『 世界のあちこちで発見!こんなところにも神さま 』
出エジプト記3:12
創世記28:10~17
2024年7月28日(日)
◆ こどもメッセージ
今日は先週のエサウとヤコブのお話の続きです。ふたりは双子の兄弟でした。後から生まれてきたヤコブは、「ぼくが先に出たい!」って思ったのか、エサウのかかとをつかんで生まれてきたということでしたね。さて、年を取って目が見えなくなってきたお父さんのイサクが、お兄さんのエサウを呼んで、「死ぬ前にあなたを祝福したいから、鹿肉のスープを作って食べさせてくれ」と話しました。ところが、そのやり取りをこっそり聞いていたお母さんのリベカは、その祝福を弟ヤコブに受けさせたいと思いました。そして、ヤコブを説得して、エサウになりすまして、代わりに祝福を受けさせてしまったんです。さあ、頼まれた鹿肉スープを、心を込めて作り、お父さんに届けたエサウ。ところが、お父さんはもうヤコブに祝福を与えてしまっていたのです・・・。怒ったエサウは「間もなく父さんが死んだら、絶対にヤコブを殺してやる」と心に誓いました。つづく・・・ここまでが先週のお話でした。ドロドロしていますねえ。ドロドロしてはいますけど、ヤコブについては、お母さんに説得されたから、お父さんをだましただけでした。・・・本当にそうかな?きっかけを作ったのはお母さんだったかもしれないけど、ヤコブの演技は大したものでした。ヤコブとお父さんとのやり取りの中で、ドキッとする場面が4回くらいあります。1回目は、お父さんに「お前はだれだ?」ときかれた時。2回目は、「どうしてこんなに早く作って来られたんだ?」ときかれた時。3回目は、「本当にエサウか、触ってみたい」と言って触られた時。そして4回目は、「本当にお前はエサウか?」と念を押された時。そう簡単にはお父さんのことをだませなかったんです。でも、ヤコブはめげませんでした。そして、「本当にお前はエサウか?」と念を押してきたお父さんに、「はい、エサウです」とツラーっと答えてしまうんです。とても、お母さんにそそのかされたから、仕方なくお父さんのことをだましただけだった・・・ということとは、ぼくには思えません。お母さんにきっかけを作ってもらって、失敗した時の保証もしてもらえて、「しめしめ」とお父さんをだまし、祝福を手に入れたんじゃないかな。ただ、そんな簡単なことでは終わらないのが、人生ですね。
祝福を手に入れたのは良かったけど、エサウ兄さんの怒りを買ったヤコブは、自分の家にはいられなくなってしまいました。仕方がないので、遠くに住んでいた、お母さんのお兄さん、つまりおじさんの家に向けて旅立つことになったんです。ヤコブは、きっとガッカリしながら、旅をしたんじゃないかな。「こんなことなら、祝福をだまし取ったりするんじゃなかった・・・」って思ったかもしれません。そんな風にションボリしながら歩いていたら、だんだん辺りが暗くなってきました。寝るところもないので、そこら辺に落ちている石を枕にして寝ることにしました。周りは真っ暗・・・枕は固いし、オオカミでも出て来そうで怖いです。そんな中、ヤコブは夢を見ました。天まで届くはしごを、天使たちが上ったり下りたりしています。そして、神さまがこんな風に話しかけてきたんです。「あなたの子孫は、地のちりのように多くなって、西、東、北、南に広がるよ。そして、すべての人々が、あなたとあなたの子孫によって、祝福を受けるだろう」。あれ?また、「祝福」って出てきました。ヤコブは、お兄さんからもう「祝福」をだまし取ってきたはずでした。でも、神さまはヤコブに言ったんです。「あなたは、祝福を受けるよ」って。ヤコブは、「祝福」っていうのは、自分で手に入れられるものだって思っていたんだろうけど、でも実は、「祝福」っていうのは、神さまが与えてくださるものだったんです。ひとりぼっちになって、何にもなくなって、ヤコブには、初めてその神さまの声を聞こえました。「わたしは、あなたを祝福するよ」って語りかける声が・・・。そして、ヤコブはこう言いました。「神さまは本当にここにいてくださったのに、ぼくはそれを知らなかった」って。知ってたつもりで、実際には知らなかったんです。でも、「知らなかった」って、自分でそう思えたのは、素敵なことだなって思います。だって、知らなかったって思えるからこそ、神さまが本当にここにいてくれるって知れたことを、喜ぶことができるからです。ただ、ヤコブがそう感じたのは、ひとりぼっちになって、色んな大切な物を失ってからでした。自分の力ではどうしようもなくなってから、ようやく神さまが共にいてくださることを知り、神さまが「祝福」を与えてくださるということを知ったんです。そうなることが必要だったってことです。それって、ぼくらには、とってもしんどいことだけど、それでも神さまは、神さまが共におられることを、ぼくらが本当の意味で知ることができるように・・・、それを喜ぶことができるように・・・、しんどい所を通らされることがあるってことです。逆に言えば、ぼくらがしんどい思いをしている時・・・それは、神さまが共にいてくださることを、本当の意味で知ることに、近づいているってことです。「神さま、こんなところにもおられたんですか?」って思えるようなところで、神さまはぼくらを待っていているからです。
◆ 『知りませんでした』~水野源三さんの詩
知りませんでした 知りませんでした
主イエスが 主イエスが こんなにもわたしにとって すばらしい方とは
知りませんでした 知りませんでした
主イエスの 主イエスの 十字架での苦しみが わたしのためとは
知りませんでした 知りませんでした
主イエスの 主イエスの 愛に富まれる御心が はかりがたきとは
知りませんでした 知りませんでした
主イエスの 主イエスの 悩む時 苦しむ夜に 助けが近きとは
聖歌隊が歌ってくださったこの『知りませんでした』という讃美歌の歌詞は、“まばたきの詩人”と呼ばれた水野源三さんの詩から取られています。9才の時、赤痢による高熱のために脳性麻痺となり、手足の自由とことばを失った源三さんは、お母さんの助けを受け、まばたきをすることで自分の意思を表わすようになりました。そしてやがて、詩を生み出すようになっていったのです。一時期は死だけを望む日々でしたが、ある牧師の訪問によって、聖書に出会ってからは、感謝を覚える日々を過ごすようになっていかれました。身体が動かないのもことばを発せないのも何も変わってなどいませんでしたが、源三さんはその自分の傍らにいつも神さまがおられたことを、聖書を通して知ったのです。ところが、源三さんはその喜びを、自らの詩の中で「知りました」とは表現せず、「知りませんでした」と表現するのです。ぼくは、源三さんのこの「知りませんでした」という表現が大好きです。
