『 不十分のなかの十分 』

出エジプト記3:10~12

コリント人への第二の手紙12:1~10

2024年6月30日(日)

 

子どもメッセージ

 昨日は、ひかり幼稚園の運動会でした。たいてい、外で大きなイベントが行われ、僕がそこに参加していると、ほぼ毎回大雨や嵐・大雪になります。去年は体育館の屋根が雨漏りするほどの大雨でした。けれども、昨日は雲一つないぐらいよい天気の中で、運動会が行われました。おかげで、こんがり焼けました。参加した人、お手伝いをした人、観に行った人・・・みんな楽しかったんじゃないかなぁ。そもそも、今年の運動会のテーマは「みんなで おもしろく あそぼう」でした。このテーマはこどもたちの間から出たもので、まさしく文字通りになった運動会だったと思います。僕はとてもおもしろく、遊べました。

昨日の本番を迎えるまで、幼稚園のみんなは各競技の練習を数週間重ねてきたと聞いています。それだけ、気合が入っていました。年長さんのリレーはスリル満点でした。紅組が勝つか・・・白組が勝つか、何度か先頭が入れ替わって、最後の最後に横並びになり、結局引き分けで終わりました。綱引きも相当盛り上がりました。3回綱引きをし、3回目はこどもたちVS先生たちでした。僕も“先生チーム”に入れさせてもらいました。ただし、条件があって、小さいお友だちは全く知らないであろう、アントニオ〇木さんの物まねをすることでした。「顎を出せばOK」というアドバイスをいただき、「元気があれば何でもできる」ならぬ「ひかりがあれば何でも大丈夫」と自分に言い聞かせながら対戦に臨みました。いざ対戦すると、こどもたちの力に圧倒させられるところでした。でも、何とか踏ん張って、“先生チーム”が勝利することになりました。

昨日は様々な競技がありました。そして、それぞれの競技で、引き分けもあれば、勝つこともあれば、負けることもありました。力を精一杯振り絞ってみんな頑張ったので、負けた時にはあまりの悔しさで地面に寝転んだお友だちもいました。「あれだけ練習したのに・・・絶対勝利するはずだったのに・・・こんなはずじゃなかった・・」という思いだったのでしょう。

実は、聖書をよくみると、「こんなはずじゃなかった」と悔しんだり、泣いたり、怒ったりしている人たちが登場するのは珍しくないのです。むしろ、聖書の中で“有名”とされている人たちのほぼみんながそのような経験を通らされたと言っても大げさではないと思います。

今日は、こどもメッセージで、そのような経験を通らされたモーセという人物に注目したいと思います。モーセも「こんなはずじゃなかった」という悔しい思いをした人だと言えると思います。

モーセの時代、イスラエルの人たちはエジプトに住んでいました。そして、モーセもイスラエル人でした。けれども、モーセが赤ちゃんの時、ある事をきっかけに、血でつながっている家族から離れて、エジプトの王さまの家に住むことになりました。つまり、イスラエル人でありながらも、エジプトの王子として、育つことになりました。当時、イスラエルの人たちは、エジプト人の奴隷とされていました。生活がとても苦しかったのです。けれども、モーセはそのような苦しい生活とは程遠い、優雅な生活をしていました。なにしろ、当時、世界で最も大国であったエジプトの王さまの宮殿で過ごしていたのです。

 モーセが40歳の時、ある信じがたい光景を目にしました。イスラエル人の奴隷が、エジプト人の監視役にひどく扱われていたのです。そして、モーセはそれを放っておけず、監視役を殴り殺してしまったのです。この事は、誰にも知られていないはずだったのですが、すぐさまこの情報はエジプトの王さまの耳に入り、モーセの命が狙われることになりました。モーセはとても怖くなり、急いで東の砂漠に逃げました。ほぼ何も不自由もなく、40年間王子として暮らしたモーセでしたが、この一瞬の出来事をきっかけに、一から人生をやり直すことになりました。結局、40歳から80歳まで、厳しい砂漠の中、羊飼いとして過ごすことになったのです。羊飼いは、朝も、昼も、夜も、羊たちと一緒に時間を過ごし、モーセはきっと考える時間がたっぷりあったはずです。恐らく、こんな事を考えていたのではないかと思うのです「なぜ、あのイスラエル人の奴隷をかばおうとしたんだろう・・・そんなことをしなければ、人生はこんなにはならなかった」と。ぐるぐる頭の中でこのようなことを、答えを見出せずに、40年間思い巡らしていたのでしょう。

 80歳になった時のある日、モーセは奇妙な光景を目にしました。砂漠の中の植物が燃えていたのです。ただ燃えていたのではなく、植物が炎につつまれているようで、燃え尽きなかったのです。近づいてみると、その植物の方向から、神さまの声が聞こえてきました。「わたしはあなたの先祖の神である。わたしはイスラエルの人々の苦しむ声を聞いた。あなたは、エジプトに行き、イスラエルの人々を救い出しなさい。」。モーセはこれを聞き、何度も断ろうとしましたが、神さまはこう語りかけてきました。「大丈夫。わたしはいつもあなた共にいる。行きなさい」と。こうして、モーセは40年ぶりにエジプトに戻ることになりました。そして、何度も苦戦しながらも、80歳のモーセは、当時世界で最も恐れられていたエジプトの王さまに立ち向かい、イスラエルの人々を奴隷生活から救い出すことになったのです。モーセは120歳まで生きましたが、その生涯の最後の40年間は、神さまに導かれながら、時にはとても不思議なかたちで守られ、支えられる人生を全うすることになりました。

 モーセは120歳まで生き、その生涯を40年ごとに分けることで見えてくることがあるのではないか、という話を耳にしたことがあります。このお話は英語の単語を使うと、伝わりやすいので、そうしたいと思います。

 モーセは40歳まで、エジプトの王子として暮らしました。生活において、特に困ることはなかったのでしょう。この意味で、モーセは自分のことを、それ相応の実力者であると思っていたのです。自分に自信があったのです。英語でいえば、自分はsomethingであると思っていたのでしょう。

 40歳となり、あの事件をきっかけに、80歳まで砂漠の中で、羊たちとくらしました。全てを失ったモーセは、思ったはずです・・・自分は取るに足らなく、何者でもないということを。英語で言えば、自分はnothingだと突きつけられるような年月であったのでしょう。もうそのまま人生を静かに終えると考えていたかもしれません。

 けれども、80歳となったモーセ・・・自分に対する自信を持てなくなったモーセに、神さまが臨んできたのです。この出会いをきっかけに、モーセの最後の40年は、不思議な出来事で満ちていました。神さまが、イスラエルの人々を、エジプトの奴隷生活から救い出したのでした。この最後の40年間を通して、モーセは教えられることがありました。それは、たとえ自分は取るに足らないと確信していたとしても、神さまが全てであり、人の想像をはるかに超えて、み業を見せてくださるということです。モーセは気づかされたのです。神さまがeverythingであるということを。

 僕はモーセの人生を見て、不思議だなぁと思わされることがあります。神さまは、モーセに臨んだ時、モーセはもうすでに、40年間も砂漠(荒野)で、羊飼いをしていました。エジプトの王子としての生活から離れて、40年も経ってからのことでした。40年間も「人生はこんなはずではなかったのでは」と思いめぐらした後に接近してきたのです。つまり、王子であったモーセの時には、「イスラエルの人々を救い出す」という使命を与えることはありませんでした。自信に溢れた強いモーセにではなく、弱っちいモーセに臨んだのです。不思議だと思いませんか?

 

恵みが十分?弱いところに力?弱い時に強い?

