてはいけない」(ローマ6:8)という考えが重なるのです。

 

 けれども目の前の“常識”がひっくり返されるから、ヨセフの兄たちは怒るのです。ヨセフは目の前の世界とは異なる世界を見ていました。家族の在り方・・・その秩序を覆す世界です。でも、兄弟たちにとってそれは受け入れられないものでした。なぜなら、その夢が現実になるとしたら、その家族内における彼らの主導権・パワーが薄まるからです。父親からヤコブに向けた愛情のしるしである長袖の着物を兄たちはヨセフから奪い取り、ヨセフの希望を奪おうとしたのです。兄たちは今までの現実、今までの秩序のほうがよかったのでしょう。けれども、ヨセフの夢はその世界を変えてしまうため、彼らは弟に悪事を働かせました。神さまが与える夢は、今までの“常識”を超え、それに捕らわれず、そのために逆風にあうのです。別の言い方で言うと、神さまが与える夢はそう簡単には実現しないのです。でもさらに言うと、逆風や困難に直面しながらも、必ず実現するのが、神さまが与える夢です。ヨセフに与えられた夢は長い年月を経て実現していきます。家族全員を救うために、実現されていくのです。私たちの生涯のうちに夢が実現するかどうかは分かりませんが、神さまが与えてくださる夢は必ず実現するのです。

 

「とかちエテケカンパ」の働き~み国が来ますように

 僕は、木曜日と金曜日、超教派のグループが主催するセミナーに参加するために、帯広に出かけてきました。今回の出張では、7つの教派からの参加があり、普段お話できない方々と交わりをもつこともでき、また参加したセミナーがとても新鮮で、有意義な二日間となりました。

 

 参加したプログラムのなかで、帯広市でアイヌの子どもたちに教育支援を行う「とかちエテケカンパの会」の活動のお話を聴くことがゆるされました。「エテケカンパ」とはアイヌ語で「手を重ね合わせる」という意味で、その会に関わる方々がどのように子どもたちと接しているのか・・・どのように寄り添おうとしているのかが伝わってくると思わされるのです。「手を重ね合わせる」という意味を持つ「エテケカンパ」ですが・・・実際報告を伺うなかで、差別と貧困の現状にぶつかり、心折れそうな場面は幾度も経ながらも、子どもたちに対する忍耐強い愛情・・・手と手が重なり合うことで互いに伝わる温もりを持って、困難を乗り越えてきた活動だと個人的には思いました。

 

 活動報告をしてくださった方は現役の小学校教員であり、日本基督教団O教会の教会員です(以後Aさんと呼びます)。Aさんは会の発足当初から関わり、30年以上、週に一回、子どもたちの勉強支援をし、その他にキャンプや運動会、遠足、クリスマス会、入学と卒業を祝う会など、親子で参加できるイベントも開かれているとのことでした。これまで300人ほどの子どもたちを送り出してきたそうです。

 

 お話をお聴きするなかで、いかにアイヌの子どもたちが、自分たちがアイヌであることにほこりを持つことが難しいかが伝わってきました。それがまっすぐに伝わってくるのがこのようなエピソードでした。この夏に、アイヌの子どもたちを連れて、カナダの先住民が住む町を訪ねたそうです。その町に住むほとんどの人がカナダの先住民です。空港で、多くの人が子どもたちを暖かく迎え、その先住民に代々引き継がれる踊りと歌が披露されている録画を報告の中で紹介していました。1週間ほど、カナダの先住民と過ごし、言語の壁に躊躇しながらも交わりを深めたそうです。そして日本に戻り、感想文にこういう言葉が載っていたのです「はじめて自分がアイヌであることを誇りに思えた」と。「こどもたちが心からこのような事を思えたこと・・・この一点だけでも大金をかけてでも、子どもたちをカナダに連れて行く意味があったと思える」とAさんはおっしゃっていました。同時に他のスタッフの方が残念な表情をしながらこのようにも言っていました。「なぜ、カナダまでいかなければ、このような思いが湧いてこないのだろうか・・・と考えてしまいます。日常の中で、自然と自分のルーツに誇りが生まれてくるのが普通ではないだろうか。でも、そうはならないというのが、現在の状況です。日常の中で、何かがそれを止めているとしか思えない。私たち(周りの社会)がそれを止めてしまっているのではないかと問われましたね。」。

 

 今日の説教で、「とかちエテケカンパ」のお働きを紹介しているのは、ヨセフに与えられた夢のように、人々を生かす壮大な夢が「とかちエテケカンパ」の歩みに示されていると思わされるからです。恐らく、Aさんがこの活動に関わるのは、Aさんの信仰と切っても切り離せないからだと思うのです。目の前の現状をそのままで受け入れず、それに捕らわれず、超えていくことを想像する壮大な夢があるのです。「先が後になり、後が先になる」という神の国の幻です。喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣くという神の国のリアリティです。人々の救いにつながっていく夢です。

 

 先ほどN先生のエピソードを紹介しながら、神さまの夢は既にみんなに与えられていることについて触れました。そして実は・・・毎週礼拝の中でその夢の実現を祈り求めているのです。主の祈りです。「み国・・・神さまの国が来ますように。みこころが・・・神さまの思いが、天と同じように、私たちの目の前の地でも行われますように」と、祈り求めているのです。神の国を求め、それを夢見るわたしたちでありたいのです。

 

(牧師・西本詩生)