◆ 2016年度の主題聖句として
「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。闇の中で、神さまから祝福を約束されたヤコブがつぶやいたこの言葉を、今から8年前の2016年、この教会は主題聖句として選びました。執事たちがそれぞれ、主題聖句として選びたいと集めた聖句の中から選ばれた聖句です。そして、その年度の総会資料の冒頭に収められた『牧師通信』には、このように記されています。
年間聖句として選ばれたこの聖句は、旧約聖書に登場するヤコブの言葉です。兄をだまして怒りを買い、自分の家にいられなくなったヤコブは、その逃避行の始まりにおいて、夢の中で主に祝福の言葉を語られ、「わたしは知らなかった」とつぶやいたのです。ヤコブも、そしてその家族も、主の祝福をまるで自分たちの財産や所有物であるかのように理解し、その奪い合いを繰り広げました。その末に、家族は崩壊し、ヤコブは家を出なければならなくなったのです。無念の内に石を枕にして眠ったヤコブは、その人生の中で、最もみじめな想いをしていたのではないでしょうか。しかし、目を覚ましたヤコブは、そのところにこそ主がいてくださったと語るのです。まさか主がおられるとは思えない、ここにだけは主がいるはずがないと思えたであろう孤独なその場所で、彼は初めて主の臨在を感じ、主の祝福の意味を知らされていくのです。
昨年度は、牧師体制の交替、年間行事の変更、礼拝での証しの導入、毎主日の夕礼拝実施、祈祷会の内容変更、週報の体裁変更など、私たちの教会にとっては様々な変化を伴った年でした。しかし、それは私たち人間的な視点ではそうかもしれませんが、その所に主が伴ってくださったという一点においては、この教会の伝道が開始された64年前から何も変わらない・・・いやもっと以前、あの旧約聖書の時代から何も変わらない事実であることを、私たちは確認したいのです。そして時に「主は本当にこの所にいてくださるのだろうか?」とうめくことをも共にすることのできる・・・そのような群れとして歩んで参りたいと願っています。
そしてこの年度の活動方針の柱のひとつとして、「地域に向かってキリストを証しする」という項目が立てられ、そこにはこのような言葉が記されていました。
今年の特別伝道集会は、例年行ってきたように、外部から講師を招いて行う形式ではなく、私たちの教会が等身大で人々を教会に招き、来てくださった方々が「この人々と共に信仰に生きたい」と願ってもらえるような、教会員の証や讃美を中心とした集まりをイメージしています。
具体的には、「特別讃美礼拝」というプログラムを行いました。教会員が証しをし、証しの中で紹介された讃美歌を歌う。翌年には、もっと地域の人たちが来やすいようにと、日曜日の午後に「讃美歌を歌う会」としてもたれるようになりました。神さまが共におられるということを、知っているつもりになってしまっていた自分たちの姿勢をみんなで省み、それぞれがそれを知ることのできた喜びを、証しし合っていこうと語り合ったんです。来てくださった方々が「この人々と共に信仰に生きたい」と願ってもらえるような教会になりたい・・・と。そのために、神さまが共にいてくださることを知った喜びを・・・いや、それを知らなかった自分たちのことも含めて、自分たちのことばで証ししたい・・・と。そんな教会みんなの思いと祈りの込められたプログラムを、今年また行うことができたことを、とても嬉しく思っています。
◆ 祝福は“わたしのもの”でも“わたしたちのもの”でもない
ヤコブは、神さまの与えてくださる「祝福」とは、自分の父と兄とをだまして、奪い取ることのできるものだと理解していました。でも、父から「祝福」を得たヤコブは、代わりに家族と家とを失うことになりました。得た物よりも、失った物の方が、ずっと大きく感じられたのではいでしょうか。家を追われて就いた旅路で、ヤコブは神さまに出会わされました。自分自身の力で勝ち取ったつもりでいた「祝福」でしたが、神さまは改めて彼に「祝福」を与えると約束するのです。しかも、その「祝福」が、ヤコブと彼の子孫を通して、全地のあらゆる諸族、つまりすべての人々に与えられるという約束でした。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。きっと自分のものとしてしか「祝福」について考えていなかったヤコブにとっては、衝撃的な言葉だったんじゃないでしょうか。そして、眠りからさめたヤコブが思わず呟いた言葉こそ、この言葉でした。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。祝福とは、“私だけのもの”でもなければ、“私たちだけのもの”でもないのです。私たちを通して、すべての人々が祝福を受けることが約束されているんです。私たちだけでないすべての人々が祝福を受ける。私たちも、そのことを願い、祈り、その実現のために行動するのです。
◆ 祝福を得たからといって・・・
父からだまし取った祝福ではなく、神さまからの祝福の約束を得たヤコブでしたが、だからと言って、そこから始まるヤコブの旅は、決して平坦な道になったわけではありませんでした。彼は、その後、今度は自分が幾度となくだまされ、遠回りを余儀なくされていくのです。その意味でも、ヤコブが祝福の約束を聞き、神さまが共におられることを知り喜んだのは、決して物事が順調にいったから・・・とか、思い通りに事が進んだから・・・とか、自分たちの益を守れたから・・・とかいうことでは、決してなかったということです。少なくとも聖書は、そのようには紹介していないのです。孤独と不安と葛藤と後悔のそのただ中で・・・、そして、その状況は何も変わらないはずなのに、ヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と語ることになったのです。
◆ 「知らなかった」と語り合い、証しするために送り出される群れとして