 本日の本題のテキストは使徒パウロの言葉ですが、とても有名なみ言葉です。私自身、牧師を目指し、イエスさまの福音宣教に仕えたいと思えた切っ掛けがここにあります。「わたし(神)の恵みはあなたに対して十分である。わたし(神)の力は弱いところに完全にあらわれる・・・わたし(パウロ)が弱い時にこそ、わたし(パウロ)は強い」(9節・10節)。

 牧師を目指したいと思いはじめた時、本音を言うとこのみ言葉は全く受け入れられませんでした。「恵みが十分?弱いところに力?」・・・自分の頭の中は?だらけでした。というのも、その当時、ある事件に巻き込まれ、相当なダメージを負っていた時でありました。その当時、私は貿易会社で務めていて、国外の出張先で誘拐され、強盗に遭い、二度と経験したくないような事を通らされたのです。その事件の数日後に、このみ言葉を読み、それ以降神さまと葛藤し続けました。「私がこんなにも弱っているのに、なぜ恵みが十分であると言うのだろうか。神さまは、あまりにも意地悪ではないか。」と。一年以上そのようなことを祈りの中で、神さまに投げかけました。本当でしたら、避けたいみ言葉でしたが、なぜか引き戻されるように、繰り返し読むことになりました。最終的に気づかされたのは、これでした・・・人生いろいろ辛いことがあり、行き詰まることもあるだろうけど、一日たりとも神さまの支えから抜け落ちたことはない。その辛さの中で、神さまが一緒に辛抱してくださり・・・僕の怒りや悔しさをも全て受け止めてくださった。神さまが寄り添ってくださっていて、今日も生かされているのだと気づいたのです。意義ある一日、そしてそれに続く未来が、神さまによって用意されていることを知らされたのでした。そして、僕にとってその未来とは、もしかしたら牧師であるかもしれないと考えはじめたのでした。

 

パウロの経験の中で紡がれた言葉

 子どもメッセージでは、モーセの生涯を取り上げながら、今日のみ言葉に注目しました。そして、パウロもモーセに近しい経験をしたのではないかと考えるのです。ダマスコに向かう途中、復活のイエスさまと出会うまでは、パウロはそれなりに自分の実力に対する自信を抱いていたはずです。当時、最も有能な律法の先生の元で学ばれたパウロでした。ファリサイ派というグループに属し、それに誰でも入れるわけでもなく、そのグループ内でも尊敬の対象であったのでしょう。けれども、復活のイエスさまに出会わされ、頼れるような肩書は取り除かれ、むしろキリスト者からは“迫害者パウロ”という否定的な目で見られたに違いありません。最初の宣教地であったアラビアでそれなりの年月を過ごしたのですが、ほとんど実りがなかったと思うのが自然でしょう。というのも、パウロの手紙の中で、そこでの働きについてはほとんど触れられてないからです。このような形で、パウロは自分に対する自信が取り除かれ、でも同時に、神さまに頼れることを教わったのでしょう。その後の教会の働きでも、行き詰ることの連続でしたが、その都度、時には不思議なかたちで、その困難を乗り越える原動力を与えて下さったのでした。パウロは自分の経験を顧みてこういうのです「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」

 

不十分さを上回る十分な恵み

 今日の説教題を「不十分のなかの十分」としましたが、モーセもそうでしたでしょうし、パウロもそうでしたが、自らの不十分さに行き詰りながらも、神さまが十二分に与えてくださったことを繰り返し経験しました。思えば、罪という大問題を考える時、いくら頑張っても私たちにはどうしようもし得ない領域があるのです。けれども、その事実と向き合う中で、神さまの側から差し出されるのは、罪を上回る恵みです。十分な恵みです。罪の事柄でなくとも、私たちはそれぞれ、不十分さを持っていると言っていいと思います。でもその不十分さや足りなさを、受け入れていくところで、神さまの不思議な御業を見させられるのでしょう。

 

神学校週間

 本日から、次の日曜日まで、神学校週間として過ごします。特に、今年度はYさんが西南学院大学神学部で学んでいますので、祈りを深めたいと考えています。先日、西南学院大学神学部の集いがオンラインで配信されていましたので、そこに参加しました。Yさんは1分ほどしか登場しませんでしたが、元気そうに映っていました。

 この集いの中で、新しく入った神学生の証しが紹介され、その一人が、釧路教会から送り出されたOさんという方でした。彼はその証しの中でこう述べていました。

 

私が、クリスチャンになったのは、2021年8月のことでした。当時釧路教会の牧師であった、奥村敏夫先生からバプテスマを受けました。先生の他者に対する思いやりや、伝道のための実行力は素晴らしく、私もこんな人になりたいという思いから、献身の道を決心しました。

本当に自分は未熟で、現在も多くの学友の助けを借りてなんとか生活している状態です。自分のような人間が牧師として、他者の魂を救えるのかまだ自信の欠片も手ごたえも全く皆無ですが。これも神のお導きと解釈し歩んで参りたいと思います。

学生生活で印象的なのは、大学の授業で、課題が出され毎回、しんどい思いをしております。プラス寮生活におきましても通常の寮と異なり、教育寮という側面が強く最初は非常に戸惑いましたが、学友のサポートのおかげで多くを学び日々成長させていただいております。

 

 学びに苦労なさっていることが伝わってくると思います。この証しを聞きながら、「しんどさを経験しながらも、神さまが全てであることに気づく時となるように」祈りたいと思わされました。各神学校と神学生のことを覚え、祈る一週間として過ごしたいと思います。また、毎年思わされることですが、自らの献身も見つめたいものです。それぞれの生活の中で、神さまが今も生きて働いており、進む道を与えて下っていることを見る一週間を過ごそうではありませんか。

   

(牧師・西本詩生)

 


『 憩いのみぎわ 』

詩篇23:1

詩篇23篇

2024年6月23日(日)

 

子どもメッセージ

 

   皆さんの一日の中で、音楽が流れてくる時があると思いますが、それはどういう時でしょうか。音楽が聞こえてくる時もあるでしょうし、または、音楽が自分の中から湧き上がってくることもあるのでしょう。

僕には〇歳と〇歳の娘がいます。毎日ではありませんが、朝、僕が起きるよりも早い時間に娘たちが目覚めることがあります。起きて、一分も経たないうちにアニメなどを大音量で観始め、たいていそれら番組の中で音楽が流れています。我が家で最近流行っているのは、世界の歴史的美術作品を、音楽を通して面白く紹介する「びじゅチューン!」という番組です。そこで流れる独特なメロディーを聞きながら朝を迎えています。僕自身、もう少し寝ていたいのですが、朝早くから音楽が聞こえてきて、そういう意味で歌が生活の一部となっているのです(笑)。

「音楽」と言ってもさまざまな歌があります。僕の子どもたちが見ている番組のように豆知識を教えてくれる歌もあれば、嬉しい歌もあれば、しみじみする歌もあります。ある時には、涙を流しながら歌う日もあるでしょう。嬉し涙。悲し涙。悔し涙。一日の生活の中だけでも、いろんな感情を抱く私たちなのでしょうが、その都度、時に叶った特別な歌があるのです。音楽は私たちの生活に一部であり、切っても切り離せないものなのです。

そして、教会にとって歌はなくてはならないものです。毎週日曜日朝早くから讃美歌のメロディーが教会の隅々から聞こえてきます。日曜日の礼拝の中で、讃美歌を歌い続けています。讃美歌は、他の音楽とは少し違うところがあると言えるでしょう。讃美歌は神さまをたたえる歌です。意識を神さまに向けながら歌います。たとえ、心の中で密に歌ったとしても、神さまはその歌を聞き喜んでくださるのです。そのように、信じる世界が讃美歌に秘められているのです。

一人で悩んで気持ちが暗くなっている時、顔はどこを向いているでしょうか。たいてい、下を向いていると思います。下を向いていると、ついつい自分しか見えなくなってしまいます。神さまをたたえる歌を歌うなら、自然と顔が上に向き始めるのです。そうすると、神さまが共におられることに気づきます。独りでその讃美歌を歌っているのではないことに気づくのです。歌に込められた願いと祈りを、神さまが聞き入れているのです。辛い時でも、実は神さまが私たちを見つめ、導いてくださっていることを知らされるのです。

 教会にとって欠かせないのが讃美歌ですが・・・もう一つ欠かせないのが聖書です。数千年の歴史の中で、神さまに与えられた生涯を歩まれた人々の物語が束ねられたのが聖書です。ここには数々の讃美歌が紹介されています。悲しい歌もあれば、心躍る喜びの歌もあります。何百とある讃美歌の中で、今日は最も有名な讃美歌・・・詩篇23編を味わいたいと思うのです。

 

心乱れる、荒々しい日々

 2月のことです。以前私たちの教会で牧師をしていたS牧師を迎えての礼拝でした。S牧師が礼拝の中で聖書のお話をしたのですが、このようにお話を始めました。「最近何かがおかしいと思ってるんですよね。そう思いませんか?」と。すると、ある小学生がそれに即反応して「そうだよね・・・株価が最高値を更新した」と大声で言ってきたのです。予想していないところから、適格の返答があり、僕も含めてですが会衆からドッと笑いがあがりました。その時は笑えましたが、やはり何かがおかしいと感じるのが最近の私たちなのかもしれません。私たちの教会では、札幌市内の複数の教会と手を組み、食料品や生活用品を、開催会場に来てくださる方々と分かち合う(お渡しする)活動をしています(「みんなで助け合い」と言います)。直近では5月に開催し、開始する1時間前から50mにも及ぶ長蛇の列ができていたのです。これほどまでの列ができたのは初めてのことです。生活の厳しさが伝わってきます。こういう場面において、株価が最高値を更新している実感が湧いてきません。さらに遠くに眼差しを向けるとどうでしょう。今私たちがここで時を過ごす中で、銃撃が響く紛争地域が絶えないことを日々知らされています。あるいは、もっと近いところではどうでしょう。私事ですが・・・昨日は、私の妻が熱を出し、うちの子どもたちも心配そうに過ごしていました。妻が寝込んでしまうと、我が家は全く機能しなくなってしまいます。

これらを取りあげながら何を言いたいかと言うと、願っていないにも関わらず、心乱れる、荒々しい日々が押し寄せてくるのです。皆さんはどうでしょう?今まさに忙しく心乱れる日々を過ごしている・・・そう思わされている人は少なくないと思うのです。

 

神さまは憩いのみぎわに伴われる

 このような中、私たちはどこに耳を傾ければいいのでしょう。何をすればいいのでしょうか。今日の詩篇23篇は、その根底において、ある姿勢を持つように招いてくださるのです。神さまに寄り頼み、神さまを信頼する姿勢です。荒々しい日々の中にあるからこそ、神さまに寄り頼んでみないかと、語りかけてくるのです。川は、水しぶきを上げながら、激しく流れる場所もあれば、透き通った水が穏やかに流れる場所もあります。神さまはその後者に誘導してくださるのです。心静まる、憩いのみぎわに導いてくださるというのです。

 

善き神さまが牧者となってくださる

 もう一度、詩篇23篇の前半部分をお読みします。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。/主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。/主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 

聖書にはよく出てくる描き方の一つですが、私たち人は、羊にたとえられ、リーダーたる存在・・・神さまは羊飼いにたとえられるのです。

そもそも、私たちの人生を誘導するのは誰なのでしょうか?ある人はこう言うかもしれません。「結局のところ我が道は、我が決めるしかない」と。確かにそうだと思います。自分が進んで行く人生の主体性持たずには、責任をもって日々を過ごせません。でも同時にこうも思います。一個人がどんなに工夫しても、どんなに労しても、左右しきれないものがあるのです。コロナ感染にそれを繰り返し教えられました。世界中の人々が悩みながら、工夫を重ねましたが、限界があったと言わざるを得ません。そしてそれは、医療や健康のことに当てはまることだけではありません。経済の動向もそうです。社会情勢もそうです。あるいは、自分自身もうまく左右しきれない時もあるように思うのです。全く意図していないはずなのに・・・冷静に考えればそうはしたくないのに・・・意に反することをしていることはないでしょうか。大なり小なり私たちはそれぞれ依存を抱えているのかもしれません。それら依存、または、ぬぐえない癖というものは、私たちの内なることでさえ、完全に左右し得ないものがあることを物語っているように思うのです。誰もが牧者を求めているのかもしれません。

そんな私たちの牧者となってくださるのが、善いお方である神さまなのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。私たちは様々な必要があります。でも、それら必要を知り尽くしているのは、果たして私なのだろうかと考えさせられることがあります。この歌の作者である詩人は、気づいたのです。自らの必要を最もご存じなのは神さまであり、神さまが私たちの必要を満たしてくださるということです。「主はわたしを緑の牧場に伏させる」・・・満たしを追いかける日々ではなく、神さまに与えられる人生がここにあるのです。そして誘導されるのは神さまが伴われる「いこいのみぎわ」です。そこでは一切の心配と恐れを神さまに受け渡すように招かれます。忙しさも。予定も。やらなくてはいけない細々した全ての作業も。ひきずっている悔やみや後悔も。野望や自我も・・・神さまに受け渡し、神さまはそれを引き受けてくださいます。「いこいのみぎわ」で、魂が生きかえるのです。そうすると、進むようにと促される最善の道・・・神さまが与えてくださる道が見えてくるのです。

 

「あなた」

詩人は歌い続けます「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」。神さまが与えてくださる道であったとしても、避けたいわざわいがなくなるわけではありません。影は影として残るのです。誰も死から逃れることはできません。人性の谷を通らされるのです。けれども、もしも神さまに眼差しを向けるのであれば、わざわいを恐れなくていいというのです。神さまが「共におられる」のだから、わざわいに囚われなくていいということです。

ここで、歌い主に変化が起こっていることに気づくと思います。詩人は、神さまを「あなた」と呼んでいるのです。親しさが一段と増しています。先ほどまでは、神さまについて語っていました。言い換えれば、神さまとの一定の距離があったのです。ここに差し掛かって、「あなた」と語りかけ、グンと距離が縮まり、今度は神さまに直接投げかけているのです。神さまについて語るところでは、恐れを取っ払うような平安や勇気は与えられないのかもしれません。でも、神さまに寄り頼み、「あなた」と呼びかけ、返答を願い求め、信頼を築いていくとどうなるのでしょう。力と励まし、平安と勇気が与えられるのです。

先ほど、讃美歌は神さまをたたえる歌であるために、私たちの意識が神さまに向けられることを語りました。自分の足元だけを見ていれば、不安と恐れが押し寄せてくるのかもしれませんが、神さまをたたえる歌を歌う時、顔が上に向き始めるのです。善い牧者である神さまとの距離が縮まります。讃美歌を歌うことを通して、今日も、「あなた」と呼び掛けられる神さまが共にいてくださっていることに気づくのです。

 

讃美の力

 今日は聖書の中で最も知られている讃美歌に注目しましたが、この後、日本で最も知られている「いつくしみ深き」という讃美歌をみんなで歌います。この歌を選んでくださったのは、Aさんですが、この讃美歌を選ばれたことについて、お話をお聴きしたいと思います。

小さい頃から教会で家でよく歌い親しんだ讃美歌です。ロシアに留学・赴任中も、有名な讃美歌であり、ロシアの教会でも歌うことができ嬉しかったのを覚えています。

特に有名な讃美歌にあてはまることですが、讃美歌は言語や文化・・・様々な隔てを乗り越えていく力があると思わされることがあります。それは、沖縄にちなんだあるエピソードからも思わされるのです。