今年度も、ぼくらは何度もこのヤコブの言葉を語ることとなるでしょう。ぼくらは、どこまでも不完全です。神さまが共にいてくださることを知っているつもりになってしまい、それを知ることの喜びを、また幾度となく忘れて過ごしてしまうでしょう。神さまの祝福がすべての人に向けられていることを重々知っていながら、争うことも多いでしょうし、排他的になり自分たちの益ばかりを求めてしまうことでしょう。だからこそ、ぼくらはこのヤコブのように、神さまの前に何度でも立ち返らされていきたいのです。そのために、ぼくらは毎週この“礼拝”に集められてくるのです。そしてここで、順調にいっているからでも、思い通りにいっているからでもなく・・・いや、そうはいかないからこそ、「知らなかった」と正直に語り合いながら、それでも、まことに神さまはここに共にいてくださることをまた知らされ、その喜びを証しするためにこの礼拝から送り出されていく・・・そんな群れであり続けたいと願うのです。
(牧師・石橋大輔)
『 “家族” 』
イザヤ書45:15
創世記27:18~29
2024年7月21日(日)
子どもメッセージ
幼稚園のお友だち・小学生は夏休みがはじまりましたね。学校のいろんなことから解放され、この時期が一番ワクワクする時かもしれません。せっかく勉強から自由になったばっかりなのにこんなことを言うと、怒られてしまうと思いますが、夏休みの自由研究というものがあると思います。そして、もしも、その自由研究でこんなテーマに注目するとしたら皆さんはどんなふうに語るでしょうか。「皆さんの家族や親戚を紹介する」というテーマです。もしも、家族や親戚を学校で紹介するとしたら、どういうふうにするでしょうか。
今日の聖書では、ある家族が紹介されています。その家族のあたたかい面も紹介されていないわけではありませんが・・・正直「そこまであからさまに??の部分まで語るだろうか」と思わされるぐらい家庭の様子がありのままで紹介されているのです。
さあ、どういう家族なのでしょう。このお話に題名をつけるとしたら「双子の運命:裏切りと復讐」 がぴったりかもしれません。【画像1】 舞台は古代のパレシチナ地域。母リベカはお腹の中に双子を授かりました。父イサクは見守っていました。【画像2】そして、双子がお腹の中にいた時から、お互いぶつかり合って母リベカを悩ませました。これから展開していく、兄弟の緊張関係を予感させているのでしょうか。【画像3】出産の日を迎えました。長男エサウは毛深い赤ちゃんでした。【画像4】そして、弟ヤコブはお兄さんのかかとを掴みながら生まれてきました。【画像5】エサウは野生的なハンターとして育ちました。【画像6】次男ヤコブは滑らかな肌を持ち、家の中で過ごすことが多い人として育ちました。【画像7】見た目も性格も正反対の双子の兄弟。エサウは父イサクの愛情を受け、ヤコブは母リベカの愛情を受けながら育つことになりました。エサウは思ったのでしょう・・・なぜ母ちゃんはヤコブばっかりに注目するのだろう。そして、ヤコブは思ったはずです。なぜ父ちゃんはエサウばっかりを甘やかすのだろうか・・・と。親の偏った愛情がきっかけとなったのか・・・お互いに対して嫉妬を抱くようになりました。
【画像8】 時が経ち、父イサクは年老いてほとんど目が見えなくなりました。もう家の事は息子に任せようと思ったのでしょうか、一番大好きな長男エサウを祝福しようと思いました。祝福の儀式をするために、狩りをして、おいしい肉料理を作るようにと頼みました。【画像9】このやり取りを、母リベカは聞いていて急いでヤコブを探しました。エサウにではなく、ヤコブに祝福を与えてほしいと思ったのです。【画像10】リベカはヤコブに、兄に成りすまして父親の祝福を受けるように仕向けようとしました。でもヤコブは断りました。父親を騙したくないという思いからではなく、兄に成りすましていることがばれることが心配だったのです。そしてばれた時には、呪われてしまうことを恐れたのです。ヤコブは言いました「私の肌はツルツルだけど、兄のエサウは毛深い。」【画像11】でも母リベカはめげませんでした。「そんな呪い、私が引き受けるから、私の言う通りにしなさい。」【画像12】結局、ヤコブは羊の毛皮を身にまとい、エサウの服を着て、毛深いエサウのように見せかけるようにしました。父イサクがもうすでに、目がほとんど見えないのを利用することにしたのです。そして、父イサク好みの肉料理を母リベカが作り、ヤコブはそれをイサクのところに持って行きました。【画像13・14】声の響きもどこか違うし、動物を狩るのがあまりにも素早かったので、イサクは、本当に目の前にいるのがエサウであるか確信を持てませんでした。【画像15】ヤコブもドキドキだったのでしょう。でも、何とか受け答えることで、父イサクを騙すことに成功し、本来エサウが受けるはずだった祝福を自分のものにしました。【画像16】しばらくすると、エサウが狩りから戻ってきて、作った料理を父に差し出しました。「お父さん、お腹すいたでしょ。」と。【画像17】イサクは耳を疑いました。さっきの男は誰だったのか?まさか・・・だまされたのか!?震えながら言いました。「もうすでに祝福を与えてしまった。その男がおまえエサウだと思ったんだ。」。【画像18】あまりのショックにエサウは泣き崩れました。【画像19】そして、その時気づいたのです。弟ヤコブに裏切られたということを。【画像20】怒りが湧き上がり、エサウは自分に誓いました。父が亡くなった後に、絶対ヤコブに復讐をしてやるぞぅ・・・と。
今日の家族の様子・・・一言、二言では言い表せない家族だと言えるでしょう。この家族が、自分の親戚であったら、どういうふうに紹介していいのか戸惑うかもしれません。「エサウおじさんは狩りの名人なんだ!」は自慢げに紹介できると思います。でも・・・リベカおばさんとヤコブおじさんが結託してイサクおじさんを騙し、エサウおじさんは怒り狂っていることはなかなか明かせないことだと思います。
ちなみに、この家族は、誰の親族だと思いますか?実は、イエスさまの親族なんです。びっくりですよね。この家族からイエスさまへと続いていくのです。
聖書という本は、神さまの考えがここにあると信じられて読まれます。神さまの息がかかった特別な本です。そして、僕は思うんです。もしも、人間の思いだけで書かれたものであれば、今日の場面のように、何も隠さず、物事の様子をあからさまに描く事はしないということです。イエスさまのルーツが、決して誇れるような・・・自慢できるような輝かしいものではないことが平然と語られているのです。皆さんはどう思うでしょうか。やっぱり、僕は、聖書は、私たちの思いを超えて、神さまの思いが詰まった大切な本だと思うのです。そして、教会にとって、なくてはならないものなのです。