今日は6月23日であり、沖縄では「慰霊の日」として過ごされています。79年前の地上戦において組織的争いが終わった日とされています。私は10年程前に、6月23日を挟んで、沖縄を訪ね、その歴史を教えられ、実際その渦中にあった証言もお聴きしました。記憶に焼き付くほど強烈なお話でありました。沖縄で繰り広げられた地上戦では、住民の4分の1が犠牲となったと云われています。その内容を知れば知るほど、あってはならないことが起きたのだと思わされるのです。沖縄では、北海道同様、本土のことを「内地」と呼ぶことがあります。「内地」なので、沖縄は「外地」なのです。79年前何が起きたかというと「内地」を守るために、「外地」とされた沖縄が切り捨てられたのです。現代でも日本における軍備強化は極端に沖縄の島々に集中し、「内地」のために沖縄が切り捨てられるその構図と思想が健在であると言わざるを得ません。言うまでもなく、沖縄の人々の多くは「内地」に不信感を覚え、人々の間に隔てがそびえたってしまっているのです。米軍基地組織との間にも隔てがあり続けています。

このような状況の中、ある試みが毎週月曜日に行われています。普天間基地ゲート前でゴスペル・・・讃美歌が歌われているのです。決して、米軍基地で働いている人たちを追い詰めるために歌われているのではありません。讃美歌に親しんでいるであろう米軍スタッフと、ゴスペルを通して互いに分り得ないだろうかという試みです。「私たちも同じ神さまを讃美していますよ」「一緒に歌いませんか」というメッセージを込めて歌っているのです。明日も開かれる予定のようですが、530回目を迎えます。どんな隔てをも乗り越えていく、讃美の力に望みをかけて歌い続けられているのです。

讃美には力があります。魂を生き返らせる力であり、荒々しい日々の中で、憩いのみぎわに導かれる力です。私たちの目には「無理」と思えてしまう隔てを越えさせる力があります。今日も、善い牧者である主なる神さまに讃美をささげようではありませんか。

 

   

(牧師・西本詩生)

 


『 「子ども」から子どもへの祝福 』

詩編146:6後半~9(新共同訳)

マルコによる福音書10:13~16(新共同訳)

2024年6月16日(日)

 

導入

 皆さんおはようございます。いつもお祈りありがとうございます。私たちは、2015年にカンボジアに派遣されて以来、CBU、カンボジアバプテスト連合オフィス教会で活動しています。礼拝出席はいつも30人から40人ほどですが、その半分以上が子どもたちです。私たちは5年ほど前から、教会で子どもたちを対象に日曜学校、教会学校を行っています。しばらくずっと、子どもたちは数人程度でした。それが、2年ほど前から、多くの子どもたちが、教会近くにある集落から来るようになりました。それまで数人ほどだった子どもたちが、一気に20人近くになったのです。日曜学校が始まるのは13:00からですが、最近子どもたちは、一時間以上前から、早い子は午前中から教会に来ています。みんな、教会が大好きなのです。

今日は、その日曜学校の中で与えられた、子どもについてのみ言葉からお話したいと思います。そもそも、聖書は、子どもについてどのようなことを伝えているでしょうか。あるいは、イエス様は子どもたちをどんな風に見ているでしょうか。

聖書には、子どもはあまり登場しませんし、子どもについてあまり詳しく書かれていません。イエス様が活動していた頃、イスラエルや、その周辺の地域では子どもは価値のある存在とは見なされていませんでした。当時、子どもは奴隷と同じく、父親の所有物であり、売ることもできたし、捨てられることも珍しくなかったそうです。当時の子どもに対する感覚は、現在とは全く違っていました。新約聖書においても、「子ども」あるいは「子どもらしい」という言葉は、大人たちによって軽蔑的に用いられています。このような、当時の子どもに対する見方を知ると、イエス様の子どもに対する見方に驚かされます。

 

神の国はこのような者たちのものである。

ここで、今日の聖書の場面をもう一度見てみましょう。マルコ10章13節から16節です。

 

「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」

 

人々が、イエス様に手を置いて祈っていただくために、子どもたちをイエス様のところに連れてきました。すると、それを見た弟子たちが、人々を叱りました。どうしてでしょうか?弟子たちにとっては、子どもというのは騒がしい存在、先生を煩わせる存在、働きの邪魔をする存在でしかなかったのでしょう。「ほら、あっちに行っていなさい!」という声が聞こえてきそうです。

しかし、イエス様は逆に、弟子たちを叱りつけ、こう言われました。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。」先ほどお伝えした、当時の一般的な子どもへの見方に照らし合わせると、このイエス様の言葉は驚くべきものです。弟子たちもきっと驚いたことでしょう。イエス様は決して、子どもたちを軽く扱うことはしませんでした。

続けてイエス様は言われます「神の国はこのような者たちのものである」。イエス様が宣べ伝えている神の国は、このような者、すなわち子どもたちのものである。神の国は、すでに子どもたちのものとなっているというのです。 

イエス様は、ご自身の言葉と、具体的な行いや業によって、神の国を現わされました。イエス様が、ガリラヤにてご自身の宣教活動を開始された時「神の国は近づいた」と宣言されました。そしてイエス様は弟子たちと、多くの町や村を周り、実際に、具体的に、神の国が既に始まっていることを現わされました。それらは、決して治るはずのなかった病の癒しであり、長年人々を苦しめていた悪霊からの解放であり、そして、食事の交わりを共にすることでした。イエス様はこれらの御業を通して、神の国を現わされました。つまり、イエス様が来る前とは違う形で、神の祝福が、イエス様を通して届けられるようになったのです。

その神の国は、権力者たちや金持ち、力のある者たちのところにまず、来たのではありません。神の国は、子どもに代表されるような、小さな者たちのところにまず来たのです。すなわち、当時自分の力では何もできないと見なされ、父の所有物に過ぎなかった子どものように見なされた、小さな者たちです。

物理的にも社会的にも経済的にも「いと小さい」者たちのところに、神の国はまず来るのです。それは、子どもだけでなく、貧しい者たちや、社会の周辺に追いやられた者たち、罪人というレッテルを貼られた者たちです。このような者たちに、イエス様は神の国をまず、現わされました。

イエス様は更にこのように言われます 。マルコ10章15節から16節をもう一度お読みします。

 

「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して、そこに入ることはできない」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

 

イエス様の言われる「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。実はこの言葉は、2つの捉え方ができます。1つ目は、「子どもが神の国を受け入れるように」という解釈です。子どもが神の国を受け入れるように、同じように私たちも神の国を受け入れる、ということです。このように捉える方が多いかもしれません。

もう1つの読み方があります。それは、「子どもを受け入れるように、神の国を受け入れる」という解釈です。つまり、私たちが子どもを受け入れるように、神の国を受け入れる、ということです。私は、こちらの捉え方を選びたいと思います。なぜなら、今日の聖書箇所で描かれているのは、子どもたちを排除しようとする弟子を戒め、子どもたちを受け入れているイエス様だからです。イエス様は弟子たちを戒め、子どもたちを自分のところに来させ、抱き上げ、そして手を置いて祝福されました。

それまで、軽く見られていた、物のように扱われていた子どもたちを、イエス様がそばに呼び寄せ、手を置いて祝福されたのです。神様の祝福が、イエス様を通して、新しい形で子どもたちに届きました。

新約聖書の中で、イエス様が誰かに手を置いて祝福している場面は、ここだけです。イエス様が神に祝福を求めたり、病の癒しのために手を置かれた、という場面はあります。しかし、ただ祝福するために手を置かれている箇所は、ここにしかありません。それだけ、子どもという存在はイエス様にとって特別であったと言えるのではないでしょうか。ですから私たちはまず、子どもを受け入れる、ということについて考える必要があります。

 

私たちは神のこども

子どもを受け入れることを考えるとき、まず知る必要があるのは、私たちもまた、子どもであるということです。使徒パウロは、ガラテヤ書3章と4章で次のように述べています。ガラテヤ書、3:26と4:6をお読みします。