“家族”
皆さんは「家族」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。2017年に実施されたあるアンケートで「自分が育ってきた家庭は『理想の家庭』だと思いますか?」と調査したところ、「はい」の回答は46%で、「いいえ」の回答は54%でした(451件の回答)。半数以上の人が、「理想ではなかった」と答えたのです。
理想だったと回答した方からこのような感想がありました。「笑顔の絶えない家庭だった」「大切に育ててくれたから」「家族仲がよかった」「親子関係がよく、何でも話せる関係だった」など。そして、「いいえ」と答えた方の感想にはこのようなものがありました。「両親が不仲」「教育が厳しかった」「虐待された」「貧乏だった」など。「家族・家庭」というものは、その経験と印象は様々であることが分かります。そもそも、このアンケートの質問に対して「はい・いいえ」と、二者択一で答えられるものではないのかもしれません。
昼ドラ顔負けのドロドロドラマ
私たちはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続いていく物語を読み進めています。そして、その「家族」に目を向けると、現代の昼ドラ顔負けのドロドロ(・・・・)ドラマが繰り広げられているのです。親からの偏った愛があり、裏切りがあり、親子が結託して父親を騙し、騙した者が騙され、絶縁があり、復習があり、殺人未遂があり・・・「なぜこのような家族の物語が・・・聖なる書・・・聖書に紹介されているのだろうか」と読者は思うはずです。ユダヤ人のルーツを物語っているのですから、ユダヤ人にとっては恥ずかしいエピソードの連続です。このような説明を聞いたことがあります。イスラエルの部族の間でいつも摩擦が起きていたので、その根本的原因を語るために、先祖のドラマが語り継がれたのだ・・・と。そうなのかもしれません。
隠れたる神
けれども、なんとも不思議です。皆さんもお気づきでしょう。物事がドロドロになればなるほど、神さまが全く登場しないのです。聖書のナレーターでさえ、物事の道徳的評価を下しません。善い・悪い・・・うんともすんとも言わないのです。
ある人はこう言うかもしれません。「こんなにもめちゃくちゃでドロドロな人間関係の場面に神さまを持ち込むなど、場違いだ」と。アーメンと言いたい反面、本当に場違いなのだろうかと思うのです。聖書に、神さまがおられないということはあり得るのでしょうか。
いいえ。神さまはここに・・・このドラマの影におられるのです。あたかも、木から木へと飛び移り、隠れている黒子のような存在なのです。ドロドロドラマでさえ、神さまが意図している物事を止めることができないのです。アブラハムに与えられた・・・万民に与えられる祝福の意図・・・神さまの意図が背後で推し進められているのです。こどもメッセージでも言いましたが、この家族は主イエスの先祖です。このドロドロ物語を通りながらも、イエスさまにある救いへと続いていくのです。
破れの中で、生きて働く神さま①
先ほど紹介したアンケートで、半数以上の方が「自分の家庭は『理想の家庭』ではなかった」という結果でした。このアンケート結果は、“家族”についてあることを投げかけていると言えるでしょう。ともすると、“家族”という言葉を持ち出すと、あたかもそれが、透明に澄んだ善良のものであるかのように物語れるのかもしれません。私は、この講壇から、そのような美しい家族像を偏って語ってきたのだと思います。でもアンケート結果は、果たしてそれだけなのだろうかと投げかけてくるのです。
私は3年半という、比較的短い期間しか牧師をしていませんが、“家族”というものは一つの色で描けるようなものではないことを何度も見せられてきました。先輩牧師であればあるほど、アーメンと言うと思います。どんな家庭であれ、理想な家庭を目指しているのだと思います。でもなぜかそうならない・・・この現実を・・・この葛藤の現実を、今日のみ言葉は描いているのだと思えてならないのです。
そして、今日のみ言葉からも福音が輝いています。神さまは、平凡な家族を通して、祝福と救いのご計画を進めたのではありません。ドロドロで問題だらけの家族・・・深刻な亀裂と破れが生じているその葛藤の只中でも生きて働くことをお示しになったのです。積み重なる問題は、神さまの祝福を止めることはできないのです。
破れの中で、生きて働く神さま②
以前、東京の教会で出会ったある先輩信徒の女性の方がおられました。今日の箇所を読みながら、その人の証しを思い出しました。彼女の証しはこのようなものでした。「父は戦場を経験し、その記憶が影響したのでしょう、アルコール中毒でした。ひどく酔うのは日常茶飯事で、庭の木に縄で縛られて刃物を突き付けられた記憶もあります。家はとても貧しくて、生活は苦しかったです。そのような家庭で育ち、自分を愛することはできませんでした。20代になり、自分の家族を持ち、幸せな家庭を築きたいという思いでいっぱいでした。長男が生まれ、子育ての大変さもあったのか、なかなか自分の子どもを真っすぐに愛せませんでした。しばらくして次男も生まれ、忙しさに追われながら過ごしていました。またさらに月日が過ぎ、そこで聖書に出会うことになります。私は神さまに愛されていることに気づき、はじめて自分を愛していいことに気づいたのです。」このような証しを語った彼女は、実の父親を晩年介護する中で、ある程度の仲直りをしたと語っていました。
この女性の方は、私の母です。そして、その証しに登場する「父」は僕の祖父です。いろんな面で尊敬する祖父ですが、深刻な破れを抱えていたのです。そして私の母も、また別の破れを抱え、私自身も破れと歪みを抱えるのです。
このような家族を持つ私ですので、3千年前のドロドロドラマは、私の目の前で繰り広げられる物語であることに気づくのです。同時に、見えない神さまが・・・隠れた神さまが、不思議にも救いと癒しへと、物語を推し進めていることに気づくのです。
今日の福音は何でしょう?神さまは、皆さんを、皆さんの家族をご自分のものとされたということです。どんなに問題が山住であっても、関係ないのです。神さまの側から決意されたのです。そして、私は確信しています。どんな問題だらけの家族であれ、どんな破れを抱える家族であれ、その只中で、隠れた神さまが生きて働いておられるということを。このことを一緒に見出していきませんか?
(牧師・西本詩生)
『 合わせることができない矛盾までも編まれる
神さまの働きかけ 』
伝道の書3:1~3、11
創世記25:27~34
2024年7月14日(日)
子どもメッセージ
皆さんは、自分の頭の中ってどうなっているか考えたことありますか?病院でレントゲンを撮ればすぐ分かるよ!という人がいると思いますが、今日はそういう意味で言っているのではありません。私たちの頭の中がどういうふうになっているんだろう・・・このテーマを探ったアニメ映画があります。「インサイド・ヘッド」という映画です(直訳:頭の中)。【画像1】主人公はライリーという11歳の女の子。趣味はアイスホッケー。【画像2】そして、ライリーの頭の中には5つの感情が住んでいます。その5つの感情を紹介したいと思います。【画像3】ライリーがいつも楽しくいられるようにする「ヨロコビ」です。ヨロコビはいつも明るく、気づけば鼻歌を歌っています。【画像4】危ないことをしないようにする「ビビリ」。決め台詞は「やめたほうがいいよ~(;゚Д゚)」。【画像5】嫌いなことを決める「ムカムカ」。もちろん決め台詞は「やだ・・・やだやだやだ」。【画像6】腹を立てる「イカリ」。なぜか服装はサラリーマン風。【画像7】そして、ライリーを泣かせる「カナシミ」。得意芸は・・・そうです、泣くこと。【画像8】この5つの感情がライリーの頭の中に住んでいました。もしかしたら、みんなの頭の中にもこの5つの感情が住んでいるのかもしれませんね。
5つの感情たちは、いつもライリーが幸せでいられるように、「司令部」というところで働いていました。【画像9】司令部の奥には、「思い出ボール」というものが飾られていました。感情たちが役目を果たすと、それぞれの色に染まった「思い出ボール」が生まれるのです。この十一年の間に溜まったボールは、ほとんど黄色。ヨロコビは暇があればそれらのボールを眺め「あーなんていい思い出ばかりなんだ・・・ウフフフ」と自分に言い聞かせていました。ほとんどのボールが黄色であることはヨロコビの誇りでした。【画像10】でも、ヨロコビにはなかなか納得できないことがありました。それは、カナシミが司令部で役目を果たすと、ライリーが泣いてしまうことです。なんのために、カナシミがいるのか、ヨロコビにはさっぱり分かりませんでした。
【画像11】とある日、ライリーとライリーの家族は、ライリーが生まれ育った小さな町から、大都会に引っ越すことになりました。ライリーの親たちが、その大きな町で新しい仕事をすることになったのです。ライリーにとって、はじめての引越しです。【画僧12】わくわくしながら着いた新しい家は想像と違って、何だか暗い感じ。荷物は届かないし、父ちゃんの新しい仕事で問題があったとか・・・。落ち込むライリーですが、ヨロコビの頑張りと、母ちゃんのやさしい励ましで、元気を取り戻し、新しい学校に行くことになりました。【画像13】ヨロコビは、これ以上ライリーに悲しい思いをさせないように、カナシミに頼みました「あなたは何もしないで、じっとしていてね」。でも、カナシミは言うことを聞かず、ライリーが一番大切にしていた黄色の思い出ボールをさわってしまいました。すると、そのボールの色が青くなってしまいました。【画像14】司令部でこんな事が起こっていることは、ライリーは全く知りませんでした。そして、ちょうどその時、ライリーは学校で自己紹介をしようとしていました。最初は笑顔だったものの、突然泣き出してしまいました。【画像15】この時、司令部では、ヨロコビとカナシミが我を失うほどぶつかり合っていました。あまりにも激しくもめ合ったため、気づいたら司令部の外に飛び出してしまいました。【画像17】司令部に残っていたのは、ビビリ、ムカムカ、イカリという3つの感情。それぞれありのまま、自由にするばかり。【画像18】当然のことライリーは情緒不安定のまま過ごすことになりました。
【画像19】しばらくすると、ライリーは密かに計画を立て始めました。それは、自分一人で、ちょっと前まで住んでいた町に帰ることです。でも帰るためには、バスの切符を買わなくてはいけません。お金が必要なのです。ある夜、バスの切符を買うために、大好きな母ちゃんのお財布からクレジットカードを盗み、一人で家を出てしまいました。もう誰もライリーを止められません。
【画像20】ライリーがこのような計画を立てている間、ヨロコビは深い深い谷底に落ちてしまいました。そこは、忘れられる思い出がどんどん消えていく場所でした。よく見ると、青と黄色が混ざった、ライリーの思い出ボールがありました。【画像21】それは、ライリーが大好きなアイスホッケーの試合で、負けた時のものでした。自分のせいで負けたと、悲しくて泣いたライリーを、父ちゃんや母ちゃん、チームメイトが励ましてくれて、ライリーはとても幸せな気持ちになったのです。ヨロコビは、このボールを見つめながら気づいたのです。悲しい思いをしたからこそ、喜びが生まれるということです。今まで、何でカナシミがいるのかが分かりませんでしたが、カナシミがとても大事な役目を果たしていたことに気づいたのです。ヨロコビは自分に言いました「早く司令部に、カナシミと一緒に戻らなくちゃ。ライリーが危ない!」。
【画像22】何とかして、カナシミとヨロコビは司令部に戻ることができましたが、もうすでにライリーはバスに乗って、出発を待っていました。【画像23】ヨロコビはカナシミを、司令部のコンソールの前に引っ張っていき、こう言いました。「さあ、あなたの出番よ。ライリーはあなたを必要としているの。あなたならできる。」。カナシミは迷いながらも、コンソールに手を伸ばしました。コンソールに触れると、青色に染まり始めました。【画像24】すると、ライリーはハッとさせられました「母ちゃんと父ちゃんのところに帰らなくちゃ」と思ったのです。バスを降り、心配している父ちゃんと母ちゃんのところに走って戻りました。【画像25】いざ、戻るとライリーは泣き出してしまいました。「寂しかったの。昔の家に帰りたかったの・・・怒らないで。」と。【画像26】すぐさま家族3人はハグをし、父ちゃんと母ちゃんも、前の家が恋しいこと・・・同じ気持ちであることを優しく話しました。それを聞いたライリーはにっこり笑顔になりました。【画像27】その時新しい思い出ボールができました。でも、今回は一つの色ではありません。青と黄色が混ざったボールでした。そして、ライリーは12歳になり、思い出ボールにはいろいろな色が混ざるようになりました。きっと素敵な思い出が増えていくでしょう。