 

ガラテヤ3:26、4:6「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」「あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります。」

 

神は、イエス・キリストを通して私たちを罪から救い出して下さいました。それだけでははく、神は私たちを、ご自身の子どもとしてくださったのです。

私たちが忘れがちなことは、私たちもまた神の前で子どもであるということです。私たちがいわゆる、子どもに向き合う時、無意識のうち、自分自身が、目の前の子どもよりも年齢も上で経験もあり成熟している、この子どもは幼く、弱く、未熟な存在である。そうように見てしまいがちです。ます。しかし、神様にとっては私たちも同じ幼く弱く未熟な存在なのです。

私たちは何歳になっても、社会的にどんな地位にあっても、どれだけ能力や財産があっても、神の前では子どもなのです。ですから私たちは子どもに向き合うとき、自分自身を大人であるという誇りや成熟さにおいてではなく、私もまた子どもであるという低さ、小ささにおいて向き合うのです。

 

<証し 教会の礼拝>

 子どもを受け入れるということについて、私たちの教会で実践していることがあります。それは、子どもたちと共に礼拝をささげることです。礼拝に出席している人の半分以上は、子どもたちです。その子どもたちは、礼拝の最初から最後まで、ずっといっしょにいます。途中で別の部屋に行く、ということはありません。

 説教の時間には、子どもたちには塗り絵を用意しています。ただ、説教の後半になると、塗り絵が終わってしまって、少し騒がしくなってきます。途中でトイレのために席を立つ子どももたくさんいます。兄弟や姉妹同士で小競り合いが起きることもあります。そんな子どもたちと別々にではなく共に、最初から最後まで礼拝をささげています。

 更に最近は礼拝の最初に、子どもたちの写真をスクリーンに映し出し、名前を呼ぶという試みが始まっています。これらは、教会として子どもたちを覚え、受け入れようとしている試みです。

最近では、子どもたち同士で隣の子と話すときは小声で話すなどメッセージを聞いている人への配慮がみられるようになってきました。まだ課題はありますが神様からのチャレンジと導きとして受けとめています。

 

キリストは子どものうちに臨在される

イエス様は、子どもを受け入れるということについて、今日の聖書箇所の前の章、9章で非常に重要なことを述べています。ここでマルコ9:37をお読みします。

 

「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

イエス様は、この一人の子どもを受け入れることは、私を受け入れることと等しく、更に私を受け入れることは、私を遣わした方を受け入れることと等しいと言うのです。

「わたしを遣わした方」というのは、もちろん神様です。神が、キリストを私たちへ遣わされました。キリストは神と等しいお方ですから、私たちはキリストを知ることによって、神様ご自身を知ることになります。ですから、キリストを受け入れることは、キリストを遣わした神を受け入れることでもある、そう言えるのです。しかし子どもを受け入れることが、なぜイエス様を受け入れることになるのでしょうか。これは、小さな子どもがキリストのようになるとか、そういうことではありません。キリストが、ご自身を、小さな子どものうちに現わすのです。

キリストは子どものうちにおられます。そして待っておられます。私たちに受け入れられ、愛され、祝福を分けてもらうのを、待っておられるのです。

先ほどお読みしたマルコ9:37の「受け入れる」という言葉は、英語訳の聖書では、「歓迎する」と訳されています。つまり、ここでイエス様が述べているのは、子どもたちを歓迎する、喜んで迎え入れるということです。

ただ、このように考える方がおられるかもしれません。教会に、あるいは地域に、子どもたちはたくさんいる。その中のどの子どもたちのうちにキリストはおられるのか? この子どもにはおられて、あの子どもにはいないのか?どうやったらそれがわかるのか?

キリストは、すべての子どもたちの内にご自身を現わされます。ただ、私たちが出会うのは、その中の具体的な一人の子どもです。とある具体的な、子どものうちにおられる、キリストに出会うのです。その子どもとは、皆さんからの愛を必要としている子ども、皆さんを通して与えられる神の祝福を、必要としている子どもです。

イエス様は子どもたちをご自身のもとに引き寄せ、抱き上げ、手を置いて祝福されました。私たちはイエス様に倣い、子どもたちを喜んで迎え入れ、祝福を分かちあうのです。唯一の祝福の源である神様から日々頂く祝福、これまで頂いた祝福を、神様の道具となって、子どもたちのために用いていくのです。そうすることによって、子どもたちの内におられるイエス様を通して祝福が広がっていくでしょう。私たちはその子どもたちから、更なる祝福を頂くことでしょう。

 

<証し 集落の子どもたち>

 私たちの教会では、最初に述べたように、2年ほど前から多くの子どもたちが来るようになりました。その子どもたちは、教会から歩いて10分ほどの小さな集落に住んでいます。道は舗装されておらず、簡素な家が立ち並んでいます。すぐ脇を、悪臭が漂う川が流れています。

この集落から歩いてすぐのところに、博物館があります。博物館の名前は「キリング・フィールド」日本語にすれば殺人の大地です。今から約50年前、ポルポト政権時代に処刑場として使われた場所です。子どもたちが住む集落は、カンボジアの負の歴史の象徴とも言える場所から、一番近くにある集落でもあります。

以前この集落は、私たち外国人はもちろん、地元の人も近寄りがたい場所でした。しかし、とあるきっかけで、教会員が集落の女性と知り合い、その方が子どもたちを連れて教会に来るようになったのです。それ以来、集落から多くの子供たちが教会へ来るようになりました。そして私たちもまた、教会員と、定期的にこの集落に通うようになりました。教会に来るようになった子どもたちは、日曜学校でみ言葉を覚え、神様を喜んで賛美するようなりました。約1年前、子どもたちの多くがバプテスマの恵みに与りました。

そして今、子どもたちの中には、賛美をリードしたり、グループワークをリードする子どもリーダーが育ってきています。さらに神様は子どもたちを日本語クラスへ呼んでくださいました。子どもたちは実に生き生きと、楽しんで、日本語を学んでいます。子どもたちが、神様の祝福によって変えられているのです。

あの集落は、今子どもたちを通して、少しずつ変えられています。子どもたちが来るようになったことをきっかけに、教会としてもこの集落に向き合い始めています。今年3月には、住民の方々を教会に招いて、お米や食料などの生活必需品を、福音と共に分かち合いました。住民との関係が少しずつ作られているのです。

神様は、子どもたちのうちにおられるイエス様を通してこの貧しい集落を祝福し、変えようとしておられます。キリング・フィールドから一番近いあの集落を、リビング・フィールド、神様の命と祝福が息づく大地へと変えようとしておられます。」

 

この教会の地域にも、皆さんたちから受け入れられ、愛され、祝福を分けてもらうのを待っている子どもたちがいます。神の祝福は、私たち神の子どもから、いと小さな子どもたちへと流れ、広がっていくのです。

 

 

(カンボジア宣教師・嶋田和幸)

 

 


『 きみの喜び”は“ぼくらの喜び” 』   

マタイによる福音書11:28~30 

マルコによる福音書10:46~52

2024年6月9日(日) 

 

◆ こどもメッセージ

 今日は、Mくんの信仰告白とバプテスマ式でした。とっても嬉しかったです。この教会にとって、何よりの喜びです。そして、この教会だけでなく、この喜びは、まだまだ拡がっていきそうです。昨日、教会に一通の電報が届きました。Mくん宛の電報でした。差出人の欄には「ウニスパ会一同」と書かれていました。「ん??“ウニスパ”って聖書に出てくるっけ??」って、すぐに調べましたよ。「それとも、札幌にそんな団体があるんだろうか?」って、それも調べましたよ。どんなに調べてもわからなかったので、恥を忍んで、Mくんのお母さんにきいてみました。そしたら、今日、お祝いにかけつけてくれているMくんのおばあちゃんが、普段通っている東京の品川バプテスト教会でのお友だちの会なんだそうです。それは、調べてもわかりませんよね。でも、そんな風にMくんに起きた喜びの出来事は、遠く東京の品川教会の皆さんの喜びにもなっているんです。ちなみに、なんで「ウニスパ会」なのかは、後でMくんのおばあちゃんに訊いてみてください。