ライリーの頭の中のお話でしたが、「そういう時あるなぁ」と思わされるのは、僕だけではないと思います。最初は、何の役に立つのだろうと思わずにいられないカナシミという感情も、実は大切な役割があるって気づくには時間がかかり、あらゆる困難があったけど、いざ気づくと感動が全然違います。そして、この困難を乗り越えるための鍵となったものは何だったか・・・と考えると、それはやっぱり愛情だったのでは、と僕は思うのです。ライリーに対する5つの感情からの愛情はもちろんの事、ライリーの家族からの愛情も鍵だったのではないかなぁと思うのです。そして、聖書に言わせれば、ライリーは神さまからどっぷり愛されていて、神さまからの愛情が支えたのだと思うのです。
相反する矛盾のようなもの~葛藤を抱きながら生きる~
子どもメッセージでは、ライリーの物語を観ましたが、私たちの内にも、なかなか合わせることができない、相反するもの・・・矛盾のようなものがあるのだと思います。それは必ずしも感情でなくても、過去の出来事もそうです。本音を言えば“なかった方がいいのに”と思わずにいられない葛藤を抱えながら生きるのが私たちなのではないでしょうか。例えば、このような“相反するもの”を抱えながら過ごしているのだと思います。
喜びに微笑んだ時もあれば、悲しくて涙を流した時もあります。誇り高く輝いた時もあれば、あまりの恥ずかしさで顔を真っ赤にした時もあります。真っすぐに本心を全面に出した時もあれば、仮面を付け、本当の自分を前に出さずにいた時もあります。心から相手を受け入れる時もあれば、心も身も防御する時もあります。忠実で信頼できる人になりたいと思いつつ、自分自身も含めて、人を裏切ったこともあります。信念を持って真っすぐに日々を過ごした事もあれば、後ろめたさを覚えながら妥協を重ねてきました。自分なりに小さな平和づくりをしたこともありますが、対立を引き起こした事も事実です。私の人生は多くの点で豊かで、多くの点で貧しいのです。思いやりを持って物事を進めた事もあれば、無関心で機械的に過ごした時も思い出します。何かしら助けとなった相手の名前を挙げることができますが、同じように、傷つけた人の名前を挙げることができます。私は時に許し、時に裁き、時に攻撃的になりました。誰かの力になれればと思い、声を挙げた事もあれば、恐れと諦めで沈黙を保った事もあります。私は愛し、でも同じぐらい怒り、憎んできました。人類の輝きのようなものに多少協力した事もあり、同時に人類の醜さに加担してきました。皆さんも・・・なかなか調和できない相反するもの・・・葛藤を抱えていないでしょうか?少なくとも「この感情・・・あの過去・・・この一面はないほうがいいのに」と思う事は誰にだってあるのでしょう。
相反する矛盾のようなものを編まれる神さまの働きかけ
今日の聖書は、相反する双子の姿を描いています。兄、エサウと、弟、ヤコブです。何をするにしてもぶつかり合ってしまう二人です。見た目も、性格も正反対です。エサウは毛深く、動物を狩ることが得意な人となりました。片や、ヤコブは、性格が穏やかで、ほとんど室内で過ごしました。エサウは父親に愛され、ヤコブは母親に愛されました。母、リベカのお腹の中にいた時でさえ、二人は「押し合っていた」のです(22節)。そして、私たちもリベカのように内なる葛藤を抱え、神さまに祈り求めるのでしょう「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」(22節)。
結局、兄エサウは長子の権利を弟ヤコブに手渡すことになりました。なぜ、エサウが長子の権利を軽んじたかについて、聖書は全く説明しません。むしろ、今日の場面で、神さまが全く登場せず、読者である私たちはどうにもすっきりしないのです。でも、神さまが前に登場しないからなのか、エサウにもヤコブにもどちらにも価値判断が下されません。○×と価値判断をしない神さまが、実は背後におられ、暖かく見守っていることに気づくのです。なぜなら、それぞれの物語が、不思議なかたちで、一つの物語として編まれていくからです。神さまの救いの物語に、相反するエサウとヤコブが編まれていくのです。どちらも必要とされるのです。
私たちの内にも、エサウとヤコブの間にあったような葛藤があるのでしょう。ついつい私たちは、○×を付け、その緊張関係をなくそうとします。ライリーの物語で言えば、ヨロコビはカナシミの存在意義が分からずにいました。神さまは私たちが抱える相反するものを、まるごと受け入れるのです。緊張が保たれたまま、神さまが働きかけてくださいます。私たちが、自らの内なる矛盾を受け入れ始めるとどうなるでしょう?恐らく、他人にも寛容になりはじめます。あれかこれという、○×の世界を乗り越えていけるのかもしれません。いえ、神さまはそれを期待しているのです。
ここまでは、一個人の内なる葛藤に注目しましたが、私たちの教会に目を向けるとどうでしょう?“相反するもの”とまで言わなくても、なんとも言えない緊張関係が存在するように思うのです。新しいものと古いもの。この活動とあの活動。あの人とこの人。あの人と私。何等かの価値判断を下し、その何とも言えない緊張をなくそうとしたいのが自然なのでしょう。けれども、今日のみ言葉は、隠れた神さまに目を向けるように招くのです。価値判断をしない神さまが、実は暖かく見守っていて、矛盾のようなものまでも編まれていく御業に目を向けるように招いてくださっているのです。ライリーの物語で葛藤を乗り越えていく鍵となったのは、愛情ではないかと提案しました。私たち一人ひとりも、札幌バプテスト教会も、神さまの愛の御手の内にあることを覚えていたいと思います。私たちの葛藤・・・矛盾のようなものまでも編まれていく神さまの愛の御業に目を開いていたいものです。
(牧師・西本詩生)
『 一筋縄ではいかないのが神さま流
~実り多い祈りのせいかつ 』
ペテロの第一の手紙5:6~7
創世記25:19~26
2024年7月7日(日)
子どもメッセージ
皆さんも、時折、アルバムを眺めながら、ちょっと前の事を振り返って、その思い出を味わう事があると思います。たとえば、先日は幼稚園の運動会があり、その時の写真を目にする事で、“あの”楽しさや、“あの”感動がよみがえってくるのです。写真でなくとも、ビデオや録音も同じような効果があるのでしょう。