 さて、ある時、イエスさまは、弟子たちと一緒にエリコという町にやってきました。このエリコって町は、神殿のあるエルサレムから20キロくらいのところにある町でした。20キロっていったらどのくらいかというと、この教会から定山渓くらいまでの距離です。前も紹介したことがありますが、20年くらい前に、教会の青年の人たちと一緒に、この教会から定山渓まで、約20キロの道のりを歩いたことがありました。どのくらいかかったと思いますか?朝5時半に教会に集まって、みんなで30分間祈り会をして、6時に出発しました。ひたすら歩いて、定山渓についたのは、なんとお昼の2時くらいでした。そして、定山渓のホテルで温泉に入って、なぜかみんなで“ざるそば”を食べました。その後「今度はもっと遠い支笏湖まで歩こう!」って言ってから、20年経っちゃいました。それくらい疲れ果てたということです。そして、毎回こうやってこの時のことを紹介するのは、同じことをもう一回やろうとも思わないまま20年経ってしまったからです。20キロというのは、車だと30分だけど、歩くと8時間・・・。でも、イエスさまの時代は、車もなければ、電車や飛行機、自転車だってないわけだから、みんな歩いて移動しました。ぼくらは「20キロも歩けない!」って思っちゃうけど、当時の人たちにとったら20キロくらいは、むしろ近かったみたいです。つまり、エルサレムのすぐ近くのエリコの町まで、イエスさまたちはやって来ていたということです。そして、そのエルサレムで、イエスさまは十字架で殺されることになるんです。

 そのエリコの町を出て、まさにエルサレムに向かおうとした時、道ばたで、目の見えないバルテマイという人が、物乞いをしながら座っていました。“物乞い”って、通りがかる人に物やお金をもらうことです。エルサレムの神殿に礼拝しに行くために色んなところからやってきた人たちが、そこを通りかかっては、その人に物やお金をあげていました。“良い人”がいっぱいいたということです。実は、物乞いをしている人たちに物やお金をあげる“施し”をすることは、信仰が深いことの表れだと、当時の人たちは考えていたそうです。だから、神殿に礼拝に行く人たちは、みんな張り切って“施し”をしたんです。その時は、ちょうどたくさんの人たちが礼拝のためにエルサレムに向かう時期でした。バルテマイも、そこに座っているだけで、たくさんの“施し”を受けることができたでしょう。何もしなくて、ただ座っているだけで、みんなからお金をもらえるなんて、うらやましいよね?ただ、確かにお金をもらえて助かったかもしれないけど、その“施し”をする人たちが、立ち止まって話しかけていくわけでもなく、また会いに来てくれるわけでもありませんでした。バルテマイは、ただただそこに座らされているだけだったんです。「何もしなくていいから、そこに座っておけ」って、町の外の道端に座らされていたんです。「そしたら、せめて食べていけるくらいのものは集まるだろう」って、座らされていたんです。

 そんなバルテマイのそばをイエスさまが通りかかられました。そしたら、イエスさまがそこにおられるというのを聞いたバルテマイは大声で叫んだそうです。「ダビデの子イエスよ、このおれをあわれんでくれ」って。しかも一回だけでなく、何度も何度も大声で叫んだそうです。それを聞いたイエスさまの弟子たちがビックリして、「こら!うるさいぞ!」ってやめさせようとしても、バルテマイはあきらめませんでした。さあ、イエスさま、どうしたと思いますか?イエスさまは立ち止まって、弟子たちに向かって、「あなたたちが、あの人を呼んできなさい」って言ったんです。これ、「いつものイエスさまとは、ちょっと様子が違うなあ」と、ぼくは感じます。これまでもイエスさまは、色んな人の病気を癒し、目の見えない人の目を見えるようにし、聞こえない人の耳を聞こえるようにされてきたけど、大抵その人を人のいないところに連れて行って、癒してあげたら、「誰にも言わないように」って言い聞かせて帰してあげていました。だけど、ここでは、自分でその人に近寄って行くんじゃなくて、弟子たちに向かって、「あなたたちが、あの人を呼んできなさい」って言われたんです。そしたら、そう言われた弟子たち、バルテマイに何て言ったと思いますか?「おい、あんた、喜べ!イエスさまが、あんたを呼んどるばい!」って。イエスさまは、ただ「呼んできなさい」って言われただけなのに、弟子たち、ちょっと騒ぎすぎだと思いませんか?ついさっきまで、バルテマイに「こら!うるさいぞ!」って怒っていたくせに、見事な変わりようです。でも、ちょっと前までの弟子たちだったら、イエスさまに「呼びなさい」って言われても、「なんでイエスさま、わざわざこんな男の言うことを聞くんだろうか?」って渋々呼びに行っていたと思うんです。ただ、弟子たちは、もう何度も何度もイエスさまの御業を、目の前で見させられてきたんです。そして、その度に、その見させられる出来事は、自分たちの喜びになってきたんです。だからその時、弟子たちは「ああ、きっとイエスさまのことだから、この人を通してまた何かを起こされるに違いない!」って、そう思ったんでしょう。大声で叫んだバルテマイと同じくらい、いや、もしかしたらそのバルテマイ本人よりずっとずっとワクワクしながら、イエスさまの許にバルテマイを連れて行ったんです。だから、その後、バルテマイの目が見えるようにされたことは、バルテマイだけでなく、そこにいた人たちみんなの喜びになっていきました。誰ともつながっていなかった・・・、誰ともつながれないでいたバルテマイに起こされた出来事が、“みんなの喜び”になっていったんです。

 そして、もう一つ。目の見えるようになったバルテマイは、その後、イエスさまに従って行ったそうです。自分をイエスさまの許に連れて行ってくれた弟子たちと一緒に、イエスさまに従って行ったそうです。そしてそれは、イエスさまが十字架へと向かわれる、エルサレムへの道だったんです。それは決して楽な道ではなかったはずだけど・・・、苦しみのたくさん待つ道だったはずだけど・・・、その道の先で、バルテマイも、そして弟子たちも、イエスさまの十字架による本当の救いの出来事に出会うことになったんです。

 

◆ 弟子たちの変化

 今日の聖書の箇所には、盲人バルテマイ個人に起こされた癒しの出来事が記されています。しかし、福音書記者マルコは、その出来事について、バルテマイとイエスさまとの間だけで起こった、個人の出来事としては描いていません。周りにいた人々の様子もあわせて、そこに描いているのです。先ほどもお話しした通り、当初、人々はイエスさまに憐みを求めて大声で叫ぶバルテマイを厳しく叱り、黙らせようとしました。彼の置かれた境遇や彼の抱えた悩みを彼自身に帰すことで、バルテマイとの関係を拒もうとしたのでしょう。その状態のままであれば、それだけで終わったことでしょう。その後起こされる出来事は、弟子たちとは何の関係もないこととして起こされたはずです。でも、イエスさまはそんな彼らと、このバルテマイとをつないでいかれました。彼らに、バルテマイを呼んで来させたのです。すると彼らは、そのイエスさまの呼び出しを、喜びの知らせとしてバルテマイに届けました。その直前まで、彼を叱りつけていた姿からすると、あまりの変わり様です。先ほど触れたように、時はまさに十字架を間近に控えた頃で、その頃には、既に弟子たちは何度も何度もイエスさまの起こされる御業を、目の当たりにさせられてきていました。ただ、これまでも自分たちの力ではどうにかしてきたわけではないので、関わると面倒なことになりそうなバルテマイを最初に見た時には、彼を叱りつけてしまうのです。ただ、一旦イエスさまが彼にまなざしを向けられ、彼を御許に招かれると、彼らは「イエスさまなら必ずこの弱さを抱え、困難を覚える彼を通して、神さまの御業をあらわされるはずだ」と確信したのです。自分自身にではなく、神さまの起こされる御業に期待をすれば、人は変わるということです。「喜べ、立て、(主が)おまえを呼んでおられる」との彼らの呼びかけから、そんな彼らの興奮が伝わってきます。そして、目の見えないバルテマイを、彼らは自らの手でイエスさまの許へと導いていったのです。いや、彼らもまた、彼と共に、イエスさまの招きに応え、期待をもってイエスさまの許へと歩み出して行ったのです。