僕が30代後前半の時であったと思いますが、実家で、あるアルバムをパラパラっとめくっていました。そのアルバムに束ねられていたのは、僕が中学一年生ぐらいの時の写真でした。「あー、そういえばこんな事もあったなぁ」と思いながら観ていました。すると、ある写真が目に止まったのです。「こんな事があったんかい!?」と心の中で思い、思わずびっくりしちゃいました。何が写っていたかというと、シンガポールの教会で、ある聖書の物語の劇を演じていたのです。【写真1:アブラハムが、息子(私)の手を結んでいる光景】。今日の聖書で登場する「イサク」という人を、僕が演じ、「イサク」のお父ちゃんである「アブラハム」を、僕の実の父ちゃんが演じたのでした。ここで何が起きているか分かりますか?何でみんな笑っているんでしょうね。この物語をまだ耳にしていないお友だちもいると思いますので、最初からお話します。
【絵本1】とある地で、アブラハムという人が住んでいました。アブラハムはサラと結婚していました。二人は年をとっていて、子どもがいませんでした。ある晩、神さまの声が聞こえてきました。【絵本2】「アブラハム。この夜空の星を数えてごらん。」神さまは、アブラハムに秘密の計画を伝えるつもりでした。アブラハムはまだその秘密の計画を知るすべもなく、星を数え始めました。「1・2・3・・・997・998・99?・・・あれ?分からなくなっちゃったな。」アブラハムはお手上げでした。「神さま!星がありすぎて、数え切れないですよ。」神さまは答えました「そうだろ!アブラハム。あなたにこの星の数と同じぐらいの子ども、孫、ひ孫・・・沢山の家族・子孫を与えよう。数えきれないくらい大勢になる。」これを聞いて、アブラハムは思わず吹き出しそうになりました。心の中で思いました「まさか。わしにはただ一人の子どもさえいないのに。だいたい、子どもが生まれて、育てる年でもない。もう85歳だというのに。」でも、どうやら神さまは本気でした。神さまは続けて話しました、「あなたとサラ、そして生まれてくる家族は特別な家族だ。あなたの家族を通して、世界の全ての人が祝福を受けることになる。」これを聞いてアブラハムは心の中で思いました。「またさらにすごい事を神さまは言うなぁ。まーでも、神さまがそう言うのなら、そうなるんだろうなぁ。」と。【絵本3】この何とも不思議な神さまの計画を告げられてから、15年が経って、サラとの間に念願の子どもが生まれました。その子をイサクと名づけました。神さまの不思議な計画が、イサクを通して実現することを期待し、年をとってから生まれた子であるということもあり、アブラハムとサラにとって、イサクは可愛くて可愛くて仕方ありませんでした。
【絵本4】そんな可愛い可愛いイサクでしたが・・・イサクが少年になった時のある日、アブラハムのところに神さまの声が聞こえてきました。「アブラハム。あなたは、いつも、思いを込めて私に動物をささげてくれている。でも今日は動物ではなく、息子イサクをささげなさい」。アブラハムは耳を疑いました「え?息子イサクの命をささげるだなんて。どうして神さまは、そんなひどいことをお願いするんだ。」と内心思いました。アブラハムは心が真っ二つに割かれるほど悩みました。でもこれだけは分かっていました。神さまは、イサクを愛しているということを。そして、アブラハムがどれだけイサクを愛しているかを、神さまは分かっているはずだと。この思いにしがみつきながら、イサクをささげるために、山を登り始めました。【絵本5】結局、山の天辺で、イサクをしばりつけ、ささげる準備ができ、刃物をイサクに向けることになってしまいました。しかし、その瞬間天から声が届きました。「アブラハム!アブラハム!その子に手をつけちゃいけない。」【絵本6】神さまからのブレーキがかかったのでした。こうして、イサクの命は助かりました。そして、その瞬間、羊がそばにいたため、神さまにその羊をささげることになったのでした。
皆さんに投げかけたいと思います。自分がイサクであったら、この出来事を忘れると思いますか?自分の事を可愛くて可愛くて仕方がない父親アブラハムに、命を取られてしまう一歩手前まで行った・・・この出来事を忘れることはないと思います。
けれども、僕はこの場面を中学一年の時に演じたのですが、すっかり忘れていました。【写真1】実家にあったフォトアルバムを観るまで、その記憶をあえて消していたのかもしれません(笑)。写真をよく観ると、アブラハム役のうちの父はニヤニヤしています。【写真2:刃物を持つアブラハム】。刃物を向ける瞬間でもかすかにニッコリしています。【写真3:羊がいけにえとしてささげられている場面】でも・・・人の事は言えるほどではありません。イサクの代わり・・・自分の代わりに羊さんがささげられる場面では「しめしめ」という感じで、僕もニヤニヤしています。
ともかく、イサクご本人は、この出来事を一生忘れることは無かったと思います。そして、時折この事を振り返りながら強く思わされた事があったと思います。命というもの・・・人生というものは、最終的に、神さまに任せるしかないということです。自分の願いや思いは、存分に発揮して、それをいくらでも神さまに投げかけていいのですが、それに対して、神さまがどのように答えるのかは、私たちには分からないということです。そして、時には、神さまが意地悪であるかのように思えてならないのですが、神さまは私たちに最もよい未来を望んでいて、実際それを用意してくださっている・・・こられらの事を、イサクは思い知らされたのだと思うんです。イサクにとって、忘れられない出来事となったのでした。
何のための選びと祝福なのか
今日から3か月をかけて、後々イスラエルと呼ばれる「選ばれし家族」の物語を読み進めていきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続いていく物語です。現代のイスラエル国家は、容赦ない虐殺を進めているため「選ばれし」、ないし「祝福」という言葉は慎重に扱わなくてはいけません。この物語の原点は、アブラハムに与えられた神さまの約束です。そしてその約束は、確かに、アブラハムから続く子孫が特別に祝福されるという約束でありますが、その祝福には明確な目的があるのです。世界の全ての民が神さまに祝福を受けるために選ばれたのでした(創世記12:3)。小さくされた人々がさらに弾圧を受け、命が脅かされる事が正当化されるような約束では断じてないのです。むしろ、最も小さくされた命がまず大切にされるのが、この約束の具体的な顕れです。というのも、この約束はイエス・キリストにおいて最も顕されたという信仰をキリスト教会は抱くようになりました(ガラテヤ3:16)。ですので、アブラハムに与えられた約束のゆえ、現代のガザ地区での紛争が正当化されるのは全くの間違いだと言わなくてはいけません。
「命の事柄」は最終的に神さま任せるしかない
4世代にも渡る物語で、最も注目されないのが今日取り上げられているイサクであると言えるでしょう。偉大な一代目アブラハムと、ずる賢い三代目のヤコブに挟まれて、印象が薄いイサクとして思いがちかもしれません。けれども、実は注目に値する人物である事を、今回教わったように思うのです。というのも、先日の女性会の例会で、月刊誌「世の光」の記事を読みました。その記事がイサクに注目し、少年イサクが父アブラハムに命ささげられるところまで差し掛かったあの出来事が、彼の人生観にどれだけの影響を与えたかを物語っていました。聖書自体もアブラムに注目しがちであり、今まで気づかなかった視点でしたが、本当にそうだと思いました。あの出来事を通して、イサクは「命の事柄」を真剣に考えざるを得なかったのでしょう。「命の尊さ」を知らされると同時に、最終的には「命の事柄」は神さまに任せるしかないと、知らされる事となったのだと思うのです。
そして、今日の所でも、あの出来事で教わった事が試される場面であると言えるでしょう。今日のところは、40歳のイサクが妻リベカと結婚し、イサクが60歳になるまで子どもが生まれなかった事が語られています。21節でこうあります「イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。」イサクは20年間、妻リベカが新しい命を授かる事を祈ったのです。そしてイサクは、神さまから与えられた約束を心に止めていたはずです。自分の子孫を通して、世の全ての人が祝福を得るという約束です。イサクの父と母、アブラハムとサラも、神さまからの約束を心に止め、長い年月、子を授かるまで待つことになりました。でも、イサクとは異なり、アブラハムとサラは、自分たちの計画を建て、ハガルという別の妻を通して、息子イシュマエルが生まれたのでした。結局、家族の中でハガル、ないし、イシュマエルとの関係は複雑で、二人はその家庭から追い出される事になりました。この事は、イサクにとってしこりのような思い出であったのでしょう。これが教訓となったのか・・・イサクは、20年間ひたすら祈り続けたのでした。「命の事柄」は、そして「人生という事柄」は最終的に神さまに任せ、頼るしかないという姿勢がこの20年間の祈りに表されているように思うのです。
イサクが60歳となった時に、妻リベカが子を授かりました。けれども、祈りの日々がそこで終わったわけではありません。今度は、リベカが祈りをリードする事になりました。お腹の中に授かったのは、双子であり、お互い「胎内で押し合った」とあります。現代でも、双子を出産することは、一人の子を産むよりも、はるかにリスクが高く、古代世界では尚更危険な事でした。これが影響したのでしょう・・・必ずしも双子を授かる事は好ましく思われる事ではありませんでした。そして、子どもたちが産まれてからも、悩みがなくなったわけではありませんでした。この意味で、イサクの生涯は祈りの日々であったのかもしれません。物事が、思わぬ方向に逸れ、または、思いがけない事が起こり、すんなり受け入れられない場面も沢山あったはずです。流れ込んで来る悩み事に納得できず、神さまに不満をぶつけることもあったのでしょう。でも、その祈りの日々は、イサクにとって実り多い日々であったのです。一筋縄ではいかない日々であっても、神さまが、意義ある命を今日も与え、その意味で祝福の内にとどめてくださっている事を知らされ続けたのでした。命がささげられるところまで差し掛かったあの出来事依頼、それを思い知らされたイサクであったのです。
“いじわる”としか思えない時もあるけど、愛を貫いた神さま
ここで何回か紹介している事ですが、私が神学生の時に、卒業した後の赴任地について、一つだけ祈り続けた事がありました。それは「どこへ遣わされても私は構いませんが、雪国だけはやめてください」という、何ともふざけた祈りでした。とはいえ、南国育ちの僕にとって真面目な祈りでした。そして神さまは、この祈りを聞き入れてくださいました。私の望みとはまるっきり反対の形で答えられたのでした。着任した二年目には、ここ20年で経験した事がないほどの記録的積雪量でした。神さまは“いじわる”ですね(笑)。
きっと、アブラハムもイサクも、あの出来事を振り返る中で、神さまが“いじわる”でしかないと思わずにいられなかった一面もあったのだと思います。でも、思えば、あの出来事から2000年が経って、神さまのひとり子、イエス・キリストが十字架上で犠牲としてささげられたのでした。イサクは助かったのですが、主イエスは十字架で命を絶たれる事になったのです。そして、アブラハムに与えられた約束が、主イエス・キリストにおいて成就したのです。アブラハムとその子孫を愛するがゆえ・・・あなたとわたしを愛するがゆえに、自らの子の命を惜しまずみんなに分け与えたのでした。神さまは“いじわる”なんかではないのです。たとえそう思えたとしても、神さまは必ず私たちへの・・・全ての人々への愛を貫くのです。
皆さんは、日々の生活は順風満帆でしょうか。あるいは、何とか一日を乗り越える日々でしょうか。その両極端の間にある方もおられるでしょう。どんな日々であろうが、私たちは祈りの日々に招かれているのです。喜びと感謝でもいい・・・不満や涙でもいい・・・平凡な祈りでもいい・・・「疲れた」という一言でもいい・・・全て神さまに受け渡し、投げかける、祈りの日々に招かれているのです。その祈りを重ねるなかで、一つの姿勢が整えられるのでしょう。私たちに与えられた命・・・与えられた一回ぽっきりの人生・・・それは、神さまの愛の御手の中にある・・・十字架のキリストのゆえ、これは揺らぐ事はない。この事に任せていく姿勢・・・信頼していく姿勢・・・委ねていく姿勢が与えられていくのです。実り多い祈りの生活に招かれているのです。
(牧師・西本詩生)