 

◆ Mくんの母Nさんの証し

 ちょうど10年前の2014年6月12日。Mくんのお母さんであるNさんが、この教会に転入会しました。Nさんが、札幌に越して来たのは2011年4月、最初にこの教会の礼拝に来たのも2012年5月だったことを考えると、決してすんなりと迎えた転入会ではありませんでした。その間に、第一子であるMくんの出産をしたこともあり、教会に来られない期間も長く、多くの悩みも抱えながら過ごしておられました。Nさんは、そのことを『入会の証し』の中でまっすぐに語り、最後にこんな風に話してくれました。「私は改めてイエス様の十字架でしか救われない自分の罪、『自分を赦し、愛せない』という罪に直面しました。私はMを授かった事で、強くなった訳ではありません。神様の試練に遭って、それにより鍛えられ、乗り越えられる力を得たのでもありません。自分の力ではどうする事も出来ない、神様に依り頼む他にないと気付きました。弱っちい、小さな、汚れた自分を知ったのです。そして、そんな私を『価高い』と言って下さる神様の愛に触れました。今、その愛に応えたいと思います。献身的に支えてくれた主人が、この転入会を喜んでくれていて、教会生活を大切に思ってくれています。その思いにも応えていきたいと思います。そして、一緒にMを育んで頂きたいと願っています。どうかこの祈りの群れに加えて下さい」。

 

◆ “わたし”から“わたしたち”へ

 目が見えるようになったバルテマイに、イエスさまはこう語りかけられました。「行け、あなたの信仰があなたを救った」と。つまり、彼はどこに行くも自由だったはずなのですが、彼はその後、イエスさまに従って行くことを選びました。まさに、神さまにこそ依り頼んで、従っていくことを選んだのです。ただ、それはエルサレムへと向かう道であり、十字架へと向かう道でした。決して楽な道であるはずはなく、多くの痛みと苦しみとを伴う茨の道だったはずです。そして、同時にそれは、最初は彼を叱りつけ、後に彼をイエスさまの許へと導いた、あの人々と共なる歩みでもありました。いつしかバルテマイは、彼らと“わたしたち”という関係性に置かれていたのです。そして、バルテマイ個人に起こされた御業は、“わたしたちの喜び”となったのです。また、バルテマイ自身がイエスさまに従うという献身の出来事も、“わたしたち”と呼び合う仲間たちと共に従う共同体の献身・・・“わたしたちの献身”のとなっていったのです。今日、Mくんという一人の若者が、イエス・キリストに従う献身の決意をし、バプテスマを受けました。この出来事が“わたしたちの喜び”であることは間違いないことですが、ただ喜ぶのではなく、この事が“わたしたちの献身”の出来事となっていくようにと願います。この茨の道の先にこそ、わたしたちはイエス・キリストによる十字架の赦しと愛とを、共に見出していくことになることを信じてやまないからです。ちなみに、Nさんの入会の証しの中にはこんな言葉が記されていました。「(Mは)世界でいちばんかわいい子、パーフェクトだと思っています」。アーメン、その通りです

 

(牧師・石橋大輔)

 

 


『 慰めがここに 』

詩編107:26~28

コリント人への第二の手紙1:3~11

2024年6月2日(日)

 

子どもメッセージ

 

  皆さんは家の人・・・母ちゃんや父ちゃんなどに、正しいことを言われているのは分かるんだけど、すんなりそれを聞き入れられない事ってないでしょうか。今週のお話の準備をする中で、僕の小学生、中学生時代の事を思い出していました。そして、うちの母ちゃんがよく言っていたことで、正しいと分かっていたものの、すんなりそれを聞き入れられなかった事を思い出していました。僕の母ちゃんは、日常のところどころで、自分が子どもであった頃、お金の面で家族がとても貧しくて、大変な思いをしながら育ったことを話すことがありました。例えばこんな事を言っていました、「母ちゃんは勉強がとても好きで、本当だったら大学や専門学校に行きたかった。でもお金がなかったため諦めるしかなかった。だから、学校に行ける事はあたりまえのことではないんだよ。勉強ができるってとても幸せな事なのよ。」。体外このような話は、うちの兄や僕が勉強に力が入らなかったり、成績が望むほどのものでなかったり、そういう時に限って聞かされたように思います。何だか・・・無理してでも勉強に励むように仕向けられているように感じ、母ちゃんの“苦労話”・・・“お金が無くて大変だったという話”は、必ずしもすんなり聞き入れられなかったのです。このように、僕は小学校、中学校へ進む中で、僕の母ちゃんの“苦労話”をよく聞かされていました。今になって振り返ると、僕の母ちゃんが、お金がなかったために苦労した話をしたのは、単純に「うちらがどれだけ幸せであるか」を伝えるためではなかったのです。その苦労の体験そのものに、大事な学びがあるから、多々口にしていたのではないかと思うようになりました。そして、兄と僕に「苦労をするように」、母ちゃんから勧められることがありました。

 僕には6歳年上のお兄さんがいます。そして、兄は、高校から大学に進む時に、お医者さんになりたいという夢を持つようになりました。その頃だったと思いますが、僕の母ちゃんはこのように僕の兄に言ったのです。「お医者さんになるのであれば、インドのマザーテレサの所に行ってきなさい」と。皆さんはマザーテレサのことを知っていますか?インドのカルカッタという大都会の一番貧しいスラム街で、食べ物を十分に得られない人、病気だけど治療を十分に受けられない人、いろんな理由で学校に行けないこどもたち・・・そのような人たちと一緒に生きた人として知られています。そのマザーテレサのところに1か月行って苦労をしたらどうだいと、母ちゃんは本気で兄を説得しようとしたのです。こういう面において、僕の母ちゃんは極端で大胆な人でした(笑)。結局、時間に余裕がなく、兄はインドに行けませんでした。でもこのようなやり取りは、僕に深い印象を与えました。というのも、今度は、僕が高校生になった時に、インドではありませんが、タイという国のバンコクのスラム街で、マザーテレサと似たようなことをなさっている、カトリック教会の施設で1週間ボランティアをする機会があり、そこに行くことになりました(バンコクのマーシーセンターという施設です)。うちの母ちゃんにこの事を話したら、もちろん大賛成でした。これだけを聞くと、僕はいい事をするためにそこに行ったように思われるかもしれませんが、実はもう一つの目的がありました。いい大学に入るために、このような経験をすると、有利になるのではないかと友人たちと話し合って、4人でこのボランティアに行くことになりました。そんなもんで、深く考えずに、軽い気持ちでそこに向かうことになりました。いざそこにたどり着くと、アメリカ人らしき男性の方が迎えてくださいました。後で分かったことですが、その人が施設を仕切っている神父さんでした。でも、暖かく受け入れられたと言うよりは、残念な表情をされました。「何も分かっていないお坊ちゃんたちが来たかぁ・・・」という表情でした。もしかしたら、僕らが抱いていた二つ目の目的がばれていたのかもしれません。少なくとも、軽い気持ちでボランティアに参加したことが伝わったのでしょう。そして、ほとんど何も説明がないまま、そこでの働きに当たることになりました。何を頼まれたかというと、とても重い病気にかかっている人たちのお世話をお手伝いすることでした。

僕がそのボランティアで訪ねたのは、タイという国でした。当時タイではHIVという感染症が懸念されていました。そのウイルスによって重い病気(AIDS、後天性免疫不全症候群)になった人たちが、僕が尋ねた施設で過ごしていました。やっかいなことに、病気を抑える薬の値段は高すぎて、ほとんどの人は買えなかったのです。そして、それだけでなく、「悪いことをした人がかかる病気」という誤った考えが(一般的で)あったため、その病気にかかっていることが分かると、家族や村から追い出されてしまう事が珍しくありませんでした。僕が尋ねたその施設で暮らしていた人たちは、住む家を失い、家族や友達とのつながりが切れてしまった人たちでした。あらゆる意味で行き場をなくしてしまった人たちがそこに住んでいました。

言うまでもなく、軽い気持ちで訪ねるようなところでは全くありませんでした。僕はタイ語がほとんど話せません。「こんにちは」と「ありがとう」しか分かりません。そこで働いていた人も、病気にかかってそこに住んでいた人もタイ語しか話せませんでした。言葉が分からないながら、そこで働く人に連れられ、ある方が寝ているベッドの横に座ることになりました。「こういうふうにマッサージをするんですよ」らしき事を言われ、マッサージのやり方を見せられ、ベッドに横たわっている方と二人きりになりました。

 この時の僕は高校2年生です。17歳です。心臓がバクバクでした。何もかも分からなく、本当にそこにいていいのかも分からず、そういう理由で心臓がバクバクであったと思いますが、気になってしょうがない事がもう一つありました。目の前の人がかかっている病気が僕にうつらないか、心配だったのです。その直前に、そこで働いている人が、普通に接しているのを見ていたはずなのですが、自分のこととなると、とても怖かったのです。もしかしたら、5分ほど、そこで何もできず固まったままだったかもしれません。

 しばらくして、何とか力を振り絞って、目の前で寝ている方の身体をさすりはじめました。病気が進んでいました。身体は細く、筋肉や関節はとても硬く、身体も冷たかったです。ところどころ、あざのような跡もありました。もう自分の力ではほとんど動けない状態でした。後々その方のお名前はキャットさんであることが分かりましたが、キャットさんはぼうっと天井を見つめているだけでした。でも、5分、10分とマッサージを続け、徐々に温もりが伝わってくるようになり、時折目線も合うようになり、その時には「こんにちは・・・サワディカップ」と伝えました。1時間ほどマッサージを続け、そこで働いている人が近寄ってきて、「もう休んでいいですよ」らしき声をかけられました。手を止めると、キャットさんは、震えながらも、ゆっくり手を合わせて小声で「コップンカップ・・・ありがとう」と言ってきたのです。それまでほとんど表情がなかったのですが、少し笑顔になりながら、そう語ってきたのです。

 そこから数日、キャットさんと時間を過ごし、「ありがとう」と伝えられ、今まで体験したことがない「何か」を教えられたように思うのです。その「何か」は僕の心にあたたかさと嬉しさを与えてくれました。24年が経った今でも残っているあたたかさです。もしかしたら、その「何か」とは「慰め」というものなのかもしれません。「慰め」・・・悲しい時に、元気づけられること・・・力を失い弱り果てたところで、力を取り戻すこと・・・心乱れるところで、平安を得ること・・・辞書を調べればそのような説明が書いてあるのでしょうが、この時それをキャットさんと一緒に体験したように思えたのです。

 聖書によると、神さまは私たちを慰めてくださいます。辛い中で出会わされるのは、共にいてくださる神さまであり、神さまご自身が必ず慰めてくださるというのです。そして、もう一つ慰めについて聖書が言っていることがあります。慰めは、分かち合うものだということです。一人に留まらないことだと言うのです。僕はキャットさんの横で、何をしていいのかが分からず固まっていた時に心配していたのは、病気がうつらないかどうかということでした。けれども、今思い返してみると、渡されたものは、神さまが与えて下さった「慰め」であったと思えてならないのです。この「慰め」はキャットさんと出会わなかったら、いただけなかったものです。

 

限界を超えるほど追い詰められる艱難の中で見つけたもの

 今日から、第二コリントを読み始めますが、第一コリントに比べると、分かりにくいと思えるのが自然かもしれません。というのも、実は、第一コリントと第二コリントが書き送られた間に、少なくとももう一つの手紙がパウロからコリント教会に送られたと推測されているからです。残念ながら、その手紙は残っていません。ですので、第一の手紙に比べると、コリント教会やパウロの様子が分かりにくく、多少抽象的になっていると言わざるを得ません。

 とは言え、パウロは極めて深刻な艱難を通らされていたことが伝わってきます。8節以降にある通りです「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟した」。肉体的にも、精神的にも、あらゆる面で限界を超えるほどの強い力で押しつけられ、どうにもならないところまで追い詰められていたのです。命が途絶えてしまうのではないかと確信させるような艱難を通らされながらも、パウロたちは「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」と語ったのです。神さまのみが助け手であり、神さまが慰め主であることに気づかされ、それをコリント教会の人たちを励ましたいために伝えたかったのです。言い換えれば、パウロとその同行者たちの証しがここにあるのです。

 

Mさんが愛した讃美歌

 昨日、私たちの教会のメンバーであるMさんが天に召されました。93年の生涯を全うしました。1月にお尋ねした時には、ため息をつく場面もありましたが、比較的落ち着いた様子で過ごされていました。誕生日祝いのため2月にご家族と一緒に食事をなさったようです。でも3月に入ってからすぐ、入退院を繰り返すようになりました。その間、面会が許される時もあり、辛い中、神さまの揺るがない助けを求めて一緒に祈りました。そして、一昨日と昨日は非常に穏やかな様子で過ごされ、そのまま召されました。

 今月23日に、「教会に響く音楽」という「讃美と証し」の礼拝をもつ予定ですが、既に2019年に同じような集会を開きました。その中で、Mさんが愛された讃美歌520番「人生の海のあらしに」を紹介してくださったのです。彼女の証しを読み上げたと思います。

 

昔、家族に大変なことがあった時、自ら命を断つことも考え、死に場所をさがしておりました。その頃、下の娘が教会に通っていたため、すがるようにして、「お母さんも教会に連れて行って。」と求めたのが、わたしの信仰の始まりです。

その後、この教会に移り、この“人生の海の嵐に”の讃美歌に出会いました。自分の人生を振り返りながら、まさにピッタリの讃美歌だと感謝しつつ歌っております。

 

Mさんは、人生の海のあらしを通らされましたが、そこで見つけたのは「救い主イエスの手に全てがある」という平安であり、慰めでした。それを証しの中で紹介してくださったのです。この讃美歌と証しに心打たれ、私たちの教会に通いはじめ、バプテスマを受け、今日も礼拝を一緒にささげているメンバーがおります。

今日の子どもメッセージでは、4節に注目しました。こういうみ言葉です、「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」Mさんが受け取った平安と慰めは、Mさんだけに留まらず、分かち合われたのです。み言葉がここで実現しているのです。

言うまでもなく、慰めの根っこにあるのは苦難です。苦難がなければ、慰めの重みは生まれません。苦難はないほうがいいといつも思わされることですが、同時に悩みがない人生ほど空しいものはないのでしょう。主が注いでくださる慰めは生きる力であり、他では絶対得られない深い喜びなのです。17歳の私は、それをキャットさんから教えられたのです。ですので、教会は悩みを持ち寄れるところ・・・悩みを受け入れるところではなくてはならないのです。溢れんばかりの神さまの慰めを分かち合って行く私たちでありたいのです。

 

   

(牧師・西本詩生)